旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ザダルまだまだ見所たくさん

2018-06-10 18:18:18 | クロアチア
ザダルの見所は一日で追いきれないと、地元ガイドさんと一日いっぱいい歩いて気付いた。忘れないようにできるだけ書いておきます
「●聖クルシュヴァン教会の後陣がザダルでいちばん美しいロマネスクだと思います」
と、ガイドのアンナさんの言葉に小松も納得↓

だが、美しい後陣の前の小さな広場にテントを大きく開いたカフェがあるので正面から全体を見る視点がないのが残念。

スラヴ語で「聖クルシュヴァン」はイタリア語で「聖グリゾゴノスGrisogono またはCrisogonus」、英語で「Chrysogonus」という表記になっている場合もある。
ローマの兵士だったがキリスト教徒となりディオクレティアヌス帝によってアクイレイア(ヴェネチアの東に位置する遺跡が残る街)で斬首される。遺体は海に捨てられたがザダルの司教ゾイルスが見つけて埋葬したとされる。
↓こちらがファサード部分。均整のとれたロマネスク↓空白になっている部分にはもともとなにかあったのかしらん…

左に少し写っている銅像はPetar Zoranićという16世紀の詩人
教会内部にはフレスコなど残されているそうだが入れなかった。
**この日のランチ
・タコサラダ

・イカ墨とアーティチョークのリゾット↓


**
19世紀まで住民の半数はイタリア人だったそうだ。イタリア人用のリタイヤ施設↓

近くの民家の壁にかかげられた聖画には↓

↓背景にナポリのヴぇスビオ火山が描かれている↓

***
●フランチェスコ派の修道院は今でも活動している↓なんどもあった大きな地震に耐えてきた中庭↓

墓碑
教会堂内↓

今も使われている庭への入口にはフランチェスコの弟子であるアントニオの姿。百合を持っているのでそうとわかる↓

****
●聖マリア教会と修道院は古代ローマのフォロに面した場所にある↓

「ザダルの金と銀」という博物館には黄長な宗教記念物が収蔵されている。これらは第二次大戦中にドイツの傀儡政権に略奪されそうになったが、付設の塔の基部に隠されていたのだそうだ↓修道士が住むこの壁の向こう側になる↓


●ナロードニ広場
ローマのフォロが6世紀の地震によって破壊されて以降、中世ザダルの中心はこの広場に移っていた↓

ヴェネチア支配時代の最後にザダルの総督だったアンジェロ・ディエドという人物が自分の名前を刻んだパネル↓
年号は1792年

ヴェネチアの伝統として、個人の業績を記念碑に刻ませないというのがあって、ザダルではその人物が離任すると名前の部分が消されていたのだそうだが、これはそのままになっている。
向かい側の建物にある16世紀のプレートでは確かに名前の部分が削られているのがわかる↓

先のプレートの名前が削られなかったのは、1797年にヴェネチア共和国がナポレオンによって終わってしまったから。

●ザダルの「隠されたカギ」
現地のガイドブックをめくっていて、廃墟になった教会の写真に目が留まった↓

ふくらんだ花びらの形はロマネスク教会の跡にちがいない。
「これって、どこにあるのですか?」とアンナさんに訊ねると、嬉しそうに町の地図に小さく載せられていた印をおしえてくれた↓

