旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

スプリト到着・街角歩き

2018-06-11 20:20:00 | クロアチア
旧市街ど真ん中のホテルから歩き出すとこんな顏が見下ろしていた↓

パッと見遅くとも14世紀までのロマネスクの雨どい口か。左側が欠損していたものを右に合わせて修復し、復元した壁に貼り付けてある。※二日後にサロナ遺跡を訪れた時に発掘復元したフラネ・ブリッチ氏の事を知って、復元の真実を知った。またあらためて。
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街歩きが楽しいスプリトの旧市街に泊まりたい。だが大型団体利用できるタイプのホテルはひとつもない。駐車場からこんな路地を入ってホテルへ着いた。ポーター役をする若者に荷物を持ってもらってほんとによかった。

チェックインして

部屋へ入ると「オダリスク」がどーんと待っていてびっくり↓ま、デッサンの名手アングルはきらいじゃないけど

六月は午後五時を過ぎてもまだまだ昼間、さっそく街角歩きしましょう
旧市街の中心に聳えているのは↓聖ドミニウス教会の鐘楼↓

↑塔の右側に見える八角形の建物が元ディオクレティアヌス廟で↑現聖ドミニウス教会本堂

ディオクレティアヌス帝がが暮らしたエリアへの入口に天井がぽかんと開いた部屋がある↓

某日本のガイドブックには「天井が落ちてこんな風になった」と書かれていたが、そんな復元ではない。
地元のガイドさんともお話していたのだが、古代に神にささげる燔祭の煙を空に届かせるために開けられていた天井にちがいない。

ディオクレティアヌスの邸宅西側の出口=鉄の門から、壁の外に中世に出来た旧市街へ出る。鉄の門の上にある鐘楼↓

この壁の中にあった小さな教会(ステファノ教会ときいたことがある)は、今はなくなってしまったが、北の黄金の門の上に今もある聖マルティン教会にもこんな鐘楼があったのかしらん。

旧市街の路地で突然であったロマネスクの小聖堂↓

こういう出会いがあるから街歩きはやめられない(^.^)
細部なかなか魅力がある↓

検索しても少なくとも英語の解説したものはまったく見つからない。
こういうレアものについては、地元ガイドをしている人のなかでも情報を持っているひとは限られるだろう。
記憶にファイルしておいて、いつか(いつ?)もっと知る機会があればよいと思う。

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少し早目の夕食を、城壁ちかくにたくさん並んでいる店のひとつで

クロアチアは地中海でのクロマグロ養殖の一大拠点。2015年にカリ・ツナ(「美しいマグロ」の意味?)社を日本企業が買収してから拍車がかかった。2017年にはヨーロッパのマグロ需要への供給拠点になる工場をたちあげている。やっぱりマグロステーキ食べなきゃ↓

素材がいちばん(^.^)

二〇時半をすぎてようやく傾いてきた光が、さっき見た時代のちがう二つの鐘楼を照らしていた↓



明日は一日かけて地元ガイドさんとスプリト旧市街を歩く予定です(^.^)

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トロギールをちょっと散策してルネサンスの天井に気付く

2018-06-11 15:15:15 | クロアチア
ニンでだいぶゆっくりしたのでトロギールでは一時間程度
城門を入る時に鐘楼の向こうに大きく飛行機が見えた↓

トロギールはこの城門から旧市街の向こう側の城門までただ歩くだけなら五分もかからない小さな島=旧市街
ヴェネチア支配下にあった時代に建てられた鐘楼はヴェネチアのサン・マルコ聖堂のものとそっくり。
13世紀のキボリウム(天蓋)↓

堂内への門はラドヴァンという石工が十三世紀につくったもの↓



※これについてはこちらに書いております
今回新たに注目したのは、初代司教イヴァン・ウルスニの礼拝堂↓

ラドヴァンの二百年ほど後にイタリアでドナテッロに学んでいたユライ・フェレンツィナッツが手掛けた。
世は完全にルネサンス。天井が特にギリシャ・ローマ時代を再現している。
もうひとつの礼拝堂の天井も↓ああ、ルネサンス

