山に登った空海は二匹の犬を連れた身の丈八尺(2.4メートル)の狩人と遭遇。
唐から帰国する船に乗る時「密教を広めるのにふさわしい場所をお教えください」と念じて投げた三鈷杵が、松の上で光っている場所まで案内された。
↑これがその(何代目かの)松
葉が三鈷杵のように三つに分かれている↑
「四面高嶺の平原幽地。これを高野山と名付く」
高野山という名前は、まわりを山に囲まれた盆地を指して空海が命名した。
この名の山はない。
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大阪難波から延々電車に乗って、
標高539mの極楽橋駅に着く。
ここからケーブルカーに乗って標高900mの高野山に至る。
バスに乗り換え高野山の寺域を目指す。
現代でも行きつくのに時間がかかるこの立地、最澄が与えられた比叡山と比べるといかにも遠い。空海は「修行に適している」と喜んだというけれど。
↓ここから先は
↑明治になるまで女人禁制だった。
女性たちが祈った「女人堂」まえに、巨大な「お竹地蔵」がある
延享2年(1745)5月15日建立と刻まれている。
亡夫の供養に訪れた横山竹という寡婦が女人堂に滞在するうち、地蔵尊が夢枕に立った。
その姿を留めようと、三十年働いた財産をつぎ込んで建立したのだという。
刈茅堂バス停で降り、宿泊する宿坊にチェックイン。
今日は空海の誕生を祝う「青葉祭」で、境内にも出店が。
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まず「霊宝館」へ↓
いちばんみたいと思っていたのは
※百姓たちの必死の書状。
リンクします
たどたどしいカタカナ書きの文字は、今の我々にも読める。気持ちが伝わる。
大河ドラマに合わせて「鎌倉時代の高野山」展が開催されており、国宝指定されているこの書状も公開されていた。
↑霊宝館から出たところ↑梅雨の合間の気持ち良い青空
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今日、6月12日は空海の誕生を祝う「青葉祭」。
ちょうど餅撒きにいきあわせ、拾うつもりもなかった餅をいただくことになった。
これがとっても美味しかった!※高野山の餅がなぜ美味しいのか、こちらに書きました
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冒頭二枚目写真の三葉の松があるエリアは空海が最初に住んだ。
↑中心になっている↑●根本大塔は高さ約50m。空海の時代にもほぼ同じ高さのものがあったとされる※二代目(甥の)真然が887年ごろ完成↑現在のものは昭和12年(1937)に再建され平成8年(1996)に塗りなおされている。
内部は曼荼羅の世界を再現して極彩色※ディスカバージャパンのページにて少し見られます
↑●中門もまた空海のころから同じものがあったとされるが↑何度も焼失・再建を繰り返し天保14年(1843)の火災で焼失した後172年も空白だった。平成27年(2016)の開創1200年を記念してついに再建。↑写真手前に見える丸い石は古い時代の礎石↑
↑現在の門も焼失した門の礎石の上に建てられており、いびつなかたちの石にぴったり合わせて柱を立てるのがいちばんの苦労だったそうだ↑
↑江戸時代の火事の時、持国天と多聞天は救出され別のところに保管されていたが、再建に合わせて元の場所にもどった↑※上の写真の右が塔を持った多聞天↑
↑増長天・広目天は新たにつくられ、たしかに真新しい↑※筆を持つのは広目天
↑新旧甲乙つけがたい(^^)
↑中門を抜けると正面に↑●金堂
↑空海はこの場所で修行していたと伝わる↑現在みられる堂は昭和7年(1932)の再建↓
昭和元年の火災では9世紀空海時代からのご本尊薬師如来坐像など多数が焼失した。
※焼失したご本尊はどのようなお姿だったのか?写真ぐらいは残っているだろうと探してみたが一枚も撮られていなかった。
何度調査依頼があっても絶対秘仏の本尊の厨子だけは開帳されず、さらにこんな話も伝わっている。
大正期に「点検」と称して一度だけ開帳され三人の重役だけが中を拝観。
しかし、いくら目を凝らしてもよく見えず、拝観したうちの二人は間もなく遷化(せんげ)された…。
※霊宝館のページに焼失した脇侍の写真などが載せられています
昭和の火災ですぐ後ろにある●御影堂↓が焼けなかったのは偶然ではない
金堂を焼く火が迫ると僧侶たちは水をかぶって御影堂の屋根に登って火を防ごうとした。それでも発火しそうになったお堂に、誰かが門前でつくっている味噌を塗ることを思いついた。逡巡の暇はなく実行され、結果的に御影堂は焼けなかった。
御影堂の端の木材は外側が炭化してなくなっている↑
どれだけ火が迫っていたのかがわかる。
この店では「火除け味噌」を今でも販売しております(^^)
↑現在では「ドレンチャー」が設置されている↑ここから噴水のように水が噴き出して御影堂を包む↑
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少し離れて建つ西塔も9世紀にはすでにあった。
現在のものは天保5年(1834)に再建されたものだが、このエリアでもっともバランスのとれた建築ではないかしらん。
↑特に屋根の下の「亀の甲」と呼ばれる部分の上にある円形の欄干↑
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境内入って左手にある↓●六角経堂
平安時代末期の鳥羽上皇(後白河天皇の父)のために皇后の美福門院が創建。
↑現在のものは昭和9年(1934)の再建↑
↑押し手がぐるりと回る↑その下に阪口祐三郎(すけさぶろう)の名前がある※奥の院を訪れた時ふたたびこの名前にであう
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左手に鳥居↑空海が訪れる以前からの地神を三柱祀っている↑
冒頭の縁起絵で描かれた猟師もその一人で●高野明神↓社の横に連れていた犬がちゃんといる(^^)↓
二柱めは、空海に高野山となる土地を与えた●丹生都比売(にうつひめ)、
もうひと柱は●十二王子 百二十伴神。
これら三神がどのような関係にあるのか、正直よく理解できない。
重要なのは、仏教の聖地は日本古来の神から与えられた土地に存在し、
空海も敬意を表してこの神社を建立しているということ。
明治維新では神社と寺を無理に分離させて廃仏毀釈の悲劇をおこしてしまったが、
二つを分けるほうが不自然。
↑高野山●金剛峯寺の紋章は↑二つ
左は秀吉から賜った桐の紋、右はこの土地を空海に与えた●丹生都比売(にうつひめ)神の紋。
世界遺産高野山を構成するひとつに麓にある神社が指定されている※そのHPに三つ巴の紋えがかれています