旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ベルリンのノイ(新)博物館

2020-03-05 13:32:34 | ドイツ
「ベルリンの金の帽子」は、紀元前一千年から八百年ごろのものとされる。
博物館は1990年代にオークションで入手していて、南ドイツで発掘されたと推定されているが、正確な出自は不明。

↓「帽子」と名付けられているが頭にかぶるものか?どのように使われたのかはわかっていない。
刻まれた(内側から型押しされた)図形が天文観測のデータと一致すると研究がある。

この時代の人々はストーンヘンジのように天空の暦と共に生きていたからそういう祭事だったのだろう。
類似の発掘例が四つあるのだそうだ。
南米の黄金像を手前に置いているのは類似性を言いたいのだろうが、ちょっとそぐわない。
**
これを収蔵するベルリンの「ノイ(新)博物館」は、たくさんの博物館があつめられた博物館島の一角にある。
↓下の写真左ががジェームズ・サイモンズ館と名付けられているその入口。

この博物館最大の目玉「ネフェルタリの胸像」は彼サイモンズ氏の寄贈したもの。
ユダヤ系ドイツ人で綿花商の御曹司としてベルリンに生まれた彼が、綿花の一大産地だったエジプトの考古学に惹かれていったのは必然だったのだろう。時のドイツ皇帝ウィルヘルム二世とも知り合いで、博物館建設の大きなパトロンだった。
19世紀後半、統一成ったドイツ第二帝国は勢いがあって、イギリスの大英博物館やフランスのルーブルにまけじと世界中から文物のコレクションをしていた時期にあたる。

博物館はいくつものビルに分かれていて、一月通ってもみきれないだろう。
総合博物館というのは辞書のようなもので辞書を片端から読んでいく必要もない。

↓チケット売り場

↓博物館全体のモデルをみると、なるほどここが「博物館島」であることがわかる↓

19世紀から計画的に建造されてきたエリアである。
↑模型の中にもベルリン大聖堂が見られるが、実物がこれ↓

サイモンズの入口↓みつけてください

とにかく広い

古代セクションだけでも地域や歴史ごとのセクションに分かれていて、入り口に代表的なもののイントロがある。
ガイドさんがいっしょでないと迷うばかりで二時間ぐらいすぐに過ぎてしまうだろう。

↑紀元前五世紀ごろエトルリアの神殿屋根瓦。中部イタリアのもの。
↓エジプトのコレクションはとても豊富
↓これは何をしている図?

↑出来上がった等身大の座像を運んでいる場面だそうな。なるほど(^.^)
↓ネフェルタリの胸像だけが写真撮影禁止

隣の部屋からなら撮影OK

小松が前回これを見たのは東ベルリンエリアのエジプト博物館にあったころ。二十年ぐらいは前になる。
すぐに思い出したのはカイロの考古学博物館にある胸像を量産するための元型とされるもの↓

※2004年ごろに撮影
見比べると、ベルリンの完成品はカイロのような花崗岩の元型の上に大理石の粉を練ったストゥッコを塗りつけて細部をリアルにし、冠の部分はあとから接合しているのだとわかる。
あまりスポットをあてられないのだが、この元型はネフェルタリ本人を見て製作されたものかもしれない。
完成品よりもリアルなデッサンといったところかしらん。

第二次大戦中に破壊されたが残ったものをできるだけ使って再建されている


シュリーマンが発掘したトロイ遺跡の装飾品「プリアモスの宝」は、1945年にベルリンを陥落させたソ連軍が持ち去ってしまった。
ソ連は長くその存在さえ認めなかったが、ロシアはその存在を認めて一時は「ドイツへ返還する」と言っていたが、後に気が変わっていまもモスクワにある。↓これはそのレプリカになる↓


★ペルガモン博物館は現トルコ領のペルガモン遺跡から神殿ひとつまるごと移設してきたもの。

※その神殿は2020年現在修復中で公開しておりません
が、現在のイラク北部アッシリア文明に属するバビロンのイシュタール門の復元が圧巻↓


紀元前六世紀ごろネブカドネザル王の時代、宮殿の入り口
参道にはライオンのタイルがずらり


↓百年ほど前にこんなかたちで発掘されていたものをもってきてしまったのだ


イスラム美術のコレクションも↓



フランスのルーブル以上には英語解説があるし、じっくり見学したい博物館です(^.^)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルリンの壁は今

2020-03-05 10:07:23 | ドイツ
残されたベルリンの壁際を、白煙をあげて走るトラバント↓

現在のトラバントについてこちらに書きました
「若い人はもうどこに『ベルリンの壁』があったかのかを知りません」と旧東ドイツ人のガイドさんが言う。
意図的に残されたものしか、現在では見ることが出来ないのだ。
↓こちらはそのひとつ↓

