旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ドゥブロブニク~城壁歩き、海洋博物館

2018-06-14 16:16:16 | クロアチア

旧港近くから城壁にのぼった。入場料は150クーナ(約¥2700)、十年で三倍になった。 しかも、いちど出たら入れない。同じチケットで同日再入場OKにしたら(パリのルーブルのように)別の団体で何回も組織利用する輩が出るやもしれない、か。 1990年代の内戦で壊された後に新しくされた屋根と古い屋根↓ ここでいつも同じ質問をされる。 「どうしてヨーロッパの屋根は同じ色なの?」 景観規制などというものが言われるずっと以前から同じ色なのだ。日本的な感覚からするともう少し色の違いがあってもよさそうに思う。 しかし、実際に屋根瓦を選ぶ・買う段階になると色も値段も選択肢はほとんどないのが現状なのだそうです(ガイドさん談)。 ↓ミンチェの塔(いちばん山側の高い場所)近くからピレ門を見下ろすと、バスケットボールコートが見えた↓ ぎっしり屋根の詰まった旧市街でここだけぽかんと広い。 ここはフランチェスコ派の修道院の裏庭にあたる場所で、かつては薬草園があった場所。 後に修道院付属の学校が建設されて、その校庭にあたる場所なのだとか。ほほう。 ** 城壁を降りてさっとランチ カプレーゼ↓本格的なモッツァレラと甘いトマトでした 焼き野菜↓ また注文しましたマグロステーキ↓ *** 海洋博物館に入る↓ ドゥブロブニクはアドリア海から地中海全域を舞台にヴェネチアと覇権を競った海洋都市国家だった。 つまり海洋博物館を見ればその歴史がつかめるということ。 12世紀に描かれたドゥブロブニクのスケッチ↓プラッツァ通りがまだ埋め立てられてあまり時間が経っていないのがわかる。 今回海洋博物館じっくり見学して理解したのは、大国の狭間での「独立」はたいへん難しいバランスの上でなんとか保っていたものだったということ。 上のスケッチが描かれた当時は東ローマ(ビザンチン)の配下。 1205年の後は第四次十字軍でザダルを陥落させたヴェネチアの配下。 ※それ以前も1000~1008年、1125~1165、1171~72、はヴェネチアに統治された 1358年にハンガリーの協力を得て、多額の年貢と引換になんとか独立した ↓下の図はナポレオンによって終止符をうたれた1808年当時のドゥブロブニク共和国領土↓※Wikipedeiaより 中世からの小さな都市国家が、通商・海運といった得意技を大国に利用させることによって、なんとか生き延びていたのか。 ナポレオンはしかし、武力で陥落させたわけではなかった。 旧市街の城壁は十九世紀はじめになってもそう簡単には攻略できるものではなく、現にナポレオン艦隊がやってきた時のドゥブロブニクは、一か月にわたりロシアとモンテネグロの軍に包囲され、三千発の砲弾を撃ち込まれながらじっと耐えている状況だった。 そこへナポレオン配下のマルモン将軍が軍を率いて登場「フランスはドゥブロブニクの味方である」と書簡を送る。 ドゥブロブニクはフランスが支援したアメリカと通商のつながりが深くそれも信用させる一助だったのだろう。 門を開けさせると、あっという間に港も市街も占領し、すべての約束は忘れられた。 その日、城壁に掲げられたすべての旗は共和国の喪として黒く塗られた。 ※ドゥブロブニク(ラグーサ)共和国は、ヴェネチア共和国(1797年同じくナポレオンにより終焉)より長く命脈を保った 城壁の大砲↓トリノで製造されたものだと刻印があった ナポレオンの傀儡国「イタリア」に編入 →ナポレオン体制解体の後、オーストリア帝国下でザダルに議会をおく「ダルマツィア王国」の一部となる。 →第一次大戦でオーストリア帝国がなくなると、セルビアなどと共に「セルボークロアチア王国」へ この時代になってもドゥブロブニクの海運力は維持されていた。支配者は変わっても人の能力は活用されていたのだ。 ↓イヴォ・ラヂッチは「アトランティスカ・プロヴィドバ(訳せば「大西洋海運)」で十四隻の蒸気船を所有していた。 別の「ユーゴスラヴィアーアメリカンスカ・プロヴィドバ(南スラブ-アメリカ海運)」の九隻と1928年に合併させて新会社をはじめた。 当時ドゥブロブニクの会社は大西洋航路に三十隻を就航させていたのだそうだ。 ※同時代のダルマツィアの中心はリエカ(イタリア領とユーゴ領にまたがる市) →第二次大戦中はドイツの傀儡国「クロアチア独立国」 →戦後、チトーの「ユーゴスラヴィア共和国」 →1991-95の独立戦争を経て現在 **** 気づくと外はたたきつけるような雨↓ 城壁を歩いている時でなくてよかった。 海洋博物館の建物は古い城壁の一角だから、雨漏りもするが↓少し休憩しよう 雨があがると城壁すぐ外のホテルへもどる。夕食まで休憩。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドゥブロブニク旧市街散歩 

