旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

また訪れたいサモラの町

2015-04-20 16:52:16 | スペイン
《手造の旅》スペイン小都市めぐり五日目、午後。黄色い菜の花の中をはしってゆく

川を見下ろす崖の上のサモラ旧市街。

ここはポルトガルのポルトを流れるドゥエロ川の上流になる。川を見下ろす崖という立地はどこも古代から人々が住んていた場所だ。

通常観光バスは旧市街には入れないが、今回はど真ん中のパラドールに宿泊するので特別。ドライバーが警察に電話すると、なんと白バイが先導してくれてパラドールまで連れて行ってくれた.


途中、市場や

マヨール広場に建つロマネスクのサン・フアン教会

パラドールはヴィリアート広場に面している

高い建物がないので空がひらけていて気持ちが良い。

もともとアルバとアリステ公爵家の建物だった建物で最高の立地。
これはある部屋からの眺め

後年孤児院に転用されたりしていたものを1960年代にパラドールとしてオープンさせた。
午後二時近く、予定通り遅い昼食

アミューズはハッシュドポテトにバカリャオ(塩タラ)を練り込んだもの。さくっといただきます

前菜が絶品!パプリカを焼いてオリーブオイル漬けにしたものにバカリャオをのせてある。

スペインではよくあるひと品なのだが、瓶から出しただけのものとは全然違う。

メインは二種からチョイス。サーモン

サモラ・ライスは肉を炊き込んだ汁とパプリカパウダーの味がしっかり染みたお米。写真を見ていた時にはパエリアみたいに思えたが、味はまったく違った

もちろんデザートもいただきます

部屋へもどって一時間ほど休憩。
16:30から現地ガイドさんと徒歩観光スタート

実に美しい春の青空。少し田舎の雰囲気が、観光客でいっぱいのアヴィラの町よりも好もしい。到着してあるきはじめたばかりなのに、誰かが「この町はまた来たいわねぇ」とつぶやいた。

サモラは「ロマネスクの町」と呼ばれたりする。歩いているとどんどん出会う

、でも多くはいつも入れるわけではない。

こちらは11世紀の城壁の跡

町の西端にあるカテドラルへむかう。ひときわ大きな広場に面して建っているこれがカテドラル

鐘楼はロマネスクだが、入り口やその周辺はルネサンスからバロックの時期に改修された雰囲気がありありと感じられる。
実際、内部もロマネスクらしいところはあまりなく、唯一このドームがいい雰囲気で残っていた

 内部の装飾で目に留まったのはこの古びたタピスリー

祭りの時期にだけ出されるもので、かつては主祭壇の前に下げられていたのだそうだ。日本でも寺社にこういう絵があった。

カテドラル内部でいちばんおもしろかったのは、この壁に造り込まれたたくさんの貴族の墓。13世紀ごろのものから幅広い時代に分布している。

19世紀にペストの流行を怖れて、遺体が埋葬されていた壁の墓は墓碑ごと塗り込まれてしまった。その時にプレートを設置していつの時代の誰の墓なのかを分かるようにしてある。
それをやっと最近になって開け始めたのである。
壁に切れ目を入れ、そこからマイクロスコープで何があるのか確認し、慎重にはがしてゆくと・・・

時にはこんな色鮮やかな中世の墓碑があらわれる。
これもつい数か月前に発見されたとのこと。見ると、壁にはまだまだ開けていない墓碑がいくつもあるではないか。これからまだまだロマネスクの彫刻が見つかるやもしれませぬ。


この教会の解説をよんでいくと、どれでも必ず言及されていたのが宝物館のフランドルのタピスリーであった。
小松はそれほど織物装飾に趣味がないが、それでも実際に目の当たりにすると「おぉ」と、声をあげるほどの出来映えであり、保存状態もののだった。場面はトロイ戦争。