冒頭写真の左側に映っていた壁の裏側になる。
↓ここが何も建てられずに残っているのは↓

東ドイツ時代の秘密警察「シュタージ」があったから。
市民を監視し時に捕えて拷問していたとされる場所だから。
壁があった時代というのは、ベルリン市民にとって消し去りたい一種の「恥」なのだろう。

「ベルリンの壁」は1961年に建設された。※このあたりの経緯は下記のリンクに書いております
東西ベルリンの間には三つの検問所A,B,Cがあり、「C」はチャーリーと呼ばれていた。
※2018年に訪れた時のことをこちらに書いております

壁際にあった建物は皆撤去され、そこは「死のゾーン」と呼ばれる細長い監視区域となった。
ただひとつ残されていた「和解の教会」(※皮肉な名前です)が1985年になって爆破された時の写真が掲示されていた↓

壁が必要なくなった1989年以降になって、教区の人々は同じ場所に礼拝所を設けた。
今、そこは、ベルリンの壁で殺された人々を追悼するミサが行われているそうだ。
ベルリンの壁がどのようなものだったのか。
イラン難民の子としてウィーンで生まれたヤドガー・アシシのTHE WALLという360度パノラマのインスタレーション作品を公開している↓※こちら、彼のホームページにその簡単なビデオがあります

他の博物館とは違うアプローチをしているのだろう。
観てみたいけれど、いつも時間がなくて残念…
チェック・ポイントチャーリーにはいつも警備兵が立っていた。
二年前はその扮装をして写真を撮らせる商売をしている輩がいたが「不謹慎だ」とクレームがあってもう今はいなくなった。


**
ベルリンの壁に近づく者は撃たれたのだから、こんな絵など描かれていなかった。

この「イーストサイドギャラリー」がはじまったのは2009年から
※2018年に訪れた時の写真をこちらに載せております

一角がこんな風に切り取られて↓その部分が移動させられているのが気になっていたのだが、今回ペトラさんに説明してもらってやっとわかった↓

この壁が除けられた部分から見えている「メルセデス・ベンツ・アレーナ」↓

2008年に建設された当時に命名権を持っていた携帯電話会社の「O2(オーツ―)」が、
「シュプレー川の船着き場からアレーナが見えない」と文句を言って、壁を40メートル分取り除かせたというのである。
スポンサー様の意向にはベルリン市も逆らえなかったのか…。

2015年からはベンツに名前が変わった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドレスデン二年後の再訪

2020-03-04 16:27:26 | ドイツ

マイセン磁器製の102mの壁絵「君主の行列」
↓これは連合軍の爆撃にも無傷だった

最初は1876年にスグラフィートで画かれたものだったが、1906年にマイセン磁器タイルでつくりなおされたもの
↓行列の最後に磁器製作者が参加しておりますとさ(^.^)↓

※アウグスト二世の乗った馬がバラの花を踏んでいることについては2018年のブログに書いております。ラファエロの画いたほうづえをつく天使のあるので有名なドレスデン絵画館についても書きました。

**
2018年に訪れたのは一月末だったからか、三月に入っている今回はずいぶん暖かく感じる。
聖母教会も青空の下ずいぶん明るく映る

二年前に神秘的に見えた堂内も、今日は光にあふれている↓

連合軍の空爆で瓦礫と化した以前の教会のドームにあった十字架も↓

↑今回新たに知った事
二階にあたる部分にガラスのはまった部屋がぐるりと囲んでいるが、これらはドレスデンのお金持ちファミリーが使っていた部屋。
※2018年1月に訪れた時の写真をこちらからごらんください




★ツヴィンガー宮殿の中庭にはじめて見る白いドームがあった↓

↓きけば、1719年にアウグスト二世(強王)が、息子のアウグスト三世の結婚式に催した祭典の様子をヴァーチャル再現した期間限定展示だという↓

三十分ほどの自由時間に観ることにした。料金3ユーロ、実質上映時間12分↓

おぉ、言葉が分からなくてもかなりリアルに楽しめる(^.^)
今も見られる「ポーランドの王冠」⇒2018年に撮影
ツヴィンガー宮殿にはマイセン磁器にまつわるおもしろい展示もたくさんある。
良いガイドさんともお知り合いになれたことだし、ドレスデンに宿泊して博物館もゼンパーオペラでの催しも楽しめる旅、つくってみたいです。
***
ツヴィンガー宮殿は「催物会場・展示場」であったが、実際に住んだのはこちら↓レジデンツ

中庭に覆いがかけられて通り抜けもできる展示空間になっている

となりの長方形の中庭は、中世に騎馬試合が行われていた場所↓としてはヨーロッパ最古だそうな↓

↑二本建てられたポールはそこを基準にして長槍を抱えた騎馬武者の試合が行われていた証拠。
向かい合って突進してきて、出会いがしらに相手を突き落とそうとする試合であります。
↑面しているルネサンス風スグラフィート装飾のある建物は厩(うまや)。常時百三十頭もの馬が用意されていたそうである。

