旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》亀岡祭~嵯峨で螺鈿体験、清凉寺、大覚寺

2021-10-25 13:22:59 | 国内
夜行貝の輝きは古代から人を魅了してきた。奈良正倉院の鏡の背の装飾を思い出す。
これらがどうやって作られたのか、少しだけでも体験してみたいと、嵯峨野村螺鈿さんにお願いした。

※後半に載せます
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●清凉寺

清凉寺には「生身のお釈迦様」と呼ばれる、「三国伝来」の国宝釈迦立像がある。
※京都トリビアのページに写真と共に詳しく解説されています
「三国伝来」とは、インド⇒中国⇒日本、という意味。
ブッダが三十八歳の時にその姿を刻んだというなら、紀元前五世紀の作ということになる。
王が帰依するブッダの姿を刻ませているところを想像で画いた大きな絵が飾られていた↓

↑「キョウシャミ国王ウデンが真ん中右手で手を合わせて見守る。ノミと槌をふるって赤栴檀の香木を刻む職人たち。それを左で見守る赤い衣は工芸の神ビシェカツマ天だと解説されていた↑

こうやって釈迦の姿を生き写した木像は、シルクロードを経て十世紀に北宋の首都汴(べん)にもたらされていた。日本の奈良東大寺からやってきた僧・奝然(ちょうねん)がそれを見て、そっくりに摸刻させたものを日本に持ち帰ろうと考えた。
お像が完成すると、寝ている奝然(ちょうねん)夢に像があらわれ、摸刻と入れ替わった。
つまり、日本にもたらされたのはホンモノの方だ、という伝説。


おどろくべきは昭和二十八年の調査で内部から発見された、絹製のいわば「内臓模型」

↑当時最先端の医学知識がここにある
※これは宝物殿に所蔵されているレプリカ
10月11月の特別公開で見学できる霊宝館の普賢菩薩像は、ゾウ好きの小松には特に楽しめた。先月府中市美術館で観た若冲のゾウと目がそっくりだったのです。
※若冲はこれをモデルにして画いたのではないかしらん…


↑境内には豊臣秀頼の首塚がある。こちらも現代1980の調査で発見され、ここに葬られた↑
※解説にリンクします

***
●大覚寺

↑「明智陣屋」と呼ばれる、亀岡の亀山城が明治の廃城令で解体されたとき移築された門↑

嵯峨天皇(京都平安京をひらいた桓武天皇の息子)の離宮だった場所。その娘が仏寺にし、代々親王がご門跡だったので今も皇室の御紋が使用されている。

嵯峨天皇は「三筆」の一人に選ばれるほどの能書家。西暦にして818年に自身が写した「般若心経」をはじめとする天皇が写した経がおさめられた「心経殿」は暦が還ってくる六十年に一度だけ開帳される。2018年はちょうど千二百年目にあたり、六十回目の御開帳があったそうな。

江戸時代に狩野派の障壁画でかざられた部屋部屋。

広大な敷地には中国の洞庭湖をモデルにしたという大沢池がある。
京都育ちのドライバーNさんは子供の頃この池の周りで自由にお弁当広げたりしていたそうだが…今は有料。



敷地を区切る堀に渡された小さな石橋に風情があった。
****
2021《手造の旅》亀岡祭の最後に、冒頭の螺鈿工房を訪れた。

夜行貝に切り取りたい型を薄くえがいてキリで抜いてゆく。
この時、どの部分の輝きが生きるのかを考えて切り取る部分を選んだ方がよい。場所によって微妙に青や緑や赤の光が見えるから。人はこういう素材の美しさを利用させてもらっているだけなのだ。

素人の我々にも抜きやすいように薄い貝にしてくださっているが、古代からの装飾につかわれているものはもう少し厚いのだそうだ。割れやすいので慎重になるが、かといって何度もなぞっていてはきれいな線に切れない。

切り取ったものをお盆やコースターの上に貼り付けて

そのまわりを金泥?みたいなので縁取って固定する

「これ、金泥?じゃないですよね?」
と質問すると、漆の代用品で「カシュー」という溶剤だそうだ。
調べてみるとホンモノの漆よりもずっと使い勝手がよさそう。
なによりかぶれたりしないのがよい。
こんな便利なモノがない時代、尾形光琳もかぶれに悩まされながら制作していたんでしょうね(^.^)
※国宝「八橋蒔絵螺鈿硯箱」