ザダル市が「シークレット・ザダル」のシンボルに選んでいたのである。

9世紀のストモリカ礼拝堂跡は海に近い道路際にあった↓ほんとうに小さな、しかし均整のとれた建物だったのが感じられる。

16世紀に海沿の壁を建築する際に壊されて、この基部だけが地下にのこされていたのだが、1967年の発掘によってこのようなかたちが見られるようになった。

●聖シムン教会は、南側の壁はなんと五世紀から残されているという↓

事前に調べていた、内部にある14世紀につくられた聖シムンの棺は見もののようだが、「ほとんど見られない」そうな。
いつか見られる機会があるかしらん。

●五つの井戸の広場はヴェネチア時代にザダルの陸からの入口につくられた。ここはローマ時代から城門のあった。

古代の城門が発掘されている↓

中世よりも古代の門のほうがずっと大きかった

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ザダルの現代アート

2018-06-10 16:16:16 | クロアチア
旧市街のある半島の先端に、2009年に設置された「太陽への招待」という現代アート作品↓

ガラスの下に太陽電池パネルがあって、昼間に逐電して夜光る↓きのうの夕方↓

いちばん大きな円は太陽を表し、小さな円は惑星だったのか

円周上にザダルにある(かつてあったものも含む)教会の聖人の名前が書かれている↓

***
すぐちかくに、同じニコラ・パシッチ氏の作品「海のオルガン」がある↓
この鍵盤には今日になって気が付いた↓

潮の満ち引きで不思議な音を出すしかけ↓

※こちらyoutubeに昨夜の散歩を載せました

ガイドさん曰く、冬場の波が荒い時期にはとても大きな音になるとか。
「近所迷惑じゃないですかね?」と質問すると
「最初設置された時にはあのへんの(と近くの家を示す)住民が怒って、夜の間は止めるように市に求めたよね」
だが、結局は慣れてうやむやになって今日に至っているそうな。
音が聞える近隣の部屋は住民が観光客に貸し出しているのだそうな。
****
今回の旅で、いちばん予想外の光景がこれ↓

9世紀のドナート教会の内部に入って目の前に九メートルの像が見下ろしていたのだから

●アンテ・ラヂッジという現代彫刻作家の作品。それにしても、これは誰?モデルは?
ガイドさんに「LOSINJ APOXIOMENUS」だと書いてもらい、それを検索してやっとわかった。
1998年に、ロヒニ島(ザダルから北へ、イストラ半島への途中)近くの海底からベルギー人のツーリストダイバーが見つけたギリシァ・ローマ時代のオリジナルブロンズ彫刻。
海底から腕が出ていたのをたどっていくと、ほぼ全身が完全な形でみつかり、当時考古学界で大きな話題になっていた。
慎重に修復がすすめられて2006年に一般公開。
2008年に小松がスプリトを訪れた時に展覧会をやっていたのを思い出した↓

このポーズは古代ローマのアスリートが専用の道具で身体を手入れしているところ

身長高195㎝、10㎝のオリジナルの台座に乗っている↓

↑※上の写真は別の都市で巡回公開していた際のものです

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ザダルを歩く~ストシャ大聖堂、フォロ

2018-06-10 12:12:12 | クロアチア
ザダルの12-13世紀のロマネスク様式の「ストシャ(アナスタシア)大聖堂」↓
均整のとれたファサード。上部の小さ目のバラ窓は後代に開けられたもの。

内部↓

左側廊の突き当りに、ストシャの遺骨がおさめられたシンプルな石棺がある↓


近づいてみると↓上部に由来が刻まれている

もともとコンスタンチノープルにあったものを、聖ドナートがここにもたらしたのだと記されている。
★ストシャはザダルの四人の守護聖人の一人
紀元後三世紀末ディオクレティアヌス帝の時代に現セルビア領シルミウムで殉教した女性。
コンスタンチノープルにあった遺骨を東ローマ皇帝ニケファロス一世がここへ譲渡した。
その移送と保管の命をうけたて9世紀ザダルの司教ドナートゥスがつくらせた石棺だった。
※彼が建設させた円筒形の大教会についてはこちらに書きました

