旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ネウムを抜けてストンで牡蠣を食べて、ドゥブロブニクへ到着

2018-06-13 16:16:16 | クロアチア
水道橋とサロナ遺跡で時間をとったのでそこそこ急いでストンへ向かう。
左に聳える尾根を越えるともうボスニア・ヘルツェゴビナ領になる↓左の道は「サラエボ」「モスタル」へ

海岸線のほんの二十キロ弱がボスニア・ヘルツェゴビナ領になっている。ユーゴスラヴィア時代には消えていた国境がクロアチア独立後に復活した。あの青いゲートが検問所↓

難民問題が発生する以前は、通過してトイレとお土産タイムだけのツーリストへのチェックはほとんどなかったのだが、今は一台一台・一人一人チェックが入るので時間がかかる。今日も心配していたが…バスとちがってわりにすんなり通れた。
再びクロアチア=EU加盟国へ入る時にもチェック↓※「ハルヴァツカ」はクロアチア語でクロアチアのこと

このあたりは牡蠣養殖がとても盛ん↓入り組んだ静かな入江が適しているだろう

午後一時をすこしまわって、ペリシャツ半島の付け根に位置するストンに到着した。
まずは、マリ(小さい)ストンでランチを↓

それほど選択肢はないが、ドライバーさんお勧めの、英語にすれば「キャプテンズ・テーブル」という店へ↓

アミューズで出されたパテ↓

お約束の生牡蠣↓夏のシーズンでもここなら新鮮↓

↑平牡蠣でそれほど大きくないが味は良い
↓ドライバーさんの定番オーダーは「フィッシュ・スープ」

地元常連客に人気のメニューは試す価値あり
↓グリルの野菜と魚↓

このレストランは確かにお勧めできる。混み合う時間をさけてゆっくり食事したい場所ですにゃ
↓目の前の小さな港を覗き込むと↓あれは確かにウニですね↓

どんな味なのかしらん?食べる機会あるかしらん…

★ストンは二つの部分に分かれている↓下の地図で右端の小さな町が食事をしたマリ(小さい)ストン。
↓城壁がずっと左端のストンまでつなげられているのが分かる↓

この城壁は町の宣伝文句としては「万里の長城に次いで長い」そうだが、五キロほどでしかない。
城壁はいくらでもあるヨーロッパにおいて、何故ストンの城壁がそれほどとりあげられるかというと、これは町を守るのではなくペリシャツ半島そのものへの侵入を防ぐ目的でつくられているからだ。
目の前の城壁を見ているだけではなかなか見えてこない。大きい方のストンの町に移動して、城壁も少し体感してみたい↓

↓地図からではわからないが、二つのストンを結ぶ城壁は山を越えて築かれているのだ↓

これ、かなりかなり急です↓

↓入口だけでもいいかな(笑)


↓ストンの町は14世紀にドゥブロブニクに併合されて、ローマ時代から産する塩は重要な産物であった↓今でもつくっているというのだが…


**さらに一時間弱のドライブでドゥブロブニクへ到着↓城壁をぐるりとまわり↓

ピレ門目の前にあるヒルトン・インペリアルにチェックイン↓ロビーから出城にあたるロブリエナッツ要塞が見える↓

ホテルの立地はとても重要。ドゥブロブニクの場合、旧市街またはその徒歩圏でしっかりした設備を持ったホテルはここしかないと判断した。※旧市街内に泊まる場所はたくさんあるのだが、現状は設備が十分でないように感じる…
↓このロブリエナッツ要塞もぜひ足を運んでもらいたいとおもっている↓