↑面相筆より細いナイロンの筆先で「カシュー」を使って縁取り↑
↑この時もさっと一度で画くのが美しい仕上がりのコツだと感じた↑
↑小松の紅葉コースター完成(^.^)

↓この旅のラストショットに、それぞれ作った作品を持って(^.^)

↑野村さん(右のお二人)たいへんお世話になりました。
※HPにリンクします。
昔ながらのお香やお茶関連だけでなく、
のむらまりさんの造る装身具は日常に楽しめる現代のものです(^.^)




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《手造の旅》亀岡祭~雨の保津川下りで嵐山へ

2021-10-25 09:49:55 | 国内
「田中源太郎は自分の建設したこの鉄橋から落ちて亡くなりました」

船頭さんの話を検索してみると、大正11年(1922)鉄橋上での列車脱線事故があった。
私費でこの最初の山陰本線を建設した貴族議員・資本家の田中源太郎はこの事故で川に投げ出され、五日も遺体がみつからなかった。祟り説、暗殺説いろいろあった。
※こちら「特定非営利活動法人プロジェクト保津川」のページに詳しく書かれています
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前夜はその田中源太郎の邸宅だった「楽々荘」での夕食にした。

七代小川治兵衛の庭園が見事。

明治31年(1898)に自らの生家を洋館と和舘の混在する広大な邸宅に変身させた。
暗くなる前に庭を散歩させてもらうと、庭師がこんな魚を池にもどしていた。庭は生きているから現在の庭師さんが優秀でないと名園は保てない。

↓↑2019年にはじめて訪れた時の写真

念願のこの洋室での夕食を実現できた(^.^)


***
翌朝は雨。保津川下り事務所に電話してみると、「風はないから屋根をつけて出しますよ」とのこと。参加メンバーも乗りたい意向。九時発で船着き場へ。

三十人乗りを五人で貸切となった(^.^)

一艘を三人で操る

目の前の一人はひたすら漕ぐ役で、新入りは十日間これをやらせる。そこで音を上げるようでは続かない。前方を注意して岩にぶつからないように棒でつっぱる役も運動量が多い。写真に写らない後方で舵を握る役が操船ではいちばん重要。

このルートは江戸時代はじめに角倉了以が船で物資を運べるように整備したのだが、当時から何百年も船頭が突き続けてきた穴が岩に残っている↓

物流を担ってきたこの船は、冒頭の鉄橋を明治32年(1899)にアメリカから買って嵯峨野線(旧山陰本線)が開通すると、観光用になった。船で二時間半もかかるところを、鉄道は亀岡⇔京都間をたった二十分で結んでいる。

当時の駅↑は今は観光トロッコ列車の駅↑

※youtube動画

●金閣寺放火事件(昭和25年)犯人の母は、京都の警察で事情聴取された後、福知山に戻る山陰線の窓から身を投げた。供養碑があるそうだが確認できなかった。


↑こちらはブラタモリで取り上げられていた地層なのだそうだ


↑観光用になったころのイメージ絵地図↑
これは終着の山渡月橋から見ている↑河口に冒頭の鉄橋が画かれている。
「渡月橋についたら、どうやって船を亀岡までもどすのですか?」

↑「昔は人が綱をつけて半日かけて引っ張ってました↑その為の川沿いの道が今も分かるでしょう」↑
言われてみれば人が歩く道がずっと続いている。
今は車に乗せていっきに亀岡へ戻す。

嵐山に着く直前、崖の上に細長く宿↑

星野リゾートがリニューアルさせた高級ホテル↑専用の送迎船が見えた

11:30.渡月橋に到着。

いつもお願いしているドライバーのNさんのおすすめで眺めの良い蕎麦のお店へ。

渡月橋を渡った先に見えるのは法輪寺。
「京都の十三詣りはあそこに行きます」
なるほど、勉強になります。小松は京都の大学に通っていたのに、ぜんぜん詳しくない。
※こちら、お寺のHPに解説がありました

午後はNさんのおすすめをいくつかまわろう。
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