アキレウスが矢で射られるところ

服装は製作当時のフランドルのものになっているのはしょうがないです。

この大聖堂で、唯一ロマネスクのオリジナル彫刻を留めていたのは西側の入り口

かなりおもしろい植物装飾にかこまれているマリア像


**
川を見下ろす見晴場所へ



古い橋の上を観光用のプチ・トレインがはしってゆく。

「乗ってみた~い」と声があがった。
では、時間調べてみましょ(^^)《手造の旅》ならなんでもありです。
**
マヨール広場に戻る途中、さっき閉まっていたマグダレーナ教会を覗く

ここは内部よりも入口のこの彫刻が必見。

植物が生い茂る天国で、皆笑顔に彫られている。かつてはこれらも彩色されていたことだろう。


サモラの町で有名なのはセマナ・サンタ(聖週間)の行列。この時期には市内に十七ある「コフラディア」と呼ばれる町内会組織が活躍する。これはその一つの本拠地

描かれているような顔の見えない服装は「善行は誰がしたのか分かっては売名行為になる」という考え方から中世に考え出された。

街並みに出窓が多いのがサモラ風

***
さっき橋の上を走っていたプチ・トレインは毎時ちょうどにマヨール広場を出発すると分かった。最後の回が20:00広場発。お茶して待っているとやってきました

午後八時でも日本なら午後五時ぐらいの雰囲気。

料金はなんと1.2ユーロ!
これで45分もサモラの町をまわってくれる。城壁の外側へおりて

川の向こうへ渡ると

夕方の光が丘の上の旧市街を照らしている

なんと美しい空。

さっき訪れた12世紀からの大聖堂が夕日を浴びている

二両の小さな車両に、乗っているのは我々十数人の日本人だけ。街のみんなが手をふってくれる




マヨール広場にもどり、夕食代わりにカフェで軽く
パラドールに戻った21時半ごろ、やっと夕焼けサラマンカとサモラの二都市をゆっくり訪れた一日だった。
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大学の町サラマンカ

2015-04-20 10:30:29 | スペイン
《手造の旅》スペイン小都市めぐり五日目。アヴィラを出て一時間ほど走ると、堂々たるサラマンカの大聖堂が見えてきた。

イベロ族の町をカルタゴそしてローマが占領し継承し繁栄した拠点都市だったが、レコンキスタの時代には戦乱が長く続いて荒廃していた。

イスラム教徒の手から完全に町を奪回したアルフォンソ六世は娘のウラカと婿のレイムンドにこの町を与えた。
1218年にサラマンカ大学を創立したアルフォンソ9世は、彼らのひ孫にあたる。

現在でもヨーロッパ屈指の名門サラマンカ大学は、町の人口16万ほどのうち3万人以上を占めている。

バスを降りてしばらく行くと旧市街の中心となるマヨール広場へ出た。


ここはスペイン継承戦争に勝ってブルボン王朝ではじめての王フェリペ五世が、自分に味方してくれたサラマンカに感謝して造成したのだそうだ。アーチにはスペイン史で有名な人物の胸像が。これはセルバンテス⇒
この広場、もともとはアーケードのすぐ南にあるサン・マルティン教会の付属広場だったものを拡大・改良したそうな。ロマネスク様式のアーチが美しい教会だが、ひっそりと扉が閉まっている裏側へまわってみると、建物に埋もれてしまって、もとがどのようなものだったのかも見えない。地元ガイドさんによると「いつも閉まっている」のだそうな。

マヨール通りを大学方向へ歩いていくと「貝の家」が右手にみえてくる。これはスペインの守護聖人サンチャゴ(英語ではジェームス)のシンボルである帆立貝。巡礼路ではよく見られる。この建物もサンチャゴ騎士団に属するファミリーが自家の紋章にある帆立貝の図案を入れてデザインさせたのだそうだ。

「貝の家」の中庭を見下ろしているのは、すぐ向かいにある巨大なクレレシアの塔を持つ建物。イエズス会が1617年に建設し、現在はPontificia(法王の)大学となっている。

サラマンカ大学には中世以来の伝統で、卒業が決まった学生が赤字で壁にVICTORという文字と名前を書いている(もともとは倒した牛の血で書いたのだそうだ)。
天皇皇后両陛下も訪れた時に、その名前が書かれた