2018-06-14 10:00:00 | クロアチア
ドゥブロブニクのピレ門を入ってすぐのところに大きく掲げられた女性の写真↓

彼女はクロアチアの有名な歌手で、毎年夏至の夜明けにスルジ山の頂上で無料のコンサートをひらく。その告知。
城門をくぐる。今日はクルーズ船が三隻も入っているのでこれからもっと人が増えるだろう↓

入ってすぐのところで昔から「クロアチアのハート」を1ユーロで売っている。今年も、ちょこっと写っております↑
ガイドブックに必ず載っている15世紀にナポリの建築家オノフリオが建設した噴水↑右に丸くみえている
↓その向かい側にある17世紀の礼拝堂↓

この礼拝堂は1520年に起きた大きな地震の後に、その地震で死者がでなかったことを感謝して建設されたことをはじめて知った。
↓そのことが書かれた額↓

このあたりはヨーロッパでは地震が多い地域なのである。

となりのフランチェスコ修道院に入る↓

五百年以上の歴史があるという薬局が有名↓

中世では重い病気にかかると他者にうつるのを懸念して城門の外にあった修道院に収容されるのが通例だった。
フランチェスコ派の修道院も15世紀まではピレ門の外にあったのだそうだ。
16世紀には城壁内に移転した↓下の絵は1520年以降1667年のものだと分かる
※この二回の地震で建物が大きく変わったのでそれが分かる↓

現在の修道院回廊はこの絵の当時にはすでにあって、1667年の地震以降も残された貴重な場所↓
ロマネスク風な彫刻がたくさん見られる↓下の写真で右の柱にある男は虫歯で顔がふくらんでしまっている↓

↓回廊の一角に掲げられた棺がある↓以前からあるのは知っていたが今回はじめてそれがゴジェ家のものだと知った↓

ゴジェ家GOZZEというのはイタリア語の名前で、スラヴ語(クロアチア語もその系統)ではGučetićと表記される。とてもカタカナにできません(笑)
ドゥブロブニク共和国の貴族のひとつで、18世紀の当主の妻マリアがこの修道院に多大な貢献をしたのだとか。
※このあたりの細かい話、次回訪れた時にガイドさんにもっと確認します
**
昔は海だったプラッツァ大通りを歩き始めてすぐ右の路地に●「捨て子養育院」の跡があるのをおしえてくれた↓

★これについてはこちらに書きました

現代の●モスクも近くにある↓ランプに緑色で書かれていなければちょっと分からない↓

ユーゴスラヴィア時代にはイスラム教徒の多いボスニアとも同じ国だったから、こういう場所も必要になったのだ。
さらに、●セルビア正教のための教会もある↓

当時の正教会が定めた規則により、道路より少し高く、通りよりも五メートル離して、本堂がたてられたのだそうだ↑

●イグナチオ教会への階段は、ローマのスペイン階段をモデルにしてつくられた↓

そう思って見ると、ああ、そうかもね↑
イエズス教会はきのう訪れて、ポッツォ作の祭壇画も見学していた。今日は教会を背にして右側にある、この古びた建物の方が気になった↓

訊ねると「ドゥブロブニクではじめての学校だったのです」と、ガイドさんがおしてくれた。
学校は当初宗教団体が運営していたというのは洋の東西を問わない。
イエズス会はその強力な活動が都市指導者に警戒されて、18世紀ごろに多くの町で追放の憂き目に遭ったのだが、ドゥブロブニクではだいじょうぶだったようだ。
頑丈な建物は今でも使われている↑

市庁舎の前にある●小オノフリオ噴水↓

ピレ門を入ったところにある大きな噴水からさらに水を引いて同じ15世紀につくられた。
※大きい方のオノフリオ噴水を上から見た写真を2015年に訪れた時のブログからごらんいただけます
この小噴水をつくった理由、町の端と端にあった方が便利だから…だと思っていたが、そうではなかった。
小噴水の近くにはユダヤ人の居住地区があり、同じ噴水からの水を使うのを嫌った上流階級がわざわざもうひとつ小さな噴水をつくったというのである。

↑上の写真で噴水の右上壁に掲げられたプレート↓市庁舎の壁である

これは1925年に、中世クロアチア王国最初の王である●トミスラフの戴冠千年を記念したものだった。

・・・次は城壁ウォークへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする