金剛峯寺の入口階段に↑水桶が置いていあるのはなぜ?
「昔、行事には多くの人が馬でやってきたので、馬のための水と飼料をここに置くならわしだったのです」
と、ガイドさん。
今日は空海の生誕を祝う「青葉祭」の日。
この「こうやまき」は飼料にならないけれど↑
馬はいなくなっても習慣だけは受け継がれている。
↑結界をあらわし↑祭の日だけ置かれる杉の枝。
↑花が貴重品の高野山では「こうやまき=高野槙」が花の代わりに供えられてきた。
かつては世界中にあったが今は日本の固有種で、悠仁(ひさひと)親王のお印になっている。
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↑建物入口に高野山の二つの紋↑
右は空海に高野山を与えた地神・高野明神の三つ巴紋↑
左の桐は秀吉から与えられた↑
なぜ?
信長が高野山も攻めていたことは比叡山ほどには知られていない。比叡山より厳しい立地のせいか幸い陥落しなかった。本能寺の変の後にやってきた秀吉は、僧・木食応其(もくじきおうご)の説得に応じ、以後は逆に高野山を支援するようになった。母の大政所(おおまんどころ)が亡くなるとこの場所に青厳寺を建てた。となりには"木食応其は高野山の中興の祖だ”として「興山寺」が、同時期に建てられた。
現在の金剛峯寺は明治二年にこの二つを合併させて「総本山金剛峯寺」と称するようになった。空海時代の金剛峯寺がそのまま継がれてきたわけではなかったのだ。
※霊宝館のHPに詳しく解説されています
文久3年(1863)に建設された本殿の屋根には昔からの火除け天水桶が乗っている。
檜皮(ひわだ)葺きの屋根は厚さ9センチ↑一坪あたり二千本の竹釘で留められている
↑竹釘の実物を見せてくださった↑檜皮は約二十年で取り換えなくてはならないが、竹釘は六十年もつので毎回換えなくてよいとか↑
建物内部に入る
↑入ってすぐに奥の院にあった杉の巨木↑四十年前に倒れたもの↑
百十七の寺がある高野山全体を統括する事務所といった雰囲気。
↑金剛峯寺の「寺務検校執行法印(じむけんぎょうしぎょうほういん)」=「法印さん」が行事の時に乗る輿↑
空海の名代というお役目で、任期は一年。現「法印さん」は523世。毎年3月12日に転衣式(てんねしき)が行われて交代する。
この役職を務めた人を「前官(ぜんがん)さん」と呼んでいるそうな。
真言宗のトップである座主は現在414代。
9世紀に2代目座主を56年務めた真然の舎利容器とおぼしきものが昭和63年(1988)にみつかった。
↑外に見えるお堂は寛永17年(1640)に建てられたもの。
解体修理の際にこの地下から出てきた。
↑主殿では高野山117院の僧侶たちによる講義が行われている↑
オックスフォード大学がたくさんのカレッジからできていて、学生は自分が師事したい人の元へ行くカタチだったのを思い出した。
昭和59年(1984)に作庭された日本最大の枯山水「蟠龍庭」↑百四十の御影石は二匹の龍が宿泊棟を護っている姿をあらわす
↑↑この奥には、現代でも皇室関係の方が泊る棟がある↑観光ルートから全体像は見えない
↑天皇の座所↑向かって右の裏には武者隠し
↑2020年に千住博氏によって描かれた「断崖図」↑開山1200年記念での奉納↓
↓となりの●土室(つちむろ)には千手作品としておなじみの「滝図」が↓
土室はもともとは土で固めた部屋の中に囲炉裏を置いた、冬の寒さがきびしい高野山らしい部屋↑
千年前まで、冬には僧たちもふもとの集落に下りるのが習慣だったそうだ。
↑ここでは2月14日の夜11時から「常楽会(じょうらくえ)」が行われる。
釈迦入滅を悲しむ物語が、「講式」とよばれる節回しで夜を徹して語られ続ける↑
「暖かくてつい眠ってしまうんです。朝にはちゃんと食事もふるまわれます」
と、参加したことのあるガイドさん(^^)
すぐ隣は広い台所↑
↑巨大な窯からの煙はちゃんと出口がつくられている↑
↑天井からのびた棒の先に、中空に出現した棚↑
白い紙がぐるりと貼られているのは、
ネズミを寄せつけないため。
↑二石炊きの巨大な窯
どれだけの人がここで暮らしていたのだろう。
3㎞×6㎞の盆地である高野山。
今も大小117の「院」があるが、かつて2000あったともいわれる。
現在の人口は約3000人。
うち500人が僧侶。
金剛峯寺は今も昔も高野山の中心にある。