上の天井のお手本は、近くのスプリトに残るディオクレティアヌス宮殿内ジュピター神殿からだろう↓下の写真はスプリトのジュピター神殿入口

↓そっくり!
千七百年前のこの古代ローマの装飾を、五百年前のフェレンツィナッツはモデルにしていたんじゃないだろうか。

イヴァン・フェレンツィナッツは二百年前のラドヴァンをはじめとするロマネスク彫刻もたくさん目にしていた筈。
だが、当時の彼は古代ローマの美術表現の方が断然気に入ったということだろう。
フェレンツィナッツの目にはロマネスクはただのヘタウマに見えていたのかもしれない。

古い階段を登り
鐘楼に登ると、ちょうど教会の屋根瓦をあたらしくしていた↓


失われてしまったロマネスクの教会跡↓

※これについては以前こちらに書きました



こちらの路地の左にあるトロギール最古のロマネスク教会は一度も開いていたことがない↓




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ニン~戴冠の教会と中世の船「コンデゥーラ・クロアティカ」

2018-06-11 12:12:12 | クロアチア

ニンの小さな島から車なら五分も走らない小さな丘に、一度見たら忘れられない小さなロマネスクの聖堂がある↓

以前、道路からその姿を見てはっとしたのだがバスを止められなかった。今回は念願かなって近くに行ける(^.^)

平原の中になぜかぽこんと出た土盛り↑小松には古墳のようにみえるのだけれど、地元ガイドさんは自然のものだという。
だが、教会がつくられる以前からスラヴ民族が埋葬されていた小山だったのだそうだ。やっぱり…人工の古墳じゃないのかしらん。
12世紀の●聖ニコラス教会という表示があるが、実際にはそれだけでは語れない歴史がある建物↓
伝説的に語られる歴史では、ニンに住んだ七人のクロアチア王が人々が見守る中、ニン島からこの小山まで馬をすすめ、丘に登り司教から冠をいただいたのだという。
古い時代のの礼拝堂は上部がこのような砦のかたちではなく、二階建てで小さなドームがあったと推察されている↓

↑ヴェネチア時代に見張り塔に改築された際に上部が砦構造に改築された。

建物の持つ魅力とは、それがオリジナルであるかどうかや大小に左右されない。
周囲の環境、見えてくるプロセスや高さ、いろいろなものが混ざり合って醸し出される。
人が設計して予定して出現させられるものではない。
こんなふうに偶然に、しかし必然に、歴史の片隅に姿を留めている。

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ニン島の中にある●聖十字架教会も忘れられない小さなロマネスク↓

なんと9世紀からの構造をそのまま残しているという
ここはローマ時代には住居があったエリアで、現在周囲にみられる石の土台はその跡

キリスト教時代になり、この教会が出来てからは墓地となった

内部はとてもシンプル↓


かつてここにあった装飾物はすべて博物館に移された。
子供たちが自国の歴史をまなびにやってくる場所↓

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●考古学博物館は正面の赤い建物↓

ここに島の入口につないであった黒い小舟の本物がある↓

ニンの港の入口付近の海中から発見された↓下の写真でニン島を守るように伸びている砂州の先端あたりだったそうだ↓

炭素年代測定の結果11世紀ごろ、つまり中世クロアチア王国の時代のものとわかったので
「CONDURRA CROATICA(クロアチアの船)」と名付けられた。
パッと見て、オスロ(ノルウェー)にあるヴァイキング船博物館を思い出した。
遠く離れた北欧の? と、思うなかれ。
ヴァイキングと呼ばれた彼らは木製の船ではるかな距離を南下し、シチリアにノルマン王朝をうちたてたりしていた時代である。
造船の技術というのが伝わるのは案外早かったのではないだろうか。
近づいてよく見るとオリジナルの材料を最大限使って復元してある↓

頑丈な作りで、商品輸送にもはたまた戦闘の際にも使われたと考えられている。
近くの古代ローマの旧港で見つかったより古い船がこれ↓

こちらはローマ人より前にいた先住民族の名前から「SERILIA LIBURNICA(セリーリャ・リブルニッツァ)」と名付けられた。
これら水中から見つかった船はニンの博物館でなければ見られない品である。

考古学博物館にはもちろんローマ時代の解説も多数ある↓こんな巨大神殿があったのか↓

実際の場所に復元されているのは一本の柱だけだが↓

↓中庭に展示された石造物は古代から近代まで多岐にわたる↓


小さな博物館なのでニン島で二十分よけいに時間があれば寄ってみたい。もちろんしっかりした解説付きで。






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ニン~クロアチア王国発祥の古都

2018-06-11 10:10:10 | クロアチア
ザダルの北15キロほどのところにある古都ニンへ向かう。途中、ザダルの旧市街が見える場所でストップ。
市街地に降りた円盤は何?↓

バスケットボールのスタジアムだそうです

ニンは長さ五百メートルほどの小さな島。周囲が干潟になっていて「運河のない小さなヴェネチア」といったら分かりやすいだろうか。
※ニンのツーリストサイト こちらの空撮写真を見るとよくわかります
古代ローマの時代にはAENONAと呼ばれて巨大な神殿のある整備された街だった。それ以前のイリリア人も住んでいた。
そして、中世クロアチア王国の首都となった。

16世紀の橋で島へ向かう↓入口に立つ銅像はクロアチア公ブラニミル↓

クロアチア公という地位を東のビザンチンの元から西のローマの力を使って独立させたとされる人物。
彼は十字架をローマの方向に掲げている姿なのだそうだ。
銅像は2007年に設置されたばかり↓



重厚な橋は、昨年に洪水で一部が破壊された↓

島に近いあたり↓

↓洪水の時の写真が掲げられていた↓島が半分水没している

橋を渡りきったところに町の入口となる門がある↓中世風に再建されている

ニンの紋章はこんな↓


右手を見ると黒い小舟が浮かんでいる↓知らなければまったく気に留めそうもないこの船があとで博物館で見る「コンドゥーラ・クロアティカ」の復元だった↓


門をくぐると道はY時に分かれていた。左は真っ直ぐ南北になっていてローマ時代からの「カルド」であるのが分かる。

↑右の道を行って門を振り返ったところ
右側にそれていく道は中世にできたもので少し歩くと大きな鐘楼がたっている↓

守護聖人アンセルムの教会は最初六世紀に建造、スラヴ人系のクロアチア人の王ズヴォニミル統治下の1070年に石造りのものに換えられた。現在みられる18世紀の教会の下に11世紀の遺構が少しだけ見られる↓

教会内部↓右奥に11世紀からの礼拝堂が残っているそうだ↓

近づけませんが

ブラニミル公からはじまる独立したクロアチア人の国は百八十年ほど続く。ニンはその最初の首都であり、宮殿はこの教会のすぐとなりにあったとされている。

修復した教会の北側壁↓

あきらかに前の教会に使われていた石像が左右にはめこまれている↓


すぐそばに司教グレゴール・ニンスキーの像↓

これはスプリトで見た巨大な像の人物と同じ
★詳しくはこちらに書きました
彼がトミスラフ王と対立していたのがこのニンにおいてだった↓
今日のガイドのイヴァン(イワン)さんによると、銅像を作成したイヴァン・メシュトロヴィッチは繰り返しグレゴール・ニンスキー司教をつくっていて、彼の信奉するグレゴール文字が生かされていた時代の町には聖書が開かれたヴァージョンが設置されているのだとか。確認できなかったけれど、見てみたい。
スプリトの町にはメシュトロヴィッチのアトリエが美術館記念館になっているそうなので、訪れる機会があればよいなと思います。

近くのチステルンの蓋にグレゴール文字が刻まれていた↓


・・・実はニンにはもっと美しいロマネスク教会が壊されずに残されている…次へ


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ザダル~考古学博物館

2018-06-11 08:08:08 | クロアチア
聖ドナート教会がそびえる古代ローマのフォロの目の前にある1974年からの建物がザダル考古学博物館↓下の写真で円筒形の聖ドナート教会の向かい側(右)に写っている横長の白い建物↓