交流のあった東方教会の中心アヤ・ソフィアのマトロネオと似た二階の手すり↓

ここへ上がってゆく階段の扉↓

ミサで歌う女性たちが足早に登っていった。

***
現在見えている聖堂の姿がどのぐらい中世の姿を再現できているか、注意深く検証する必要がある。
たとえば、ファサードにある緑色の石をはめこんだフリース装飾↓※像の下の部分横長↓

これは19世紀の復元時に追加されたのだという。
現代の復元ではなかったものを追加するなどぜったいありえないが、19世紀の復元とは「美しさを復元する」ことが目的だったから、時にこのようなこともおこなわれた。
この話を知ってから鐘楼を見あがてみると、同じような色石装飾がめについた↓

鐘楼は15世紀半ばヴェネチア支配時代と解説されるけれど、調べてみると今現在見られるものはトーマス・グラハム・ジャクソンというイギリス人が1893年に復元完成させたものだった。

****
大聖堂の前小さな広場の敷石は一見とても古いもののように見える↓しかし、一角に年号のプレートがある↓

1892年に敷設したとイタリア語で書かれている

戦争で落とされた爆弾の跡がある↓この扉は大聖堂に向かって右側すぐのところにあるのだが、この場所に着弾した↓新しく敷きかえられたのがわかる


↓こちらはフォロに立つローマ時代の柱すぐちかく↓

直撃されなくてほんとうによかった


この柱には九世紀ごろの石版がとりつけられている。十字架とそれを囲むストランダ(組紐文様)が中世クロアチアの初期キリスト教文様によく用いられている↓




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ザダルを歩く~ヴェネチアの城塞跡

2018-06-10 11:11:11 | クロアチア
ザダルで宿泊したバスティオンホテルはその名の通り城塞の跡だった↓※左の丸い建物は19世紀の一般集合住宅

↑昨夜到着して夕食を食べたレストランの下が六角形の砦だった。レストランの名前は「カステル」
1202年、第四回十字軍をつかってザダルを陥落させたヴェネチアが軍隊を駐屯させていたのである。ザダル市民を監視するための城塞だったから、大砲は市内を向いている↓

↓下のモデル写真で右下角にこの場所が見える↓

※ヴェネチア支配はすぐに定着したのではなく、何度も奪還された後、1409年にハンガリー王に大金を払って買い取った

城塞は14世紀と15世紀に拡張された。前出のモデル写真で左下に見える跳ね橋式の新たな入り口部分の建物がのこされている↓教会ではありません

ヴェネチアの紋章「サン・マルコのライオン」↓

すぐそこには税関倉庫がある↓1752年建設、まだまだヴェネチア時代のもの

砦が面している「三つの井戸の広場」↓井戸は1761年から

正確には井戸ではなく雨水を溜めて利用していたチステルン(貯水槽)
ここは海に突き出した半島だから掘っても真水はでない。
雨水を溜める同じシステムはヴェネチアにもよく見られる。

広場にある「城塞の聖母教会」↓

内部には近隣から深く信仰されている聖母子のイコンがある。それに触発された現代作家の作品↓
←この画家は昨年亡くなった。すぐ近くに暮らしていて西暦二千年にこの路地のイコン画を奉納した
**
巨大タンカーを所有する海運会社タンケルスカ・プロヴィドバのかつての本社↓

1955年チトー時代に創業し、クロアチア独立後にはオーストリア資本の手助けを得て現在も好調。クロアチアは伝統的に船舶関係で優秀な人材を多く輩出している。
★2015年にリエカを訪れた際にタイタニック号の船員の多くがクロアチア人だったというはなしを思い出した。※こちらのページからリエカ訪問の時の話を書いています

※一昨年放送の「未来世紀ジパング」によると、1970年代に五千人以上いた日本の船舶関係の人材はいまは二十分の一の二百数十人となってしまい、日本郵船は国立スプリト大学に特別コースをひらいて優秀な人材をリクルートしているのだそうだ

***
半島の対岸にたくさんの会社倉庫が軒を連ねている。そことここを行き来するのに便利なのがちいさな渡し船↓

「5クーナ(90円ほど)で四十分を節約できるのよ」とアンナさん
ヴェネチアも運河の渡し船が活躍していたっけ。
****
四百年近く続いたヴェネチア支配の名残は町のあらゆる場所に残っている。
古代の門の上にヴェネチアのライオンが乗せられた「グリゾゴノス門」↓

