旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ペール・ラシェーズ墓地

2021-02-17 09:41:27 | フランス
2007年フランスの旅より
ポーランド人のショパンは1849年にパリで亡くなった。
三十九歳だった。

↑音楽の女神が悲しむ彫刻が乗せられた墓石。
この墓地で最も多く花が手向けられる墓石かもしれない。

ルイ14世の告解僧だったラシェーズ神父がかかわった場所がフランス革命がはじまって墓地として使われることになった。
なので古い墓はなく、19世紀半ば以降の著名人が多く葬られている。

イタリア人のロッシーニも1868年にパリで没↑ここに葬られたが翌年イタリアに改葬された。


19世紀はエジプト文明がヨーロッパでブームになった時代。
その契機となったのがヒエログリフを解読したシャンポリオン。
彼の墓はささやかなものだがオベリスクが立っている。

年の離れた兄の影響で言語と考古学に興味を持ち、三十二歳の頃にヒエログリフを解読。
はじめてエジプトを訪れたのは解読の後。自分だけが古代の文字を読むことができるというのはどんな気持ちだっただろう。
四十二歳で没。

ルーブル美術館初代館長ドノンの墓↓ショパンの墓のすぐ前にある

ナポレオンと共にオスマン・トルコ領のエジプトに遠征し、いつ銃弾がとんでくるかわからない中で大量の絵を描き刊行したことにより、ヨーロッパにエジプト文明の存在を知らしめた。

ナポレオンが失脚する1815年まで、美術館となったルーブルの館長に任命された。
**
19世紀に墓地となった場所なのに、それ以前ルイ14世時代の作家二人が埋葬されている↓

↑手前右手が1673年に亡くなった●モリエールのもの。
ルイ14世に気に入られ今も上演される数多くの喜劇を書いたが、イエズス会をはじめとするカトリック教会を風刺していたので破門された。
52才の時(結核で?)血を吐きながらも舞台を終えたその日に亡くなったが、どこの教会も埋葬するのを拒否した。
王のとりなしで、洗礼をうける前に亡くなった幼児のための墓地の一角になんとか埋葬されていた。
ここペール・ラシェーズに改葬されたのは1817年。

↑奥左手はモリエールより一歳年長だった●ラ・フォンテーヌの墓。
彼はルイ14世が嫉妬して失脚させた(と思われている)財務長官フーケに気に入られて宮廷詩人になった人。
ギリシャのイソップ物語をベースにした物語などを書き、モリエールとは違った活躍をしていた。
が、ほぼ同年齢のモリエールとはきっとどこかで面識があったのではないかしらん。
ラ・フォンテーヌもまた別の場所からここへ改葬された。
死後百年もしてから隣り合わせに改葬されようとは、「奇遇だねえ」と笑い合っているかもしれない。

***
この墓地のすぐ隣にある公園の入口に↓こんな鉄格子が残されている↓

ナチスドイツの支配に抵抗したレジスタンス四千人が投獄された刑務所で、1974年までは死刑も行われていた場所なのだそうだ。

ペール・ラシェーズ墓地には、1871年の5月パリ・コミューンの際に最後まで抵抗した人々が逃げ込んだ。
いちばん奥の壁まで追い詰められ百名以上が銃殺されたと伝わっている。
※ミュージカル「レ・ミゼラブル」の最後の戦闘シーンの後に起きていた史実ですね


地下鉄のペール・ラシェーズ駅
●2007年にご一緒した方が
同じパリ・メトロ三号線の二駅となりの「パルマンティエ」駅に是非行ってみたいと言われた。

当時小松は全く知らなかったのだが、パルマンティエというのはフランスでジャガイモを食用として広めた人物だった。
現在でもレストランでフランス語のメニューを見てそこに「・・・パルマンティエ」と書かれていたら、それはジャガイモ料理である。
新大陸から観賞用として入ってきたジャガイモは当初伝染病を媒介するとまで間違われていたが、
手を変え品を変え、普及に尽力した物語が地下鉄駅に展示してあった。

↑農民にジャガイモの価値を教える図↑
1871年のパリコミューンの際に、包囲されて飢餓に陥ったパリ市民を助けたことでいっきに普及したのだそうだ。
1813年に亡くなって、やはりこのペール・ラシェーズに葬られている。



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ニッシム・ド・カモンド美術館

2021-02-13 18:22:45 | フランス
2005年フランスの旅より
1917年一人息子ニッシムが戦争で亡くなると父モイズはビジネスから身をひいた。
1935年自らの死に際しこの邸宅と家具・コレクションのすべてをフランスに寄贈した。

