旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

高野山~奥の院(後半)空海さんの昼食が運ばれる

2022-06-23 13:02:39 | 国内
※奥の院(前半)より続く

●覚鑁堂

平安後期に「空海以来の秀才」と言われた覚鑁(かくばん)。
鳥羽上皇の庇護をうけて座主に就任し(公式の歴代座主には実弟の信恵の名前が記されている)高野山の改革をはじめたが、保延6年(1140)に反対勢力に焼き討ちされて高野山を降り、和歌山の根来寺で「真義真言宗」を興した。
※比叡山天台宗で同じように「真盛天台宗」を興した真盛上人を思い出した※2019年に西教寺を訪れた時のブログにリンクします

●織田信長の供養塔が1970年になって発見された。


奥の院で最大の墓・供養塔は
●江姫のもの 

高さ五メートル。
信長の妹・お市の方の浅井三姉妹の末娘、

徳川二代将軍秀忠夫人。
瀬戸内の御影石をここまで運んできた。
建てさせたのは次男の徳川忠長。
長男の(後の)家光は春日の局に育てられてしまったので、次男の忠長は自分の手で育てた。結果、寛永3年(1626)に亡くなった時、母のために高野山一大きな供養塔を立てたのは次男だった、ということか。忠長は母の死後だんだんと奇行がめだつようになり、1633年に兄(家光)より死を賜ることになる。

それにしても、これだけの巨石をどんなふうに運んで・積み重ねたのだろう。
実は、それぞれの石は内部が刳り貫かれている↓周囲に散在する倒れた五輪塔と同じように

積み重ね方は、積んた高さまで土で埋めて傾斜路をつくって上に乗せる方法。
※古代エジプトの神殿やピラミッドも同じ方法で積んだと推測されている
***
「御廟の橋」の手前に、空海さんの食事をつくる御供所がある。

10:30の昼食に間に合った↑
まず↑この台の上に置いて、むこうの祠に座している嘗試(あじみ)地蔵に味見していただく。

その後、御廟に運ばれていく。

↑御廟橋の前で一礼↑
御廟は承和元年(834)に空海自らがその場所を定め、翌年3月15日に入定(にゅうじょう)が近いことを弟子らに告げ、3月21日午前4時に永遠の瞑想に入ったとされている(高野山HPより)。今もすべての衆生のために祈り続ける空海さん。朝食(朝6時)と昼食(10時半)が届けられる。

↑橋の下を流れる玉川に「流水灌頂(りゅうすいかんじょう)」供養がある。
※橋本新聞の記事にリンクします
この橋から先は撮影禁止。

****
帰路は新参道をいく。

↑左の角は阪神淡路大震災の慰霊碑、右角は東日本の慰霊碑。
それぞれの日に慰霊祭がおこなわれる。

こちらの道沿いには現在の企業もたくさん↑趣向を凝らしている
コーヒーカップの中にはちゃんと…

↑赤御影石のコーヒーが(^^)

↑ロケット部品メーカーはロケットなのだが、ちゃんと五段=五輪塔になっているのだそうな。

↑「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」
=すべての人々が救われるまで私の願いは尽きない。
西暦で832年、高野山ではじめて行われた万燈万華会での空海の言葉と伝わる。

*****中の橋のバス停から乗車
バスの本数は多くない。

↑最後に刈萱堂へ。きのう「青葉祭」の日曜日は団体客も含めずっと賑わっていたが、月曜の今日はひっそり↑
堂内には「刈萱同心と石動丸」の話が絵物語で分かりやすく解説されている↑
1986-87国内添乗をしていた時代に、ここでガイドさんが話してくれたことだけ記憶していた。
高野山は何度か宿泊したのにほとんど何も覚えていない。

当時二十代なかばの自分は、理解できる時に至っていなかったということか。


高野山の魅力を伝えられる《手造の旅》を考えたいとおもいます。
コメント
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