少しだけ休憩して午後の旧市街へ↓午前中はクルーズ船からどどっとバスがやってくるので混みすぎる、いや午後でも夏場になるとすごい混雑なのだが、今は少しましか…

小さい街だが路地に入ると意外に高低差がある↓

↓イエズス教会のところまで足をのばした↓内部のフレスコ画はローマからやってきたポッツォ作。あ、ローマのイグナチオ教会の天井騙し絵を描いた彼ですね。


食事というとサカナが続くこのエリアだが、ボスニアのチチュケバブを食べてみたくなった↓
トルコが支配していたボスニアはトルコの伝統料理もかなりおいしいのです↓いくつか店をみて決定↓このお皿は当たり!おかわりしました。(またトルコへ行っておいしいケバブ料理各種たべたいなぁ…)


夕暮れてゆくこのマジック・アワーの旧市街はどこを撮っても絵になる↓

明日は一日かけてガイドさんと共にドゥブロブニクを歩いてみようと思う。
通り一遍でない、ドゥブロブニクが再発見できますように。


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サロナ~フラネ・ブリッチが眠る遺跡

2018-06-13 11:11:11 | クロアチア

クロアチアのスプリトに近い古代ローマのサロナ遺跡の一角に、巨大な石棺に眠る人がある↓

この遺跡を発掘したフラネ・ブリッチが亡くなったのは1934年。
死の五年前、八十二歳の時に自分の入る石棺の前でポーズをとっている写真↓


1846年スプリト近郊に生まれた彼はザダルで哲学を学び、ウィーンで考古学を学んだが、結局宗教者となった。
当時このあたりはすべてオーストリア・ハプスブルグ帝国。
政治意識もあったかれは選挙で当選してオーストリア帝国議会のメンバーになったこともあった。

晩年、政治世界から身をひいて、故郷スプリトに近いこのサロナ遺跡を発掘することに専心した。
住んでいた家が、遺跡の管理事務所兼入場券売り場になっている↓

内部はポンペイを思い出させる赤い壁↓

フラネが住んだ当時の写真↓

古代ローマに似せてこんなデザインにした自らの家を「TUSCULUM」と称した。
古代ローマの上流階級が別荘をもっていたローマ近くの地名である↓

クロアチア公トロピミルの名前ある破片(きのうスプリトの考古学博物館で見た)も、もとはここにあったのか↓


外壁にも発掘で見つけたものを再利用しているが、いちばん目立つレリーフは、古代の石棺デザインを手本にスグラフィートで描いてある。↓

これは「良き羊飼い」つまりキリストを暗示するものだろう↓初期キリスト教徒の石棺からのデザインを使っている↓

スプリト考古学博物館のものと見比べると、なるほど似ている↓

こういうところは地元ガイドさんに指摘してもらわなければぜったい気づかない。
当時は発掘されたものを自分のまわり装飾品に流用してもたいして咎められなかった時代だったのだ。
★いちばん驚いたのはドン・フラネが好んで座っていた庭園にあるこの小さな噴水。
使われているおもしろい顏の彫刻たちは、なんと!↓

スプリトのドムニウス教会の鐘楼のオリジナル装飾だった彫刻。

あの塔↓(※下の写真)は、フラネが完全に再建したものときいていた。もとはこんなロマネスクな彫刻がつけられていたのか。

再建=復元する時に、オリジナルの装飾彫刻をどうするの考えはしただろう。
しかし、結果的に使えなかったこれら中世の彫刻を、自宅の噴水でこんなふうに「活用」してしまっていたとは。
今の発掘物管理の常識からは考えられないことだが、20世紀前半なら許されたのだろう。

よく見ると小噴水の石材は中世彫刻の破片がコラージュしてできている↓


***きのうスプリトの考古学博物館で出会った彼の胸像↓

歴史の波間に消えていく政治家としてではなく、後世に自分の手で明らかにしたことを遺していける考古学者として終わることができて幸いだったのではないだろうか。



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サロナ~ディオクレティアヌスの故郷、フラネ・ブリッチが発掘した遺跡

2018-06-13 10:13:56 | クロアチア
サロナは紀元前からの街。紀元一世紀にはヤドロ川からの水道も引かれていた。スプリトからサロナへいく途中、いつも道路から見かけていた古代の水道橋に立ち寄った。大型バスではなかなか行けない。千載一遇のチャンスである↓

