旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

サンティリャーナ・デル・マルとサンタンデール

2019-04-27 14:26:58 | スペイン
九世紀には存在した聖フリアナ修道院がこの町の起源↓

ロマネスクの巨大な建物の周りに中世の面影を見せる街並みが集まっている小村

↑水路が導く先に↓これは共同の水場↓洗濯していたようすが見えるようだ

結婚式をやっていた
有名な観光地なので少し離れた場所に観光バスの駐車場もある。今回は少人数なので車でレストランのすぐ近くまで入ることができた。


北スペインは食事の平均点が高い(^.^)
**
昼食の後はこの町で散策の予定だったのだがあいにくの雨。
ガイドさんが近くのサンタンデールに行く提案をしてくれた。
アルタミラ洞窟からの発見品が収蔵されている博物館があるのだ。
ご参加の全員が希望されたので行ってみることにした。

+++
サンタンデールはカンタブリア海に面した港町↓

アルタミラからもタンティリャーナ・デル・マルからも見えなかった海がやっと見えた。
人口は18万人ほどだがサンタンデール銀行はスペイン最大の銀行だそうな。
19世紀から20世紀にかけてよく整備された街並みがつづいている。

丘の上の地区へのぼってゆく古いケーブルカーが見えた↓

★上の写真は港に建てられていた下の↓モダンな建物の屋上から撮影しました↓




あまり観光地ではないので大聖堂は草が生えている状態だが↓

通商でさかえている街。
荷揚げ用のクレーンはちょっと歴史がありそう↓

↓ここもサンチャゴへの巡礼路にあたっている



ちかくに博物館があるというのだがなかなか見つからない
代わりに、市場があった↓地元ガイドさんの話によるとこのすぐそばが博物館だそうだ

↓市場の周りを行ったり来たりするうちに、この青銅色の壁に目が留まった↓

↓え?これが博物館?

なんと、博物館は市場の地下に建設されており、これがそこへ通じる扉だったのであります。

が、閉まっております…お昼休みは16時まで。残念!
せっかく来たのだから市場のカフェでピンチョス(爪楊枝で刺した小皿料理)をつまんでいくことにした↓



有名観光地に比べると料金も安かった(^.^)


本日宿泊のレオンへむかって、再び内陸へ戻ります

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アルタミラ博物館

2019-04-27 10:20:15 | スペイン
レプリカだが見に行く価値があった↓

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標高八百メートルを超えるブルゴスはすっきりとした青空の朝だったが

北のカンタブリア海との境にあたる山脈が見えてくると空の様子がかわってきた↓

三日前に降ったという雪がまだ残っている。

山脈のトンネルを抜けると雨になった。
アルタミラはその名前のとおり、少し高い(アルタ)見晴らす(ミラ)丘にある。
立派な博物館ができていた↓

無料のスペースは充実している。
1879年に発見した伯爵とその娘についてのバックグラウンド解説

アマチュア考古学者で、前年に訪れたパリの万博の展示品を見て「自分のところの洞窟にもあるのではないか」と探検をはじめた。暗い洞窟で地面を掘っていた時、一緒にいた五歳の娘が「パパ、牛だよ」と天井を指さした。下ばかり見ている人には見えなかったのですな。
↓二人の記念碑がある↓


地元のガイドさんとお会いして、見学スタート。
まずは三分ほどの簡単なビデオを見る。
一万八千年以上前と推察されている「彼ら」の暮らしを理解して次の部屋に進むと・・・

↑立派な洞窟が再現されていた。

1879年に発見された時、洞窟の入り口は落石でふさがっていた。
ここに再現されているのは落石でふさがる前の洞窟の姿。
つまり、ホンモノを見てもけっして感じることができない「当時」の姿である。

ひとくちに「レプリカ」と言っても、マドリッドの考古学博物館前にあるものとはスケールが違う。あちらは洞窟の絵の部分だけだったが、こちらは二万年前の様子と19世紀末の発掘の様子とを同時に理解させてくれる。


↑使われている色は黒と赤のみ。簡単に言えば黒は木炭、赤は錆。
これしかなかったのだけれど、結果的に二万年も残る最強の顔料だったのだ。

絵画としての表現力は、現代人とまったく同じレベル。いや、彼らのほうが上なのではないかとさえ感じる。

↑これは鹿ですね。
冒頭の絵は「牛」ではなく、今では絶滅してしまった野生の「ヨーロッパ・バイソン」。
岩が盛り上がっている場所をえらんで、3Dに見えるように描いてあった。

岩の凹凸を利用して描くスタイルはもっとも古いと推察される部分にも見つかっている↓

何を意味しているのか分からない抽象的に見える図形も多く見つかっている。
面白いのはそういった抽象図形が周辺の多くの洞窟にも描かれていたこと。
文字は発明されていなくても、共通の何かを現す図形が認識されていたということだ。

↓描いた人のものと思われる手のカタチ↓

手を置いてそこに炭を吹きつけるという手法をつかっている

描かれている天井がけっこう高いので「これ、どうやって描いていたんでしょうね」と質問があった。
ガイドさんの答えにびっくりした↓
「もとの天井は身長ぐらいの高さだったので手をあげれば描けたようです。この見学ルートの高さは1960年代に観光客が押し寄せるようになって地面を掘り下げたのですよ」
そうか、当時は現場保存とかまったく気にしていなかったということか。
19世紀後半から20世紀のヨーロッパはとにかく見学しやすい観光地にすることが最優先だったのだ。

**↓こちらは19世紀末からフランスの考古学者の手によって発掘されていった時の様子↓

伯爵自身は自分の発表した説を当時の権威であるフランス考古学会に徹底的に否定されて失意のうちに亡くなったのだが、数年してフランス人たちは「やっぱりその説が正しかったみたいですね」と言いだして発掘をはじめた。

描いた時に使ったと思われる、獣脂を器に詰めた「マロウ・ランプ?(そう発音したようにきこえたのですがよくわかりません」が見つかった。

+++
みっちり一時間以上ガイドしていただいてから、ホンモのの洞窟入口を見学しに屋外にでる↓

↑地図上で左の上がその場所


↓小さな入り口、近くにさえ行かせてくれない


本物をどうしても見たい人に、一応チャンスが用意されている。
金曜日の10:30に希望する人が名前を書いて箱に入れ、そこから五人だけが当選するのだそうです(^.^)


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ブルゴス大聖堂2019再訪

2019-04-26 20:09:51 | スペイン
★コンデスタブレ礼拝堂の星形天井↓

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★2017年の《手造の旅》で訪れた時のブログをこちらからごらんいただけます
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ブルゴス大聖堂は、パリのノートルダムと同じ13世紀に建設がはじまった。
尖塔はつけられているが、よく似ている↓

高さは84m↓世界遺産に指定されたのは1984年、ブルゴスの町が建設されたのは紀元後884年
「だからぼくはいつも末尾『84』のONCE(盲人協会がやっている宝くじ)を買うんだ」とガイドのルイスさん(^.^) そのブルゴス愛が報われる日がきますように

上の写真、正面中央扉は法皇などしか使用できない。向かって右手の扉があいていて、そこから入ってすぐ右手に「ブルゴスのキリスト」と呼ばれる磔刑象がある。巡礼者に人気なのでここだけは無料で開放してある。

こちらもちらっと見てから、南側の観光客用の入り口にまわり、入場。

パリのノートルダムと同じころのステンドグラスがとても美しい

これは南側を向いていたので破壊を免れたが、
↓北方のステンドグラスは19世紀に新しくされている↓その理由は、、、

ナポレオンが北側の山の上にあった要塞を爆破した時の衝撃で割れてしまったのだそうだ。
****

冒頭の美しい星形天井のある★コンデスタブレ礼拝堂は1482年にシモン・デ・コロニア(ケルンからやってきたからこの名前で呼ばれた)が建設を開始し、1517年に息子のブランシスコ・デ・コロニアが完成させた。親子二代が三十五年の歳月をかけた場所だ。

職人たちが力を発揮するには安定したパトロンが必要。デ・コロニア親子のパトロンだったのはカトリック両王の重臣だったペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコとメンシア・メンドーサ夫妻。中央に横臥する二人の石像はイタリアのカラーラ産大理石をつかって、1534年にフィリップ・ビガルニが完成させた。…これはよくある話なのだが、すぐ横に置かれた花崗岩のテーブルが気になる↓これは何?

「二人は息子もここに葬られるようにとこの台座を用意したのだけれど、息子はそれを望まずに別のところに墓所をつくったんだよ」とガイドさん。
いつの世も、どのこ世界でも、親子はままなりません。
******
↓教会のど真ん中に葬られているのはエル・シド↓

そこから見上げると、冠のように彫刻の天井↓

いちばん上までは五十メートル近いそうな。

↓主祭壇前の成果堆積にあるのは1221年にこの大聖堂の建設をスタートさせた大司教の像↓

これはもともと別の場所に立ったかたちで置かれていたモノを移してきたように見える↑

・・・ブルゴス大聖堂についてはまだまだ逸話がみつかるけれど、別の機会に

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マドリッド到着、翌日セゴビアへ

2019-04-25 15:08:49 | スペイン
23時。マドリッドに到着して、迎えのハイヤーに乗って空港近くのホテルへチェックイン。
ドライバーさんから「ウーバーはバルセロナから追放された」ときいた。マドリッドではそのままなのに、都市によってちがうんですね。※こちらにもう少し書きました
++
翌朝、古代ローマの水道橋で有名なセゴビアへ向かう


