「古墳をつくるのに鉄の道具が必要だったのが、堺の刃物鍛冶のはじまりなんです」
大仙古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする巨大古墳がたくさんあるこの地では、鉄器の鋳造や修理が常に必要だった。
産業はそうやって興るのだ。納得。
だから、鉄砲が伝わった時にその国産化が可能な人材は堺にいた。
鉄砲と同時に日本に伝わったタバコについても冒頭写真のような専用包丁が開発され↑
それが全国に堺刃物の名声を広げていった。
2022年3月にリニューアルオープンした↑「堺伝統産業会館」でよく理解させてもらえる※サイトにリンクします
大阪らしい↑鱧(ハモ)切用の包丁↑
華道の世界でも有名だそうな↑
他にも↑これだけ多様な包丁を開発した堺はまさに商人の町↑
現在でも職人の工房がこれだけの数残されている↑
*
与謝野晶子も故郷堺の歌にその情景を描いている↓
「住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路」
※除幕式の時のお話がこちらに載せられていました
町をあるけば鍛冶の音が聞こえるのが堺だったのか。
「七まち」とは、江戸幕府お買い上げとなったタバコ包丁をつくっていた工房がならぶあたりをさす業界用語だったそうな。
環濠掘に囲まれた堺
特殊技術を持つ職人と貿易で富を蓄えた堺は狙われやすい。
最初の環濠掘は室町時代後期には建設されたと推察されている↓ガイドさんが示してくれた右の図絵↓
↑左側が現代の地図↑
室町時代からの濠は秀吉によって埋められてしまったが、大坂夏の陣の後徳川幕府の直轄地となり一回り大きい濠が作られた。
それは昭和45年大阪万博の頃まで残っていたが、ついに高速道路を作る為南側を残し埋められた。
中世の黄金の町堺を守っていた濠はこれより一回り小さいものであることが近年の発掘調査でわかった。
※堺市のページにリンクします
↑約3㎞×1㎞の環濠掘の内側の町は整然と直線道路で区切られていた↑それが今の街並みにもはっきり受け継がれている↑
↑整備された住所は●●丁までで「目」がつかないのが特徴だそうな↑
城下町とはぜんぜんちがう、
真っ直ぐで見通しよい・商人の町らしい合理的な道。
●河口慧海が学んだ「清学院」↓
ネパールを訪れた2008年に河口慧海の滞在した家に寄ったことがあった※その日のネパール旅のブログにリンクします
ガイドさんと歩きはじめた「七堂」の駅前にある↓河口慧海像↓
ヒマラヤを超えてチベットまで、仏教典のルーツを求めて潜入した驚異的な探求心は、生まれ故郷の堺で育くまれたのだろう。
彼が幼少期に学んだ「清学院」は、元禄二年(1689)の地図に「山伏清学院」として載せられている。
それほど大きくない建物だが護摩焚きをするお堂が表通りに面してあった。
その裏側に学ぶ部屋がある↑木製の小さな机はここが堺市に委託される際に家を整理していて見つかった↑こういう机を「天神机」と呼ぶのだそうだが、子供たちは「登校」してくると自分で机を引っ張り出して座った。いっせい授業ではなく、個人個人に課題を与えて個人教授した。
男女区別なく・近所の子供たちが学びに来ていた。環濠掘りの中にはわかっているだけで十九の寺子屋があったそうだ。
↑「天神机」はこの場所に積み上げられあったもの↑文化五年(1808)の銘があるものもあるそうな。
↑上の写真で右上にちょっとだけ写っている格子はとなりの鍛冶屋。
子供たちは鍛冶の音を聞きながら学んでいたのか。
狭い世界に生きている幼児期にどんな教育を受けるか、何を見聞きして育つかは一生を左右する。
河口慧海は、今なら幼稚園から小学校一年生の時代に、修験道=山岳信仰の雰囲気を色濃く感じさせる寺で学んでいた。
長じてチベットへ旅することで自分自身のルーツを見つけた気がしたのではないかしらん。
**
お香もまた堺の伝統産業。
堺の線香は戦国武将「小西行長」の兄がその製法を朝鮮半島からつたえたとの伝説がある。
↑茶室を特別な雰囲気にするのにも役立ったにちがいない。
梅を練りこんだ↓
↑少し湿った球は、入れ物の蓋をあけるだけで薫ってきた。
大きな店で大量生産できるモノは伝統産業棺でも扱われているが、こういった手作業のモノはその店へ行かないと出会えない。
***
何度も火災に遭った堺だが、江戸時代前期の建物が残っている↓
●山口家住宅↑の入ってすぐ母屋がその空間
↑土間の上の太い柱は赤松↑
近隣の税徴収も請け負っていた庄屋には多くの人が出入りしていた。
↑かつてはとなりも同じ家の敷地で表玄関はこちらだった↑巨大な竈はいつごろまで現役だったのだろう。
↑朱塗りのお膳やお椀がたくさん残されている↑堺市に委託される直前には男性お一人がお住まいだったそうだ。
