《手造の旅》ニューメキシコ 日本出発して、まずはテキサス州エル・パソへ。
ダラス・フォートワース空港で入国。 入国係官に対面せず、機械をつかっての入国だった。 機内で書いた税関申告書も必要なかった。 完了すると今撮影した自分の顔写真入りの薄い紙が機械印刷され、それを持って税関を抜ける。やたらと時間のかかるアメリカ入国も、これからこういうシステムで迅速になっていけばよいのだが・・・機械の精度はまだまだ。
乗継は、到着したDターミナルからモノレールを使ってAターミナルへ移動。※この空港に来ると2011年のイエローストーンの帰路にフライトキャンセルで一泊した記憶がよみがえる。その時のダラス空港でのお話しは⇒こちらからお読みください
今日は無事に乗り継いで、メキシコとの国境に位置するエル・パソへ。
高度を下げた飛行機から、荒野に地上絵のような道が縦横にはしっているのが見えた。この道はいったい何のためなんだろう?と思う間もなく、街が近づく。すると、これが分譲住宅の区画割りだったことが分かってくる。今はまだ街から遥かに離れた場所にも、将来の住宅開発を期してこんな区画がつくられていたのである。
日本との時差がー15時間。同じテキサス州でもダラスとは一時間時差があるのだ。
正午少し前のエル・パソの空港。これまで何度もお願いしてきたYさんに出迎えてもらう。ラス・ベガスからエルパソまでの出張は、ちょっと遠すぎるのだが、今回の参加メンバー全員が二回以上Yさん一緒に旅しているので、がんばって来ていただいた。
●エル・パソ空港の敷地に突如巨大な騎馬像が!小松が、これが何なのかを理解するのは、翌日の事になりました(笑)知識がないって、そういう事なんですね。
**まず向かったのは、「ミッション・トレイル」と呼ばれる、スペイン時代に建設されたカトリック教会群。エル・パソから南東にいくつも小さな教会が連なっている。 ハイウェイを三十分ほど走り、いちばん遠いサン・エリザリオ教会に到着。ここに最初の教会がつくられたのは1789年。スペインが築いた砦の中にあった軍人用の教会だった。「歴史地区」としてこんな案内がされている博物館の前に立つブロンズ像は・・・★ビリー・ザ・キッド!えらく子供っぽい姿に見えるが、彼は実際21歳で死んでいる。子供っぽくて当然か⇒義賊を気取ってこのあたりで活動した。この監獄に収監されていた友人を助けたと伝わっているのだそうだ。博物館奥が当時そのままに残されている。
1800年ごろの地図がこれフランスが領有していた中部アメリカは1803年の「ルイジアナ購入」でアメリカに編入される以前に、いちどスペインに譲渡されている。これはその頃の領土。
カリフォルニア全土を含む広大なエリアがアメリカのものになったのは、1848年のメキシコとの戦争に勝利した後。
だが、今我々が居るエル・パソは1853年の「ガズデン購入」によって、金銭でアメリカに売り渡された場所。大陸横断鉄道の建設に必要な場所だったからだそうだ。
この博物館、入場は無料、我々が入ってしばらくして、やっと管理人さんが登場。彼はアマチュア画家でとなりのギャラリーに案内してくれた。そこは、この郡からアメリカの戦争に参加した人々の写真が掲げられベトナム戦争に従軍した当時の若い彼自身の写真もあった。
現在の●サン・エリザリオ教会は1897年に建設された。パッと見て、映画「アラモの砦」を思い出す。あの舞台は同じテキサス州のサン・アントニオにある「ミッション」教会のひとつで、メキシコ政府支配に抵抗したアメリカ人入植者の話。似ているはずである。 あの映画の戦闘では負けたが、その後、テキサスはメキシコから独立国になっている。
内部は二十世紀前半の火災の後新しくなり天井の装飾がちょっとおもしろいぐらいでスペイン時代の雰囲気は外側だけだと言ってよいだろう。
18世紀末からの教会は洪水で流されてしまった。そう、このリオ・グランデをに沿ったあたりは、洪水多発地帯で、もともと先住民はそれほど多く住んでいなかったのだそうだ。現在でも水はけは悪く、前日に降ったという豪雨の名残がこんなふうにいたるところにみられた 周囲は綿花畑。いかにも南部のプランテーションだった土地である。
**ここから旧道の「ミッション・トレイル」をエルパソに向かってゆく。
●ソコロ教会 扉をあけるとかつての時代を感じさせる雰囲気があった。さっきのエリザリオとは全く違う。木造の天井は修復されているが、古い教会から再利用した材料をつかっているのがわかる↓
地元のボランティアとおぼしき方々が出てきていろいろと説明してくださった
最初にここに「ミッション」が成立したのは、1682年。きっかけは1680年にサンタフェ近郊で起きた大規模なプエブロインディアンの反乱。かの地を追われたスペイン人とそれに協力的だった部族が新しく住む場所として入植したのだった。