↓陸側からザダルの半島へ、いちばん目立つ正面入り口にもヴェネチアの翼のあるライオンがみられる↓


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ザダルを歩く~ローマのフォロに建つ旧ドナート聖堂

2018-06-10 10:10:10 | クロアチア
ザダルを象徴するのは、古代ローマのフォロに建てられた円筒型の聖ドナート聖堂だろう↓

右側にそびえる塔はこの教会のものではなく、カテドラル(ストシャ大聖堂)に属している。
※別項目で書きます

旧市街のど真ん中にこんな広い空間がひろがっているのは不思議じゃないか?
ガイドブックにはあまり書かれないが、第二次大戦前までは建物でいっぱいだったのだ↓
古い絵葉書を見ると円筒形の聖堂が民家の屋根の上に見えている↓

※「ザダルの今昔」というページから↓

↑爆撃で完全に破壊された建物の下から二千年前のローマが現れた↓

「アドリア海のドレスデン」と形容されるほど破壊された。第一次大戦後にイタリア領になりイタリアが降伏した後にはドイツの傀儡政権が支配したので、アメリカ・イギリスの連合軍により爆撃され、街の六割とも八割とも言われる地域が被害をうけた。

そういう現代史があったからこそ、こうしてローマのフォロを歩く自分がいる。
**
聖ドナート教会は九世紀ごろに建てられたとされている。
基礎部分に破壊されたローマの円柱などがごろごろ使われている↓

破壊したのは人間ではなく、六世紀に起きた地震。
東ローマ帝国(=後世にビザンチン帝国と呼ばれる)はキリスト教の国家だったので、神殿の残骸を教会に転用する。

↓内部で見える基礎部分に、逆さにされた「IOVE(英語や日本語でジュピター神と呼ばれる最高神の名前のラテン語表記」と読み取れる石がつかわれている↓

教会に入ると、入り口から一メートルほど下がって床になっている↓


もともとの教会床は上の部分で、19世紀の発掘の際、古代ローマのフォロを掘り出して見られるようにした↓



九世紀に教会を建設したのは、現在の名前になっているドナートという人物。彼が生きている当時には「三位一体教会」という名前だった。

建設開始後に「やっぱり二階建てにしたい」とリクエストしたので、当初の壁の外側に壁に沿った階段がつくられた↓
現在の外壁は階段の外側にさらにつくられた二重のもの
階段を上がったところからローマのフォロを見下ろす↓

↑地面に基礎だけ見えているのは古代のバジリカ(教会ではなく集会場であり裁判なども行われていたとされる)

階段をあがりきったところにある閉じられた扉↓九世紀のオリジナル時代から大司教の館への通路があった↓二十世紀の「修復」で閉じられてしまったという、

地元ガイドのアンナさんによると、となりの司教館も九世紀にさかのぼる構造をもっていたのに一見普通の民家のようだったから取り壊されてしまったのだそうだ。
※翌日ご一緒した地元ガイドのイワンさんは「その当時はイタリア支配時代だったのでスラヴ主義のドナート司教の館は知らん顔で取り壊した」という解説をしてくれた。何が真実かなどとは決められない

外側からみて、大司教館があった部分↓フォロの地面がそこだけ新らしい石に代えられているのがわかる↓上部に見える閉じられた入り口↓


二階部分から堂内を見下ろす↓

木製の円形天井も間近に見える↓


この教会は18世紀末にナポレオンによって教会としての機能を止められた。祭壇はじめ装飾はすべてはぎとられて石材構造が剥き出しになっている。

・・・それにしても、堂内に入って↓
目の前に見上げた巨大な白い像は何?↓

後日別に書きます

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