サラマンカ大学を代表するルイス・デ・レオン氏の像。
16世紀半ばに大学総長を務めた人物だが、その直前には宗教裁判によって四年ものあいだ獄につながれていた。現代につながる開明的な考え方をする人は、すぐに「異端」と難癖つけられてしまう時代だったのだ。それに負けない意志を示し、スペインが新たに征服した地の住民の人権などにも言及したという人物。

ESCUELAS MENORES=ミシュラン日本語版では「大学予備学校」と訳されていたが、単に「小さい校舎」ととらえる方がよいだろう。いずれにしても15世紀からの大学の建物の一部になる、美しい中庭である。

その一角に「サラマンカの空」と題されるフレスコ画が隠されている。

1480年代にフェルナンド・ガジェゴが描いたフレスコ画が暗い部屋にうかびあがる天球に星座が描かれたこの作品は15世紀に描かれたとは思えない現代的な写実性を感じさせたもとはこの場所ではなく、図書館の天井の為に描かれていたが、18世紀にそこが教会に改築されることになり設置された天井のために隠されてしまっていた。この教会がその場所
20世紀の半ばに移設しようとした時にはすでに三分の二は劣化してどうしようもない状況だったのだそうだ。つまり、ここに見られるのは制作された当時の三分の一だけなのである。

カトリック両王の時代にに設置された装飾壁には、その当時に流行したちょっとグロテスクな文様が描かれている。この中にカエルを見つけられれば学業成就するという伝説がある。どこ?
ここ・見つかります?※骸骨の頭の上です⇒
そうか、だからカエルをお土産に売っていたんです


この壁から入ると、中庭を囲んで当時は学部ごとの講義室があった。教会法、市民法、医学、文学なとと色別で別れている当時は宗教がいちばん上位にきていたのだろう、現在でも教会法の部屋は大ホールとして大学の行事につかわれていた青色の文学部は・・・偶然だろうがトイレになっていた
このアラブ様式の天井は書庫だった部屋

前出のルイス・デ・レオン氏が講義した16世紀の教室。木製の棒のような机が並んでいるだけだが、当時はこれでも上等な部屋で、普通は床に座っていたのだそうだ。ここにはスペイン王にして神聖ローマ皇帝のカール五世も聴講に来たと解説されていた。


●当時の卒業試験は、ひとりひとり教授に囲まれて質問攻めにされるというスタイル。その部屋の中央にはなんと司教の等身大の墓碑?が横たわっているなんでも歴代の司教の中でいちばんの知恵者だっただった人だそうな。受験者はこの人物と足の裏を合わせて座る。

知恵を分けてもらいながら、質問に答えるそうな。へぇ~(^^)

**
中世において、大学というのはまずは教会から派生した。
大学の教室が並ぶ界隈のすぐ南には、共に巨大な新旧二つの大聖堂がとなり合って聳えている。バスがこの町に近づいた時に最初に見えてきた塔がそれだ。
新大聖堂は1513年から建設がはじまり約半世紀で一応完成。堂々たるゴシックの天井を見上げる
旧大聖堂は1149年から百年以上かかって建設されたロマネスク建築。
主祭壇は16世紀に新調されたものその上部のフレスコ画もその時に画かれたものらしい近くの壁にはロマネスク時代からの墓やフレスコがたくさん見られる付属博物館に、昔主祭壇に置かれていたというマリア像。
そして、「雄鶏の塔」という名前の由来になった雄鶏もいた

現代の大聖堂は古いものばかりで構成されているわけではない。
現代の修理彫刻家が手掛けた部分には、なんと宇宙飛行士!そして、グレムリン?まで居ました(笑)↴

**

午後になって、今日宿泊のサモラの町までさらに一時間ほど走る。
四月。雨が降る事も多いこの季節だが、カラカラ猛暑の真夏に来るよりずっと良い。

幸いここ数日ずっと素晴らしい春の青空に恵まれ、菜の花が美しい道をゆく。
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