1911年からあしかけ四年をかけて建設されたパリの豪邸がそのまま美術館になっている。

二十五歳で亡くなった息子ニッシム。
父のモイズはオスマントルコ帝国のイスタンブールにうまれ、9歳の時に父のニッシムと共にパリに移住してきた。
亡くなった息子は祖父の名前を継いでいたのだ。
モイズがパリで結婚したのはこの人↓

↑彼女が9歳の時にルノワールが画いた肖像画。
最近の展覧会で日本でも展示された有名な一枚(^.^)

この邸宅はいわゆるアール・ヌーボー隆盛の時期の建築なのでその雰囲気も随所に感じられるが、

装飾はヴェルサイユ離宮のトリアノンをお手本にしているそうな。なるほど。
通称「ロココの女王」=マリー・アントワネットの肖像も。

実際に宮殿で使われていた家具もコレクションしていた。


この階段の雰囲気はトリアノン宮殿がたしかに感じられる。
※こちらに少し載せています



↓あきらかに別の場所から持ってこられた家具が、うまく合ってない置き方をされている部分もある↓



これらのダイニング食器は実際にカモンド家によって使われていたものだろう。

↑このおもしろいカタチの容器は氷をいれてグラスを冷やしておくためのもの。


当時最先端のキッチンは広々として使いやすそう(^.^)

窓の外にはモンソー公園の緑

モンソー公園側から見たところ↓

モンソー公園は英国風の庭園だが、どこかヴェルサイユを感じさせる構造物もある。

地下鉄のモンソー駅


オスマントルコ帝国の銀行家だったカモンド家は、数代前はスペインからトルコへ移住したユダヤ人だった。
パリに移ってからもユダヤ教への帰依はかわらず、残っていたモイズの一人娘もユダヤ人家族と結婚してパリに住んだ。
ナチス・ドイツがパリを占領すると二人の子供(モイズの孫)ともどもアウシュヴィッツに送られ、戻ってくることはなかった。

モイズとは早くに分かれて再婚していた(ルノワールに少女時代を描いてもらっていた)イレーヌは、南フランスにのがれていて生き残った。


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アンヴァリッドのナポレオン展示

2021-02-08 22:45:45 | フランス
2004パリの旅より
ナポレオンが死の床で傍らに置いていた息子=ナポレオン二世の肖像

2004年にアンヴァリッドで展示してあった。

大西洋の孤島セント・ヘレナの小さなベッドだった。

政略結婚した二度目の妻マリー・ルイーズに未練はなかっただろうが、三歳で生き別れた唯一の子供には会いたかったにちがいない。


ルイ14世が傷痍軍人のために建てたアンヴァリッド=日本語で直訳して「廃兵院」

黄金のドームはヴェルサイユ宮殿の建設にもかかわったマンサールの設計で18世紀はじめには完成していた。
1715年には金色に塗られたというから、ナポレオンもこの金色のドームは見ていた筈だ。
※2015年に今も一部が軍の病院として使われているのをみかけた。この日のブログはこちらからごらんください。

軍人のための教会には、戦場でつかわれてきた軍旗がかかげてある。
今も現役の兵士の結婚式が行われる。

フランスの軍事史上最大の英雄・ナポレオンの墓はここにある↓

ナポレオンの墓安置するために掘り下げて

1861年に完成した。

ナポレオンの遺体がその遺言通りパリに埋葬されるには、孤独な死から十九年の年月が必要だった。

セントヘレナ島のナポレオンの墓は

イギリス軍によって厳重に管理されていた。
ナポレオンに心酔していた王政復古のルイ・フィリップ王が1840年にイギリスと交渉して返還されることになった。

↑アンヴァリッドの壁にその時の様子が刻まれている。
右から運ばれてきたナポレオンの棺。
かつてナポレオンと共に戦い、今は年老いた兵士が足元で涙している。
老兵たちに担がれた遺体は凱旋門の下に一夜安置された。

その時棺を入れた枠もアンヴァリッドに展示されていた↑
「願わくばセーヌのたもと、私の愛したフランス人民の中で眠りたい」

アンヴァリッドは彼の軍服もたくさん所蔵している。


中庭を見下ろす場所には


***
石棺をとりまく部屋のひとつに、

冒頭の肖像画のナポレオン二世の墓がある。

母の故郷ウィーンのシェーンブルン宮殿できびしい監視の下に育てられたが、成長して歴史を学び、父を敬愛するようになっていった。
自分をほったらかしに再婚してイタリアのパルマにいったきりの母マリー・ルイーズとはほとんど会えなかった。
二十一歳の時結核で亡くなり、ハプスブルグ家の霊廟に埋葬された。

第二次世界大戦でフランスがドイツの支配下に入ると、ヒトラーは人気とりのためにフランス人の英雄=ナポレオンの息子の遺体を父の元に改葬したのだった。

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デュフィの巨大壁画「電気の精」がある東京宮殿とケ・ブランリ美術館

