旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ニッシム・ド・カモンド美術館

2021-02-13 18:22:45 | フランス
2005年フランスの旅より
1917年一人息子ニッシムが戦争で亡くなると父モイズはビジネスから身をひいた。
1935年自らの死に際しこの邸宅と家具・コレクションのすべてをフランスに寄贈した。

1911年からあしかけ四年をかけて建設されたパリの豪邸がそのまま美術館になっている。

二十五歳で亡くなった息子ニッシム。
父のモイズはオスマントルコ帝国のイスタンブールにうまれ、9歳の時に父のニッシムと共にパリに移住してきた。
亡くなった息子は祖父の名前を継いでいたのだ。
モイズがパリで結婚したのはこの人↓

↑彼女が9歳の時にルノワールが画いた肖像画。
最近の展覧会で日本でも展示された有名な一枚(^.^)

この邸宅はいわゆるアール・ヌーボー隆盛の時期の建築なのでその雰囲気も随所に感じられるが、

装飾はヴェルサイユ離宮のトリアノンをお手本にしているそうな。なるほど。
通称「ロココの女王」=マリー・アントワネットの肖像も。

実際に宮殿で使われていた家具もコレクションしていた。


この階段の雰囲気はトリアノン宮殿がたしかに感じられる。
※こちらに少し載せています



↓あきらかに別の場所から持ってこられた家具が、うまく合ってない置き方をされている部分もある↓



これらのダイニング食器は実際にカモンド家によって使われていたものだろう。

↑このおもしろいカタチの容器は氷をいれてグラスを冷やしておくためのもの。


当時最先端のキッチンは広々として使いやすそう(^.^)

窓の外にはモンソー公園の緑

モンソー公園側から見たところ↓

モンソー公園は英国風の庭園だが、どこかヴェルサイユを感じさせる構造物もある。

地下鉄のモンソー駅


オスマントルコ帝国の銀行家だったカモンド家は、数代前はスペインからトルコへ移住したユダヤ人だった。
パリに移ってからもユダヤ教への帰依はかわらず、残っていたモイズの一人娘もユダヤ人家族と結婚してパリに住んだ。
ナチス・ドイツがパリを占領すると二人の子供(モイズの孫)ともどもアウシュヴィッツに送られ、戻ってくることはなかった。

モイズとは早くに分かれて再婚していた(ルノワールに少女時代を描いてもらっていた)イレーヌは、南フランスにのがれていて生き残った。


コメント
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