「この水道橋はいつごろまで使われていたのですか?」と地元ガイドさんに訊ねると
「今もつかってますよ」と事もなげに返された。
※こちらにもう少し写真を載せました
**
サロナは、若きディオクレティアヌス(=まだディオクレスとよばれていた少年時代)に住んだ街といわれている。
紀元後三世紀半ばにはそこそこの町だったのだ。8世紀ごろのスラヴ人(今のクロアチア人の祖になる)侵入によって破壊され、20世紀にフラネ・ブリッチ氏によって発掘されるまで土に埋もれていた。

ドン・フラネ(司祭だったので「ドン」をつけて呼んでいたのだと地元ガイドさんが言った)が、生涯をかけて発掘・整理した成果がここに見られる↓
入ってすぐに視界にとびこんでくるのは、在りし日にはどれだけ巨大だったのだろうと思わせる教会の遺構↓

現在のスプリト大聖堂に葬られている聖ドミニウスはここで殉教したとされている↓

迫害したディオクレティアヌス帝の廟に移されるまで、この教会の中心部に彼の棺があったとされている。周囲には聖者を慕う人々の墓がたくさん集まることになった。権力者やお金持ちはそれなりの墓をつくらせて
↓このグリフォンの刻まれたものはキリスト教以前のもの?

見事な装飾の巨大な石棺は、そうそう、きのうのスプリト考古学博物館でたくさん見た。
ここから掘り出されたものたちだったのか。

教会に入るにはキリスト教徒でなくてはならなかった。
四世紀から五世紀ごろには、一年に一度キリスト教徒になる(洗礼する)ことのできる日が決まっていて、何十人もの人が行列して十字架型をした洗礼盤にどっぷり入ってキリスト教徒になったと思われる↓

その洗礼盤がこれ↓

キリスト教徒になるとすぐ横にある入口から巨大な聖堂に入ることが許された↓

復元されぐるりとまわりを囲んでいる面積はびっくりする広さ↓

↑★この壁、発掘された時には見えているものの三分の一ぐらいの高さしかなかった。上の写真でもよく見ると左奥の壁の下あたりにオリジナルの部分が分かる。
だが、ドン・フラネは「これでは一般の人が見てなんだか分からないだろう」と考えて、こんな高さまで石を積み直してしまったのだ。
※この話はクレタ島のクノッソス遺跡を発掘したイギリス人、アーサー・エヴァンスの話を思い出させる
どこまで復元するのが良いのか? 考古学にはずっとついてまわる問いだ。

ローマ式の浴場の跡↓床下暖房が通っていたのがわかる↓

しかしこういった浴場跡も、キリスト教徒によって礼拝堂につかわれることになった↓入口の左右に刻まれた十字架↓

↓こちらはローマ時代のオリジナルの舗装道路敷石↓


・・・サロナに到着して一時間ほどが経過。殉教者ドミニウスの墓や巨大な教会の遺構を見学しているうちにどんどん時間が過ぎてゆく。
サロナ遺跡は予想したよりもかなり大きな都市遺跡だった↓下の地図がサロナ遺跡全体図↓

一時間で我々が見学したのは、左右にのびる黒い線=城壁の中央部にかたまった教会群遺跡とローマ浴場、居住エリアの一部のみ。

まぁ、事前に得ていた情報ではサロナ遺跡でもっとも発掘・復元されているのは今いる初期キリスト教の教会エリアではあるのだが。
紀元前一世紀の内戦でカエサルに味方し、その結果街が発展して建設されたフォロや、西の端の円形闘技場まではとても行けそうにない。
円形闘技場はヴェネチア支配時代に対トルコ防御施設建設の為組織的に破壊されてしまっているのだそうだが。またいつか(いつ?)訪れる機会があるかしらん。

★ドン・フラネが教会の跡を熱心に発掘したのは、彼がキリスト教者だったからだろうか?
次のページで、彼がここを発掘した様子をもうすこし紹介したい。



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