午後四時、ベルリンへ向かって出発
カナレット1720-1780(ヴェネチアの風景画で有名なカナレット1697-1768の甥)が画いたのと同じように、ドレスデンの旧市街がエルベ川に映っていた

↓こちらが1750年ごろにカナレットが画いたドレスデン。昨年ドレスデンの絵画館で見ました。

****
絵画館付属の「アルテ・マイスター・カフェ」でのランチ。
たいへん質が良く、量的にもそれほど多すぎずほどよい。
今回は我々だけのためにお昼にあけてくれていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゼンパーの美しきオペラ座

2020-03-04 15:51:52 | ドイツ
ドレスデンのオーパー(オペラ座)は噂どうりの美しさだった。

19世紀前半の馬蹄形型劇場のなかでもっとも美しいものとされている

火災や戦災で何度か建てなおされているが、ワーグナーが指揮者を務めていた1840年代の雰囲気が感じられる。

↓驚くのはこの座席の配置↓

真ん中にあるべき通路がない!
遅れてきた人が中席にはいるのはなかなかたいへん
だが、この座席自体は新しい。背中の穴が空調になっているのです↓

この座席をとりはらって舞踏会も行われるのだと、ガイドさんが写真をみせてくれた↓

設備は現代のものに換えたのに、全体のスタイルと装飾はゼンパー時代のものを踏襲しているのか。
新しい劇場にした方が舞台は確実に見やすいのに、それでも昔と同じように復元したいと思わせる魅力がこの劇場にはある。
↓こちらロイヤルボックス入口

この席に座るのならそれなりの服装が必要になるでしょうねぇ

ロイヤルボックスを一般客席から見上げると↓こんなに目立つ場所になるのだから

この座席にはザクセン王国(1806年~1918年)の国王も座った筈。
王国の紋章が舞台の上に大きく掲げてあるのが見える↓

**
「柱の林」と呼ばれる階段近くのエリア↓

これらの柱はホンモノの大理石ではなく

↓疑似大理石↓塗り上げていったものを磨いてこの文様をだす

戦前のものは少し色が薄く
戦後の再建の際のものは緑色が濃い↓

どうしても同じには出来なかったとうことだが

疑似大理石であっても高価で美しい装飾であるのは間違いない。
↓手摺の下のこの部分はホンモノの大理石なのだが↓

比べてみて、どちらが美しいかは歴然。
↓戦後の再建には木を使わずに、木のように見えるためにひとつひとつに木目を画いていった↓

ぱっと見、まったくわかりません

現在の概観は戦後に建てなおされた際のもの↓

戦争中に爆弾がど真ん中に落とされたのだが、外側・外観は幸い残されたので内部だけをすっかり新しくしていたのだ。
もしも爆弾が壁をも破壊していたら…ライプツィヒのように全く新しい演奏劇場として建てなおされていたかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラハ城、旧市街

2020-03-03 18:55:33 | チェコ
16世紀のゴシック天井が今も美しい、プラハ城の広間。

当時は馬場になっていて屋内騎馬試合も開催されていたのだそうだ。
チェコは当時ボヘミア王国の首都。
王の三種の神器のレプリカが一室に展示されている↓

↓宝物は実際には白い塔に保管されているそうな


王宮の敷地でもっとも目立つのは聖ビート大聖堂↓
↓完成まで五百年もかかった建物で、16世紀当時は塔から右までしか完成していなかった↓

↓なるほど。左の門をくぐって中庭に入ると、入口の塔が近すぎるのはそれがためだったのか

ゴシックで統一された内部

↓入口から入って三つ目のステンドグラスを19世紀のミュシャがデザインしているのは、ここがその当時新しく建築された部分だったからである。

↓奥(東側)に行くほど古くなっていて
↓この木製のプラハの様子は1620年にハイデルベルグからこの地にやってきたプファルツ選帝侯フリードリッヒ五世が「白い山の戦い」に敗れて城を脱出するシーンが画かれている↓何度も見ていたが今回はじめて認識した


↓こちらは15世紀の礼拝堂

聖バーツラフの遺物が保管された14世紀の礼拝堂↓

**
トラムに乗って市民会館前まで移動し、旧市街広場まで歩く
↓左側が破壊されて空き地になったままの建物だが、塔には見事な仕掛け時計がはめこまれている↓

↓一時間に一度、地味だが動いてくれる

↓この塔は市庁舎の一部になっているのだが、塔から左へ四つの建物を買い取って市庁舎としてつかっているのだそうだ。

↓そのまた左に建てられた建物では「カフカ賞」の授賞式が行われる場所だそうで、2006年には村上春樹氏も訪れている。


↓カレル橋を渡ろう

ここから見上げる、先ほど訪れたプラハ城

教会がひときわ聳えている

↓橋にたくさんの彫刻が設置されていったのは18世紀以降バロックの時代。
少しひろくなったところは処刑場だったと解説された


カレル橋を渡りきってバスの待つ隣の橋までもすこし歩いた。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする