夕暮れの車窓から見えたコスモス園
傾いた陽射が山稜の雲と花を同じ色に染める。予定して見られる景色ではない(^^)。
翌朝、「あのコスモス園をもう一度観たい」というリクエスト。亀岡二泊の旅だからお応えできますとも(^^)
ネットで調べてみると、一ヶ月限定の施設で入場料もかかる。
※公式HPにリンクします
ところが、離れた臨時駐車場から歩いていく道もこんなお花畑で、入口に着く前に満足してしまった(^^)
養蜂もやっている。どんなハチミツなのかしらん(^^)
**
明智光秀が治めた亀岡だが、織田信長の供養塔もある。
●聖隣寺
↑古びた五輪塔のいちばん下の部分に織田信長の戒名が刻まれているのが見つかった
↑解説版を補足:秀吉が近江長浜を支配していた頃長男を亡くし、主君信長の四男を養子にもらった。信長には男女合わせて二十人以上の子があったから可能になったのだろう。本能寺の変の後、亀山城の城主になりこの供養塔を建立したのは十五才の時。三年後亀岡で、十八歳の若さで病没。
寺の門は江戸初期のもので矢間がある。この門のすぐ外に亀岡城下のいちばん外側の堀にあたる「惣掘」があった。
今もその名残の空堀がはっきりと残り↑一段低い道となっている↑
***
すぐ近くの●宗堅寺
古い墓石を集めた塔が、寺がこの場所にずっとあったことを感じさせる。
↑亀山城の「惣掘り」を掘った土を盛り上げた土塁が、この寺の敷地の端に残っている↑
ここに登って寺の外を見下ろすと、確かにさっきの堀跡が続いていた。
土塁の上に江戸初期に亀岡を治めた菅沼氏二代の墓がある↑
前述の織田信長の四男が早世すると、秀吉の甥豊臣秀勝⇒同じく甥の小早川秀秋…などなど、亀岡の領主はころころ替わった。
菅沼家は徳川家光時代に近江膳所(ぜぜ)から入ったが二代目が跡継ぎなく没して断絶した。
土塁の上の二つの大きめの墓が親子のもの。
その背後にある三つは追い腹を切った(殉死した)家臣のもの。
石垣の下にある同じような墓は位置からして同族のもの?
戒名に沼の字が入っている。
年号を見ると天明四年なので百年以上も後。
菅沼家は後に弟が一万石を拝領して存続したと書かれた資料があったから、もしかしたらその末裔が祖先を偲んでこの場所に墓所をおいたのかもしれない。
傾いた陽射が山稜の雲と花を同じ色に染める。予定して見られる景色ではない(^^)。
翌朝、「あのコスモス園をもう一度観たい」というリクエスト。亀岡二泊の旅だからお応えできますとも(^^)
ネットで調べてみると、一ヶ月限定の施設で入場料もかかる。
※公式HPにリンクします
ところが、離れた臨時駐車場から歩いていく道もこんなお花畑で、入口に着く前に満足してしまった(^^)
養蜂もやっている。どんなハチミツなのかしらん(^^)
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明智光秀が治めた亀岡だが、織田信長の供養塔もある。
●聖隣寺
↑古びた五輪塔のいちばん下の部分に織田信長の戒名が刻まれているのが見つかった
↑解説版を補足:秀吉が近江長浜を支配していた頃長男を亡くし、主君信長の四男を養子にもらった。信長には男女合わせて二十人以上の子があったから可能になったのだろう。本能寺の変の後、亀山城の城主になりこの供養塔を建立したのは十五才の時。三年後亀岡で、十八歳の若さで病没。
寺の門は江戸初期のもので矢間がある。この門のすぐ外に亀岡城下のいちばん外側の堀にあたる「惣掘」があった。
今もその名残の空堀がはっきりと残り↑一段低い道となっている↑
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すぐ近くの●宗堅寺
古い墓石を集めた塔が、寺がこの場所にずっとあったことを感じさせる。
↑亀山城の「惣掘り」を掘った土を盛り上げた土塁が、この寺の敷地の端に残っている↑
ここに登って寺の外を見下ろすと、確かにさっきの堀跡が続いていた。
土塁の上に江戸初期に亀岡を治めた菅沼氏二代の墓がある↑
前述の織田信長の四男が早世すると、秀吉の甥豊臣秀勝⇒同じく甥の小早川秀秋…などなど、亀岡の領主はころころ替わった。
菅沼家は徳川家光時代に近江膳所(ぜぜ)から入ったが二代目が跡継ぎなく没して断絶した。
土塁の上の二つの大きめの墓が親子のもの。
その背後にある三つは追い腹を切った(殉死した)家臣のもの。
石垣の下にある同じような墓は位置からして同族のもの?
戒名に沼の字が入っている。
年号を見ると天明四年なので百年以上も後。
菅沼家は後に弟が一万石を拝領して存続したと書かれた資料があったから、もしかしたらその末裔が祖先を偲んでこの場所に墓所をおいたのかもしれない。