1881年に銀鉱脈が発見され、十数年の間だけ嵐のように栄えたキャリコ。
見捨てられていたゴーストタウンは、1951年に整備されて観光地になっている。
ラスヴェガスから15号線を西に二時間ほど。
山の斜面に「CALICO」の文字が見えるゴーストタウン・ロードに入ると、巨大な工夫の看板が見えてくる。
かつてはこのあたりまでも市域がひろがっていた。
今は中心部の一角だけを、いわばテーマパークとして復元してある。
なんせホンモノのシルバー・ラッシュの街。
一時は十数キロもあった資材線路が観光用に復元されている。
*
1883年に町の東五キロほどの場所でボラックス(ホウ酸塩~磁器やガラス繊維を形成するのに必要な原材料)が発見され、1884年に二つ目の銀鉱脈が見つかり、あっという間に二千五百人が住む街となる。郵便局や学校も開設され、キャリコ・プリントという印刷会社が新聞も発行するようになった↑解説版の写真はそのころのものではないかしらん。
この頃、ルーシー・ベルという十歳の女の子が一家で移住してきた。
テネシー出身の父とヴァージニア出身の母はカリフォルニアで出会い、よりよい生活を夢見て新興のキャリコを選んだのである。
↑この写真に写っている三人姉妹と兄の六人家族。
1892年、18歳のルーシーはジョン・レーンと結婚しグローサリーストアを開店した。
↑この白黒写真がその店。
十年ほど店は繁盛したが、1890年代後半に銀の価格が暴落し(1オンス1.31$⇒0.63$)、キャリコは急速にさびれていった。
ルーシー・ベル・レーンは1899年にキャリコを離れた。
キャリコはボラックスの採掘も終わった1907年には正式に「町」ではなくなった。
鉱山会社は起死回生のために1917年にシアン工場を開設した。
四十歳になっていたルーシーと夫はキャリコにもどり、再びこの家に住んだ。
↑この写真はそのころのものか↑夫ジョンは1934年に亡くなった。
翌1935年にはシアン工場も閉鎖され、キャリコはいよいよ人の住まない場所になっていったが、ルーシーはここを離れなかった。
ルーシーより十五歳年下のウォルター・ノッツという少年は叔父がキャリコの保安官をしていた。子供の頃よく訪れ、学生時代には銀の採掘も手伝ったことがあった。
長じてボイゼンベリーで財をなしたノッツは「ノッツ・ベリーファーム」という、西部開拓時代のテーマパークを開設。
1951年、キャリコの街も買い取って修復と復元をはじめた。
子供の頃にあそんだ町を復活させようと思ったのである。
五軒しか残っていなかった建物にずっと住み続けていたルーシーはびっくりしただろう。
けれど、きっと喜んだだろう。
放棄されていた家々はひとつひとつ復元され、観光客がやってくるようになった。
ルーシーはいつのまにか「歴史の語り部」になってしまった。
彼女は1967年に93歳で亡くなった。
が、
今もルーシーを見かけた噂がある。
夕方からのゴースト・ツアーでかつてルーシーが住んでいた家(この写真の家)を訪れると
彼女が気に入っていたロッキングチェアが揺れる。
物音がする。
人気のなくなったストリートを歩く彼女は、葬られた時にまとっていた黒いレースのドレスを着ているのだそうだ。
キャリコはホンモノのゴースト・タウンになったのかもしれない。
***
メインルートの15号線近くに1950年代スタイルのカフェ・ダイナーがある。
「ペギー・スー」というとロックンロールファンはバディ・ホリーの曲を思い出すけれど、現オーナーの名前からとっているそう。
ジュークボックスのカタチをした入口を入ると、
その時代に生まれていなかった小松でも「懐かしの」と言いたくなるようなモノにあふれている。
レストランセクションへの入口に↓
映画で出てくるようなカウンターがある。
もともとの店は1954年にカウンター9席と3つのブース席ではじまったそうだ。
建物自体は1947年に元オーナーの自宅として建てられていた。
店が繁盛してダイニングルームを増築した。
ウェイトレスさんは今も
お店に合わせた制服。
注文したステーキも付け合わせのポテトも、予想をはるかにこえて美味しい。うーむ、これならまた来たい。
落ち着いてホームページを読んでみると、1954年にオープンしたもともとの店は1970年代に閉店していた。
現オーナーが1981年にはじめて訪れた時にはからっぽでなんの50`s装飾もなかった。
買い取って1987年に再オープンする際に彼らのコレクションを中心にディスプレイしたのだそうだ。
↑それにしても徹底している
トイレも
こんなです(^^)
ラスヴェガスとLAの間をドライブするなら、ワンストップする場所としてオススメできます。