***
マドリッド空港から北へ、グアダラマ山脈に近づく

巨大な十字架が見えてきた↓

この下に、フランコ将軍が葬られている。「戦没者の谷」と呼ばれる。
★2015年に訪れた時の記事をこちらに載せています

トンネルはフランコ将軍が故郷のガリシアや内戦時代に三年間だけスペインの首都とされていたブルゴスへ行くのに便利なように突貫工事で建設されたのだそうだ。

水道橋のすぐ前で下車

在スペイン四十年になるというガイドさんがはじめてきたころには、とうとうと水がながれていたのだそうだ。

つまり、今はわざと水を止めているということ。


↑水道は主に地下をとおしている。そのほうが安全だから。
そのままお城のあたりまで続いているのだそうだ。

コウノトリが教会の塔に巣をつくっている。


水道橋のちかくから見えるそんな教会の一つにすばらしいフレスコ画がみつかった↓
★サン・フスト教会について、こちらに書きました


「最後のゴシック大聖堂」と呼ばれる↓

内部の回廊にはじめて入った↓




アルカサールへ入場

中世の城だがきれいに修復されている。当時はイスラム系の職人も多かったのだろう。彼らのスタイルの天井装飾↓


歩いて坂を下り、川のほとりを歩いていくと「白雪姫」のお城のモデルいわれている姿が見えてきた↓


**車に乗って水道橋近くのレストランへ。
イベリコ豚のグリル↓


↓レストランに置かれていたスペインチーズ↓




※2017年のセゴビア訪問ブログをこちらからごらんください

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京都ミニ等伯めぐり~妙蓮寺と本法寺

2019-04-08 17:00:00 | 国内
養父母が没し、妻と幼子の手を引いて能登から上洛してきた長谷川等伯。

京都では故郷の寺からの縁で日蓮宗の寺に世話になっていた。
本法寺には旅姿の等伯の像がある↓

これと同じ像が故郷七尾の駅前にもあるのだそうだ。
**
最初に訪れた妙蓮寺は

桜に日蓮さんが迎えてくださり

散りはじめた花びらが水たまりをふちどっていた

本堂に入って

さいしょのふすまをあけてびっくり

暗闇でこんな子たちがうごいている

「こんな妖怪たちがいたらおもしろいね」という思いで

若いアーティストたちが作品を展示しているのだそうな。

↓この十六羅漢の石庭もよいが

奥の宝物室に保管されている長谷川派の障壁画群は一見の価値がある。
特に杉をデザイン化してならべたような「鉾杉図」は↓
※こちらから「京都観光ナビ」の頁になります
惜しむらくは、収蔵スペースが狭いのでガラスケースに押しこめられている状態になっていること。
距離をとって、上記のもとあったような環境のもとで観たいものだ。
***
★本法寺も桜の盛りだった





ここに収蔵されている等伯の巨大涅槃図(縦10m×横6m)は、この期間に限って、ホンモノが展示されている。
※こちらの英文ページの写真が絵の中心部分をクローズアップして見せてくれます
※この写真でいちばん左端に、緑色の袈裟姿の五十三歳の等伯自身が描きこまれている

この時期の等伯は息子の久蔵を二十六歳で亡くしたばかり。
すでに自分以上の才気を輝かせ始めていた我が子を失くした痛手はどんなだっただろう。
※前出の妙蓮寺に収蔵されていた「鉾杉図」を描いたのは等伯を超える才能をみせた久蔵によるものと推察されている

悲嘆に暮れて絵筆などとれなくなった彼を、この寺の住職が勧めて供養のための大涅槃図を描かせた。
釈迦の死を嘆く衆生が描かれているなかで、ひとり等伯自身が大げさな動きはないが絶望に囚われてしまったような表情で描かれていた。

実際に目にすると圧倒される巨大さ。
これだけの大きさの軸を飾る建物があったのだろうか。
材質は和紙だそうだが、それでもかなりの重さがあるだろう。

伺えば、当時の本堂正面いっぱいに吊り下げられていたのだが、
重さに耐えられずに上部が破れて落ちた。
それ以来、専用のケースに丸めて収納されるのが常になった。
1788年の大火もそれで被災しなかった。
上部に確かに破れた跡が見えた。
***
この寺には本阿弥光悦が製作した「巴の庭」がある

↓左の丸い石と右の小さな池、何を表しているか?

右の池に蓮が咲くと、「日蓮」と読める。なるほど(^.^)

↓廊下の突き当たりに消えそうな鶴が描かれているが、これは下村観山画↓

大観や観山もこの庭を楽しんだのだろう

↓燈籠のひとつを指さして「マリヤ観音が刻まれているようです」とおしえてくださった↓

裏側にまわってみると、たしかに手を合わせる姿があった↓

かつては半分ぐらい埋まっていたので見つからずにすんだようです、とのこと。
解説書に載らない歴史はまだたくさんあるのだろう。

入口のところにお花いっぱいの甘茶池が用意されていて↓

真ん中の生まれたばかりで「天上天下唯我独尊」と歩む小像にかけてさしあげる。
そうか、今日はお釈迦様の誕生日とされている4月8日「はなまつり」だった。




このあたりは京都らしい佇まいが生きていると感じさせる

千利休が住んでいたのもこのあたりだったのか


少し陽がかたむきはじめ、吹いてきた風が花びらをちらした





午後五時、予定通り京都駅に到着!


秋にも大津と京都をめぐり、丹後半島でまぼろしの間人カニを食べる旅をかんがえております
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