2021-02-06 09:29:15 | フランス
2007、2011年のパリより
セーヌ川沿いにある東京宮殿(Palais de Tokyo)は

デュフィーの巨大壁画を見るためだけにでも訪れる価値がある。

1937年のパリ万博「電気館」のために描かれた壁画

↑当時の会場見取り図↑左下の建物が東京宮殿。
↑セーヌ川沿いの道がTOKIO通りなのが見える↑
※この万博ではスペイン館にピカソが「ゲルニカ」を出展していた
ゲルニカを訪れた時のブログをこちらからご覧ください


世界が電気によってどんどん変化していった時代。

幅60m×高さ10mの大画面に、電気と人類にまつわる神や人を百人以上登場させていてる。

エジソンとかグラハム・ベルとか・・・

デュフィーというと水彩画のイメージが強いが、この絵は特別に調合させた軽い油を使って描かれている。
二百五十枚の合板=いわばベニヤ板を組み合わせて。
巨大画面によくあるフレスコ画やモネの睡蓮のような通常の油絵の手法ではデュフィのスタイルが実現できないと考えたからだろう。

その試みは成功している。


この美術館を訪れなければ観られない、もうひとつの巨大作品は↓

↑マティスがフィラデルフィアのバーンズ・コレクションの建物のためにデザインした「ダンス」

フィラデルフィアのバーンズ・コレクションに完成した最終デザインとは少し違っている。
マティスはこんな実物大習作を描いて準備していたのか。

フィラデルフィアで観る機会、つくりたいなぁ…。

子供のころからこういうホンモノにゆっくり出会えるパリは恵まれた環境です。
**
他にも目に留まった絵画作品はたくさん
デ・キリコ、
フジタ
マティスのようなデュフィーのカンバス画

***
●ケ・ブランリー美術館はセーヌ川を挟んで東京宮殿の対岸にある。

モダンな建築はジャン・ヌーベルによる。

その現代的な建物の中に収蔵されているのは

アフリカやオセアニアを中心とした民族博物館にあるようなコレクション

シラク大統領の肝いりで、「ヨーロッパ以外の民俗学的な芸術を」という趣旨で2006年に開館したが、
「アフリカン・バザールのようだ」という声もあがり、賛否両論。

アジアのコレクションには日本の古い琴もあったが

こんな風に物置のように展示されてしまわれるのは楽しくない。

ここは建物そのものを楽しむ空間として訪れるのがよいかも。

特にテラスにあるレストランは眺望もよくておすすめ(^.^)



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マントゥノン

2021-02-04 11:37:01 | フランス
2006年フランスの旅より
ローマ遺跡ではない。

ルイ14世治世下の1685年、ヴェルサイユ宮殿に水を運ぶために建設がスタートした。
工事は三年続いたが八十キロの水道は完成せず、アーチの一部だけが放置されている。

↑完成予定地図に四十七のアーチが見える↑
建設したのは築城の専門家ヴォーバン


マントゥノンは水源となったウール川が流れる。

小さな町の中心は15世紀半ばルイ12世の頃から建設されていたという城

↑両端に見える赤い二つのドンジョンがフランソワ一世(ダ・ヴィンチのパトロン)、アンリ二世の時代のもの。
その間の窓の多い建物が17世紀ルイ14世時代のもの。
ここに住んだのがルイ14世が最後に愛したフランソワーズ・ドーゥビニエ=通称マントゥノン夫人。

彼女はルイ14世の愛妾モンテスパン夫人の子供達の世話係として雇われたが、後にモンテスパン夫人よりも王に気に入られ、1715年の王の死まで傍に居た。
49歳の時には45歳の王と秘密結婚していたという話もある。

王の死後四年生きたマントゥノン夫人はヴェルサイユを離れてこの舘に住んだ。

冒頭の水道橋の残骸はその当時も同じように窓から見えていただろう。

宮殿内部は18世紀の雰囲気が感じられる。

↓置かれていたビリヤード台の角、球をとりだすところ↓

↓ルイ15世の肖像↓

わずか5歳で即位した幼王の後見人をつとめたメーヌ公ルイ・オーギュストはマントゥノン夫人が養育係をつとめていた人物だから、十歳に満たないルイ15世もこの舘を訪れたことはあっただろう。

↑ルイ15世の孫にあたるルイ18世は太った大男だった。

マントゥノン夫人がある朝目覚めると、目の前に身長二メートルを超える大男が立っていた↑
お忍びヨーロッパ遊学中のロシア皇帝ピョートルが、夫人の話をきいて興味を持ち会いにやってきたのだった。
ルイ14世紀亡きあとにも伝説的に語り継がれていた人であったのがわかる逸話である。
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