ホッパーのパロディもその時代らしい
見捨てられていたゴーストタウンは、1951年に整備されて観光地になっている。
ラスヴェガスから15号線を西に二時間ほど。
山の斜面に「CALICO」の文字が見えるゴーストタウン・ロードに入ると、巨大な工夫の看板が見えてくる。
かつてはこのあたりまでも市域がひろがっていた。
今は中心部の一角だけを、いわばテーマパークとして復元してある。
なんせホンモノのシルバー・ラッシュの街。
一時は十数キロもあった資材線路が観光用に復元されている。
*
1883年に町の東五キロほどの場所でボラックス(ホウ酸塩~磁器やガラス繊維を形成するのに必要な原材料)が発見され、1884年に二つ目の銀鉱脈が見つかり、あっという間に二千五百人が住む街となる。郵便局や学校も開設され、キャリコ・プリントという印刷会社が新聞も発行するようになった↑解説版の写真はそのころのものではないかしらん。
この頃、ルーシー・ベルという十歳の女の子が一家で移住してきた。
テネシー出身の父とヴァージニア出身の母はカリフォルニアで出会い、よりよい生活を夢見て新興のキャリコを選んだのである。
↑この写真に写っている三人姉妹と兄の六人家族。
1892年、18歳のルーシーはジョン・レーンと結婚しグローサリーストアを開店した。
↑この白黒写真がその店。
十年ほど店は繁盛したが、1890年代後半に銀の価格が暴落し(1オンス1.31$⇒0.63$)、キャリコは急速にさびれていった。
ルーシー・ベル・レーンは1899年にキャリコを離れた。
キャリコはボラックスの採掘も終わった1907年には正式に「町」ではなくなった。
鉱山会社は起死回生のために1917年にシアン工場を開設した。
四十歳になっていたルーシーと夫はキャリコにもどり、再びこの家に住んだ。
↑この写真はそのころのものか↑夫ジョンは1934年に亡くなった。
翌1935年にはシアン工場も閉鎖され、キャリコはいよいよ人の住まない場所になっていったが、ルーシーはここを離れなかった。
ルーシーより十五歳年下のウォルター・ノッツという少年は叔父がキャリコの保安官をしていた。子供の頃よく訪れ、学生時代には銀の採掘も手伝ったことがあった。
長じてボイゼンベリーで財をなしたノッツは「ノッツ・ベリーファーム」という、西部開拓時代のテーマパークを開設。
1951年、キャリコの街も買い取って修復と復元をはじめた。
子供の頃にあそんだ町を復活させようと思ったのである。
五軒しか残っていなかった建物にずっと住み続けていたルーシーはびっくりしただろう。
けれど、きっと喜んだだろう。
放棄されていた家々はひとつひとつ復元され、観光客がやってくるようになった。
ルーシーはいつのまにか「歴史の語り部」になってしまった。
彼女は1967年に93歳で亡くなった。
が、
今もルーシーを見かけた噂がある。
夕方からのゴースト・ツアーでかつてルーシーが住んでいた家(この写真の家)を訪れると
彼女が気に入っていたロッキングチェアが揺れる。
物音がする。
人気のなくなったストリートを歩く彼女は、葬られた時にまとっていた黒いレースのドレスを着ているのだそうだ。
キャリコはホンモノのゴースト・タウンになったのかもしれない。
***
メインルートの15号線近くに1950年代スタイルのカフェ・ダイナーがある。
「ペギー・スー」というとロックンロールファンはバディ・ホリーの曲を思い出すけれど、現オーナーの名前からとっているそう。
ジュークボックスのカタチをした入口を入ると、
その時代に生まれていなかった小松でも「懐かしの」と言いたくなるようなモノにあふれている。
レストランセクションへの入口に↓
映画で出てくるようなカウンターがある。
もともとの店は1954年にカウンター9席と3つのブース席ではじまったそうだ。
建物自体は1947年に元オーナーの自宅として建てられていた。
店が繁盛してダイニングルームを増築した。
ウェイトレスさんは今も
お店に合わせた制服。
注文したステーキも付け合わせのポテトも、予想をはるかにこえて美味しい。うーむ、これならまた来たい。
落ち着いてホームページを読んでみると、1954年にオープンしたもともとの店は1970年代に閉店していた。
現オーナーが1981年にはじめて訪れた時にはからっぽでなんの50`s装飾もなかった。
買い取って1987年に再オープンする際に彼らのコレクションを中心にディスプレイしたのだそうだ。
↑それにしても徹底している
トイレも
こんなです(^^)
ラスヴェガスとLAの間をドライブするなら、ワンストップする場所としてオススメできます。
ホッパーのパロディもその時代らしい