旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ハーヴァードからボストン美術館へ~「我々はどこから来たのか…」

2021-05-22 08:25:25 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より

D'où venons-nous ?
Que sommes-nous ?
Où allons-nous ?

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
タヒチで二十歳の娘の訃報をうけとったあと、四十九歳のゴーギャンが完成させた。
経済的にも行き詰まり、完成後に自殺を試みたとされている。
この作品に出会うためにだけでもボストン美術館に行く価値がある。

午前中にフリーダムトレイルを歩き、クインシー・マーケットでお昼。
午後はハーヴァード大学とボストン美術館を訪れた。

六月、ハーヴァード大学は卒業式の準備がすすめられていた。

卒業式は野外で行われる。
著名人のスピーチが続く七日間のお祭り週となる。
学内は我々のような旅人もノーチェックで自由に入れる。
こうやって創立者ハーヴァードさんの像に触ることもできる。

ハーヴァード大学の校章に刻まれたモットーは「VERITAS=真理・真実」
聖書のヨハネ福音書にある「veritas liberabit vos」(真実・真理はあなた方を自由にするだろう)からとられた。

アメリカにキリスト教の宗派はたくさんあるが、学内の教会はそのどれにも属さないそうだ。

その壁には戦争で落命した校友たちの名前がずらりと刻まれている。

学校グッズのショップも充実しております(^^)
※ハーヴァード大学については2012年に訪れた時のブログもご覧ください
**
ボストン美術館へ向かう。

冒頭の言葉が書かれたゴーギャンの作品↑全体はこんなに大きい。
縦約1.4m×横約3.8m。実際にそのサイズを知ると、もっと大きな絵はいくらでもあるとわかるのだが、サイズ以上の大きさを感じさせる。

画面の右から左へ人生が展開していると解説されることが多い

左下に画面唯一の老女が「これでよかったのか?」というような横目で振り返っている。
白い鳥はどこへいざなうのだろう。


モネが三十六歳の時に、妻のカミーユをモデルに描いた。
まだ睡蓮の庭なんか影もカタチもない時代。すでに日本趣味だったのだ。

ボストン美術館は日本美術でも有名。

ただ集めているだけではなく、その展示環境も考慮されている。

もちろんホンモノのお寺のようにはいかないが、そのような光の下で見ることは必要。


曾我蕭白の「風仙図屏風」↑退治しようとしている竜の姿を描かず↑左の真っ黒な風?で表わす迫力
日本にあったら重要文化財指定まちがいなし。

↑三万枚を超える浮世絵をボストン美術館に寄贈したビゲローWilliam Sturgis Bigelow(1850–1926)を、浮世絵画家・小林永濯が描いた軸。フェノロサや岡倉天心と共に明治初期の日本美術を守り・収集し、故郷ボストンに伝えた人物。大津の三井寺に葬られている。

あ、加納芳崖の「悲母観音」?↑よく似ているけれど、岡倉秋水(天心の甥)が描いたものだった。

これ中国だったか韓国だったかメモしていなかったのだが↓


実に美しい。


ヨーロッパの伝統的な美術もあるが


印象派をはじめとする、従来のサロンに受け入れられていなかった画家達を最初に評価したのはアメリカだった。

モネはその代表格。
モネの没後に荒れ果てていたジベルニーの睡蓮の庭を修復したのもアメリカマネーだった。

アメリカらしい作品も充実している

※オキーフのこんな大作、2015年にニューメキシコでオキーフ美術館に行った時にもなかった
※こちらで書いています


エドワード・ホッパーらしい、明るくシーンとした画面

※2010年に大きく改築されたボストン美術館、加わったアメリカ美術のセクションを2012年に解説していただきました。こちらからご覧ください。

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ボストンのフリーダムトレイル~ビーコン・ヒルからポール・リヴィアの家へ

2021-05-21 07:25:25 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より

1776年7月18日、独立宣言が読み上げられたバルコニーは、ビルの谷間に埋もれている。

建物は1713年ごろのもの。日本なら赤穂浪士討ち入りの十年あとぐらい。

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前日夜に日本から到着し、ボストン・シンフォニーからすぐのホテルに泊まった。
ここを選んだのは夜のコンサートのため※別記

