映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988)の映画館はこの広場に建てられたセットだった。
この映画の舞台になっていなければ行くことはなかっただろうけれど、訪れればそれ以外のモノも見えてくる古い町だった。
**
セリヌンテから田舎道を走ると雲行きがあやしくなってきた
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放牧の羊が映画のように道をさえぎる
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町への看板が見えてきた
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人口二千人程という町の広場は思ったよりも広い。
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これといった写真映えする建物があるわけでもない、シチリアの田舎町。
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二十年以上も前に映画の舞台になって突如有名になったので↑こんな看板もとりつけられた↓
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広場のカフェ入ると、復活祭の卵チョコとバッチチョコが積んである
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映画の時に建てられた「映画館」が写された写真が飾ってあった↑
↑街角の陶器絵に描かれていたのと同じ。
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映画の主人公トト少年はこの町のほんとうの住人で、今やりっぱなおぢさんとなっているのだそうだ。
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イタリアの街でよくみかける↑おぢさんばかりの集会所で予期しなかったモノにであった↑
入口の双頭の鷲は何?
囲んでいる「スカンデルベグ・サークル」のイタリア語。
15世紀アルバニアの英雄の名前がなぜこんなところに?
好奇心に引かれて近寄ると「どうぞどうぞ」と歓迎してくれた。
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↑スカンデルベグの肖像と十字架↑
スカンデルベグはアルバニア人領主の父とセルビア人の母をもつとされる。
少年時代にオスマントルコの人質となり、トルコ宮廷のいわばエリートとして教育され、トルコ軍の軍人となった。
勇猛さからアレキサンダーの名前=イスカンダル=スカンダル+トルコ人の役職尊称であるベイを合わせて⇒スカンデルベグの名をもらった。イスラム教徒に改宗していたが、故国でオスマントルコ支配に対する反乱がはじまるとキリスト教徒に再改宗してそのリーダーとなった。キリスト教徒の最前線としてオスマントルコと対峙し続け、1468年の病死まで二十年以上アルバニアの独立を維持した。アルバニアはその死後再びオスマントルコ支配下になり、二十世紀まで独立できなかった。
オスマントルコの支配下になったアルバニア本国からは多くの難民が逃れ、1482年にはアルベレッシュと呼ばれる一団がこのシチリアの山の中に住みついた(Wikiや複数の辞書を読んでの要約)。
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↑1968年スカンデルベグの死から五百年を記念して設置されたプレート
「アルバニアの伝説的な英雄であり擁護者であり、イスラムの強大な軍隊に対抗して、カトリックの信仰の自由とキリスト教とヨーロッパ文明の無敵の防波堤となった人物」
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四百年も経つが、彼らは今もアルバニアの言葉を母語のひとつと認識し、イタリア国家も保護すべき少数言語として町の公式記録言語に認めている。たとえそれが現代のアルバニア語とはだいぶんちがってきているのだとしても。
パラッツォ・アドリアーノには1959年まで列車が通っていたが廃止され、いまは車でしか行くことができなくなっている。
***
戦争によって故郷を追われる人々は21世紀にもなくならない。
20世紀以降はむしろ多くなっている。
日本人のために日本という土地があることに疑いをもたない日本人には理解しにくいことだけれど、難民が故国に戻れることのほうが実は少ない。
難民は同情はされるが歓迎されない。
異邦人として疎まれながらもそこで生きる術をみつけるしかない。
避難した先で生まれる第二世代第三世代が活躍するようになってやっと、避難先を「自分の街」と感じることができるようになる。
もし、幸運にも故国に戻れるチャンスがやってきたとしても、第二世代第三世代にとってどちがら住みやすいのかは、分からない。
この映画の舞台になっていなければ行くことはなかっただろうけれど、訪れればそれ以外のモノも見えてくる古い町だった。
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セリヌンテから田舎道を走ると雲行きがあやしくなってきた
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放牧の羊が映画のように道をさえぎる
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町への看板が見えてきた
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人口二千人程という町の広場は思ったよりも広い。
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広場のカフェ入ると、復活祭の卵チョコとバッチチョコが積んである
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↑街角の陶器絵に描かれていたのと同じ。
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入口の双頭の鷲は何?
囲んでいる「スカンデルベグ・サークル」のイタリア語。
15世紀アルバニアの英雄の名前がなぜこんなところに?
好奇心に引かれて近寄ると「どうぞどうぞ」と歓迎してくれた。
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↑スカンデルベグの肖像と十字架↑
スカンデルベグはアルバニア人領主の父とセルビア人の母をもつとされる。
少年時代にオスマントルコの人質となり、トルコ宮廷のいわばエリートとして教育され、トルコ軍の軍人となった。
勇猛さからアレキサンダーの名前=イスカンダル=スカンダル+トルコ人の役職尊称であるベイを合わせて⇒スカンデルベグの名をもらった。イスラム教徒に改宗していたが、故国でオスマントルコ支配に対する反乱がはじまるとキリスト教徒に再改宗してそのリーダーとなった。キリスト教徒の最前線としてオスマントルコと対峙し続け、1468年の病死まで二十年以上アルバニアの独立を維持した。アルバニアはその死後再びオスマントルコ支配下になり、二十世紀まで独立できなかった。
オスマントルコの支配下になったアルバニア本国からは多くの難民が逃れ、1482年にはアルベレッシュと呼ばれる一団がこのシチリアの山の中に住みついた(Wikiや複数の辞書を読んでの要約)。
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「アルバニアの伝説的な英雄であり擁護者であり、イスラムの強大な軍隊に対抗して、カトリックの信仰の自由とキリスト教とヨーロッパ文明の無敵の防波堤となった人物」
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四百年も経つが、彼らは今もアルバニアの言葉を母語のひとつと認識し、イタリア国家も保護すべき少数言語として町の公式記録言語に認めている。たとえそれが現代のアルバニア語とはだいぶんちがってきているのだとしても。
パラッツォ・アドリアーノには1959年まで列車が通っていたが廃止され、いまは車でしか行くことができなくなっている。
***
戦争によって故郷を追われる人々は21世紀にもなくならない。
20世紀以降はむしろ多くなっている。
日本人のために日本という土地があることに疑いをもたない日本人には理解しにくいことだけれど、難民が故国に戻れることのほうが実は少ない。
難民は同情はされるが歓迎されない。
異邦人として疎まれながらもそこで生きる術をみつけるしかない。
避難した先で生まれる第二世代第三世代が活躍するようになってやっと、避難先を「自分の街」と感じることができるようになる。
もし、幸運にも故国に戻れるチャンスがやってきたとしても、第二世代第三世代にとってどちがら住みやすいのかは、分からない。