今年四月には工事中だったケーブルカーでフルヴィエールの丘に到着。ホームから地上へ出るとフルヴィエール大聖堂の目の前だった↓ ここももともとはローマの神殿があった場所だろうか。十分も坂を下りるとローマ人たちの残した劇場が見える場所に着く
↓左にLUGDUNUMと書かれたところが、古代ローマの博物館
LUGDUNUMとは、リヨンの語源になったローマ時代の都市名だ。
このあたりの遺跡は1845年に正式に発見され、発掘がはじまった。これから訪れる博物館は1975年にバーナード・トゥールフスという建築家が設計。遺跡の雰囲気を損なわないようにメインの部分は地中に隠れているユニークな構造をしている↓その解説CGも分かりやすい↓下の写真で上部に見える白い横長の建物の最上部。前出の写真の場所である。ここだけ見ると地下に実質五階建ての博物館が存在するようには見えない。ところどころに開けられた四角い窓から遺跡が見えるというアイデアだ↓
こちらがその窓から外を見た様子↓
↓劇場では夏のコンサートも行われる↓左の白い臨時構造物がステージ↓
さて、展示★日本語音声ガイド機械もあります★
街の起源についてわかりやすい三次元模型がある↓時代の変化をカラフルなライトで表し、シンクロする日本語のガイディングで楽しめる。優れものです↓
↑リヨンは、ローヌとソーヌという二本の川の合流点とそれを見下ろす丘からなる。はローマ人がやってくる以前からガリア人の集落があった。
ガリア(現フランスを含む地方)をローマ化したカエサルが暗殺された翌年、紀元前43年にローマ軍団司令官のひとりルキウス・ムナキウス・プランクスという人物が本格的にローマの都市を建設した。※彼はカエサルより十二歳年下
ルキウスは、内戦を制したアウグストゥスの安定した治世下、紀元前十五年に亡くなった。墓はローマナポリ方向へ行く途中のガエタに、こんな形で建設された↓その復元模型
↑生涯に、ルグドヌムとアウグスタ・ウリカ(現スイス領)二つの町を建設したと、この墳墓のレリーフに刻まれていた。
*** ローマの邸宅を飾っていたモザイクの床が何面も見られる↓ ガラス器は現代と変わらないデザイン↓ ★ガリア民族の五年分の暦が刻まれたブロンズのパネルがおもしろかった↓
祭りや催事の日付が書かれ、その左側に木片か何かを差し込んで印にしたと推察されている↓ ガリア民族は急速にローマ化していったので、ガリアの宗教や慣習に基づいた暦も正確には解明されていない。しかし、人々の暮らし方というのは支配階層が変わるようには簡単に変えることができないのだ。また、ローマの人々も被支配者の慣習を禁止しなかったのだから。 ↓このパネルは等身大のブロンズ像と同じ場所から発掘された↓ エジプトの宗教も紀元前一世紀のリヨンでは生きていた↓エジプトでよくみられるアヌビス神↓ 古代エジプトの神事に使われていたという楽器シストラムも刻まれている↓※右がウェアのパチンコみたいなのです 巨大な三世紀ごろの石棺↓キリスト教化以前、バッカスをはじめとする神々が刻まれている↓