先住民の反乱というと、我々は単純に白人に対するものばかりを連想するが、実際には先住民サイドもたくさんの部族があり、かれらどうしの「内輪もめ」の手助けを白人に頼んでいた。「ソコロ」という地名は今もニューメキシコ州中部にある。ももともと彼らが住んでいた場所にちなんでいるのである。
「ミッション・トレイル」は通商ルートになり、1691年には建物として教会が完成した。当時あった教会の復元図が、看板に描かれていたこの建物が現在の教会の場所にあったのかぁ・・・と思ったら、前述のボランティアさんが・・・
「以前の古い教会はここから七百メートルほど行ったところにあったの。そこを発掘したら教会内部だった場所に埋葬されていたこんなのが出てきてね」と、骸骨掘り出された写真を見せてくれた。住民は古い教会の場所をずっと記憶してその場所を守っていたのだ。
「1829年から1840年まで続いた二度目の大洪水で流されてしまったあと、現在の場所に建設するのにも、昔の教会の材料は出来るだけ再利用したの。天井の木材で、模様が描かれているのが古い教会の木材だった部分よ」使われているのは松、糸杉、そして綿の木の三種類。
一番奥、主祭壇部分が横に広くなって、教会全体を十字架のかたちに見せている。が、これは20世紀になってからの増築・改装部分になるのだそうだ。たしかにここだけ変に新しい主祭壇「その時代の美しいと思われているもの」を取り入れたくなるのは理解できる。生きて使われている場所は常に変化し続けていくものだ。
正面向かって左手に置かれている「天使ミカエル」の木彫について、奇跡譚が伝わっている。1845年、メキシコシティから北のサンタフェへ運ばれていたこの像だが、運んでいた牛がこの地でどうしても動かなくなった。「これはミカエル様のこの地に留まりたいという意志に違いない」と感じて教会に安置した、というものま、よくある話でありますが(^^)「地元の人が移送途中のこの像を気に入って購入したのかも」とボランティアの彼女曰く。旧教会では主祭壇に飾られていた像だったのだそうだ。
★大洪水が終わった1840年(※この時にリオ・グランデは大きく流れを変えて、それまでこのソコロ村の北を流れていたのが南に位置を変えた。つまり、現在ならメキシコ領側からアメリカ領側に変わってしまった。) この頃から、南北戦争にいたる数十年が、この地域がいちばん栄えた時代だったのだろう。多くの黒人が働く南部プランテーションもあったにちがいない。今も周囲には綿花畑がたくさんある。
19世紀前半に、17世紀からの教会の名残を取り入れて建設されたこの教会。だが、20世紀の終わりには荒廃していた。2005年まで十年に及ぶ徹底的な改修が行われて、現在の姿をとりもどした。 古い木材も、日干し煉瓦も、ひとつひとつが再使用に耐えるものかをチェックしたそうである。当時の作業を示した写真⇒ 改修時に、発見された昔の窓があるのを教えてくれた。主祭壇まで行って入口方向を振り返ると、横にほど長く開いた窓から陽射しが主祭壇を照らしていたのがわかる↓
この採光窓は20世紀前半の増築時にいったん閉じられてしまっていた。それが21世紀の修復時に発見され、再び開口させたということ。
前出の古い教会の復元図をよく見ると、17世紀の教会にも主祭壇を照らす光を取り入れていた横長の窓があったのが分かる。なるほど、先人の知恵はしっかり取り入れて新しい教会をつくっていたのか。 この光景は、今日いちばん印象に残った。かつての「ミッション・トレイル」の姿を感じさせてくれる。
※余談「教会の入り口が東を向いているのは、インディアンの古い神への礼拝所の名残よ」と教えてくれた。 教会というのは主祭壇を東に向けて建てられる事が多いものである。
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「ミッション・トレイル」で最後に訪れたのは、
●イスレタ教会教会のまわりにたくさんの付属施設が建設されていて、今でも地域の人が集まる場所になっているのがわかる。 現在精力的に使われているということは、つまり、かつての姿はあまり留めていないということ。 正面右手にまさに「とってつけたような」ドームは鐘楼。内部も現代的に改修されすぎている。ソコロ教会のボランティアの人が「あそこはきれいになりすぎている」と言っていたのが理解できる。
唯一、壁の装飾画にかつてのミッション教会の雰囲気を再現していると思えた
★この「ミッション・トレイル」は、アメリカ側のエル・パソにだけあるわけではない。現在のメキシコ領にも続いている。
日本から到着して早々の見学で、そろそろお疲れ。国境沿いの道をエル・パソに戻ろう。