江戸後期に増築された↑茶室やもてなしの間↑
続く
大仙古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする巨大古墳がたくさんあるこの地では、鉄器の鋳造や修理が常に必要だった。
産業はそうやって興るのだ。納得。
だから、鉄砲が伝わった時にその国産化が可能な人材は堺にいた。
鉄砲と同時に日本に伝わったタバコについても冒頭写真のような専用包丁が開発され↑
それが全国に堺刃物の名声を広げていった。
2022年3月にリニューアルオープンした↑「堺伝統産業会館」でよく理解させてもらえる※サイトにリンクします
大阪らしい↑鱧(ハモ)切用の包丁↑
華道の世界でも有名だそうな↑
他にも↑これだけ多様な包丁を開発した堺はまさに商人の町↑
現在でも職人の工房がこれだけの数残されている↑
*
与謝野晶子も故郷堺の歌にその情景を描いている↓
「住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路」
※除幕式の時のお話がこちらに載せられていました
町をあるけば鍛冶の音が聞こえるのが堺だったのか。
「七まち」とは、江戸幕府お買い上げとなったタバコ包丁をつくっていた工房がならぶあたりをさす業界用語だったそうな。
環濠掘に囲まれた堺
特殊技術を持つ職人と貿易で富を蓄えた堺は狙われやすい。
最初の環濠掘は室町時代後期には建設されたと推察されている↓ガイドさんが示してくれた右の図絵↓
↑左側が現代の地図↑
室町時代からの濠は秀吉によって埋められてしまったが、大坂夏の陣の後徳川幕府の直轄地となり一回り大きい濠が作られた。
それは昭和45年大阪万博の頃まで残っていたが、ついに高速道路を作る為南側を残し埋められた。
中世の黄金の町堺を守っていた濠はこれより一回り小さいものであることが近年の発掘調査でわかった。
※堺市のページにリンクします
↑約3㎞×1㎞の環濠掘の内側の町は整然と直線道路で区切られていた↑それが今の街並みにもはっきり受け継がれている↑
↑整備された住所は●●丁までで「目」がつかないのが特徴だそうな↑
城下町とはぜんぜんちがう、
真っ直ぐで見通しよい・商人の町らしい合理的な道。
●河口慧海が学んだ「清学院」↓
ネパールを訪れた2008年に河口慧海の滞在した家に寄ったことがあった※その日のネパール旅のブログにリンクします
ガイドさんと歩きはじめた「七堂」の駅前にある↓河口慧海像↓
ヒマラヤを超えてチベットまで、仏教典のルーツを求めて潜入した驚異的な探求心は、生まれ故郷の堺で育くまれたのだろう。
彼が幼少期に学んだ「清学院」は、元禄二年(1689)の地図に「山伏清学院」として載せられている。
それほど大きくない建物だが護摩焚きをするお堂が表通りに面してあった。
その裏側に学ぶ部屋がある↑木製の小さな机はここが堺市に委託される際に家を整理していて見つかった↑こういう机を「天神机」と呼ぶのだそうだが、子供たちは「登校」してくると自分で机を引っ張り出して座った。いっせい授業ではなく、個人個人に課題を与えて個人教授した。
男女区別なく・近所の子供たちが学びに来ていた。環濠掘りの中にはわかっているだけで十九の寺子屋があったそうだ。
↑「天神机」はこの場所に積み上げられあったもの↑文化五年(1808)の銘があるものもあるそうな。
↑上の写真で右上にちょっとだけ写っている格子はとなりの鍛冶屋。
子供たちは鍛冶の音を聞きながら学んでいたのか。
狭い世界に生きている幼児期にどんな教育を受けるか、何を見聞きして育つかは一生を左右する。
河口慧海は、今なら幼稚園から小学校一年生の時代に、修験道=山岳信仰の雰囲気を色濃く感じさせる寺で学んでいた。
長じてチベットへ旅することで自分自身のルーツを見つけた気がしたのではないかしらん。
**
お香もまた堺の伝統産業。
堺の線香は戦国武将「小西行長」の兄がその製法を朝鮮半島からつたえたとの伝説がある。
↑茶室を特別な雰囲気にするのにも役立ったにちがいない。
梅を練りこんだ↓
↑少し湿った球は、入れ物の蓋をあけるだけで薫ってきた。
大きな店で大量生産できるモノは伝統産業棺でも扱われているが、こういった手作業のモノはその店へ行かないと出会えない。
***
何度も火災に遭った堺だが、江戸時代前期の建物が残っている↓
●山口家住宅↑の入ってすぐ母屋がその空間
↑土間の上の太い柱は赤松↑
近隣の税徴収も請け負っていた庄屋には多くの人が出入りしていた。
↑かつてはとなりも同じ家の敷地で表玄関はこちらだった↑巨大な竈はいつごろまで現役だったのだろう。
↑朱塗りのお膳やお椀がたくさん残されている↑堺市に委託される直前には男性お一人がお住まいだったそうだ。
江戸後期に増築された↑茶室やもてなしの間↑
続く