↓パノラマ写真↓右から、聖マリア教会・修道院、考古学博物館、円筒形の聖ドナート教会、一般の建物(第二次大戦での爆撃をまぬかれた)、左端にちいさく古代ローマのフォロの柱「恥の柱」(中世に犯罪人をつないで曝したことにゆらいする)

考古学博物館は現在の建物に移る前、ナポレオンによって教会ではなくなっていた聖ドナート教会だった。
9世紀からの建物に物置のように収蔵品が入っていたということか。

現在の博物館はきれいに整備されている。
最初は二階の●古代ローマの展示から見始めるのがよい。
古代ローマのスタートは「ロムルスとレムス」と狼↓狐ではありません

ローマ兵士の墓碑↓名前の左右に兵士のすね当てが描かれている↓

その近くにすねあてそのモノが展示されていた↓

ローマ軍団の兵士は定められた兵役を終えると土地を与えられて新しい街に揃って入植していた。そうして、ローマ帝国の各地に新しいローマスタイルの町が広がっていったと言ってよい。リタイアしてもローマ軍団の兵士であったことは特権であったし、生涯の誇りであったのだろう。
墓から見つかった「元ローマ軍団兵士証明書」↓

これはトラヤヌス帝時代のものでダキア(現ブルガリアあたり)を戦った兵士のものだそうな↑

↓ローマの水道管は何十キロも付設されていた↓

↓サイコロってこの時代から現代までまったく変わってないのですね↓

今は消滅してしまったミトラ教の神像↓

↓この石の台は上部にあった石のテーブルで生贄を殺し、その血を下から流したのではないかと推察されている

古代ローマのセクションの最後には、明日我々が訪れる予定のニン島から発掘された皇帝の立像↓

中央には神格化されたアウグストス帝(半分裸体であらわされているので神)、右側は最高神技官の姿をした(トーがを頭にかぶっていることからそれがわかる)二代皇帝ティベリウス。
ニン島は長さ五百メートルの小さな島だが、古代ローマの時代から巨大な神殿が立ち並んでいた。この立像ももともとは八体あったと推察されている。
クロアチア王国発祥の場所として知られている。
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●初期キリスト教のセクション
十二使徒の姿が描かれた円錐形の容器は遺骨入れ?
右下のガラスのツボはまさにそう。初期のキリスト教徒は古代と同じように火葬して遺灰を骨壺に入れるという方法もとっていたらしい↓

↓奥の四角い箱は、よく見るとプラスチック↓

もともと木製だった部分が失われていたので銅に金銀でめっきした装飾部分だけをあらたにこのような形で復元したのだ。
新しい、分かりやすい展示方法だ。

二階の窓から聖ドナート聖堂がきれいに見えている↓

この丸い聖堂は輪切りにするとこんなふうになっていて↓

天上の木製梁部分だったと思われる木材が、二階の床部分から二本見つかっている↓


●中世クロアチア王国時代のセクション
九世紀にはじめてCROATという部族の名前が刻まれた教会の装飾と思われる部分↓

ブラニミルの名前も見える、彼は初代クロアチア国王となるトミスラフの二代前の支配者。
ニン島の宮殿に住んでいたとされている。
中世クロアチア王国は925年のトミスラフ王の戴冠から1102年のハンガリー王に血縁により吸収されるまでの百八十年ほどとされている。
だが、この時代には確かに独自のクロアチア文化というものがあったのだと感じさせてくれる。
ザダルのストシャ大聖堂にあった棺↓

同じくストシャ大聖堂にあったプロコンスル(総督?)グレゴールのキボリウム↓その一部


いちばん上の部分に刻まれた言葉
「天国のカギを守る者ペテロよ わが捧げものをお受け取りください 取るに足りない小さき者 プロコンスル・グレゴール」
このキボリウム(天蓋)が製作されたとされる1030年ごろはすでに西ローマ帝国は滅んでいる。クロアチア王国下で「プロコンスル」というのが、盛期ローマと同じ「地方総督」をあらわしているのかよくわからない。

↓失われたドメニカ教会にあった石の衝立↓

ルネサンスのような華やかさはないが洗練されたデザインのロマネスク表現である





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