市民に「T」と呼ばれているボストン地下鉄の「シンフォニー駅」に入る

アメリカ最古19世紀末に建設された線なので、地上からごく浅いところを走っている。

2006年にはトークンというメダル形状の切符を買って改札に投入しておりました

「パークストリート駅」まで四駅。
降りて地上に出ると「ボストン・コモン」
「公共公園」というと聞こえが良いが、英国軍の軍事教練の場所であり海賊の処刑や魔女裁判も行われた。

↑全長約四キロ アメリカ独立戦争のはじまりを記憶する「フリーダム・トレイル」はここからはじまる。

少し坂になった丘=ビーコン・ヒルにそびえる金色のドームはマサチューセッツ州議事堂。
1798年に完成した時は木製だったが、後ででてくるポール・リビアが銅でカバーした。金箔が貼られたのは1874年。
※ボストン美術館に銀製のお茶入れを持つポール・リビアの肖像画があって、これがフランドル絵画のよう(^^)絵画好きな方には必見。2012年に訪れた時の写真を載せましたのでご覧ください。

議事堂のすぐ前に↑はじめての黒人兵士が行進する記念碑がある。

第54マサチューセッツ歩兵連隊は南北戦争時、はじめて黒人だけで編成された部隊。

↑騎乗の司令官はしかし白人のロバート・グールド・ショー↑
1989年の映画「グローリー」のモデル
戦争はいつでも、差別されていた人々が認められていく契機になってきた。
この部隊は1863年のワグナー砦攻略戦で半数近い犠牲者をだし司令官のショー自身も戦死している。
つまり、この碑に描かれたボストンから出兵する行進は、ショーや多くの兵士にとって今生の分かれになったということ。
**

1809年に建造されたパークストリート教会は当時のボストンのランドマーク。
港に入る船から見える、当時全米一の高さの建物だった(約六十メートル)の塔だった。
景観だけでなく、アメリカ社会のランドマークでもあった。
1829年にはじめて奴隷解放の演説が行われた場所であり、女性参政権運動、刑務所の待遇改善運動などの人権運動の拠点になっている。英米戦争の頃には教会の地下には火薬が貯蔵されていた。


教会の隣のグラナリー墓地には建国初期の有名な人物が多く葬られている。

↑このオベリスクはフランクリンの家族のもの。100ドル札で有名なベンジャミン・フランクリンはフィラデルフィアに葬られている。

※この周辺について2012年の旅で書いたブログをごらんください


↑無骨なキングス・チャペルはその名前のとおり英国系の教会として建設された。
一見大理石の柱だが・・・

木造なんです。

内部は有力なファミリー用の「個室」がならぶ。冬場はこの方が暖かかったのです(^^)
1776年3月17日、大陸植民地連合に包囲されていた一万一千人の英国軍とおよそ一千人の王党主義者たちは無血でボストンを明け渡す。この教会は英国国教会から、アメリカではじめてのユニタリアンの教会になった。
塔で鳴っている鐘は1816年にポール・リヴィアが制作したもの。二百年の現役。


↑あ、水陸両用戦艇をつかった観光「ダック・ツアー」↑

アメリカ最初の学校=「ボストン・ラテン語学校」が1635年4月開校した場所に

それを記念するモザイクプレートが設置されている。

裕福でなくても入学できたが男子のみ。その歴史は1972年まで続いた。
ベンジャミン・フランクリンは十歳までここの生徒だったが退学して印刷・出版会社の徒弟となった。

フランクリンの像がある。

後ろの建物はボストン旧市庁舎↑今は中に高級ステーキハウス


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この頁の冒頭写真1713年建設のイギリス時代の植民地事務所⇒独立後の旧州議事堂だった建物↓

イギリスのマサチューセッツ植民地役場だったので↑切妻の左右にはイギリス紋章のライオンと一角獣↑
1770年3月5日に起きた「ボストン虐殺」の絵にも描かれている

事件現場を表す表示がこれ↓




ファニュエル・ホールは自由スピーチの場所として有名。

遅めのお昼をとなりのクインシー・マーケットにて、クラムチャウダーやロブスターロールを

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さらに北に向かうと1680年ごろに建設されたボストンでも指折りに古い「ポール・リヴィアの家」がある。

1770年、三十五歳の銀細工師ポール・リヴィアは家族と共にここを購入。五年後1775年4月18‐19に英国軍の動きを大陸愛国者たちに通報する夜の騎馬行をした↑このかっこいい騎馬像はそれをあらわしている。アメリカの小学生がみんな習うのだそうな。

この家は19世紀を通じて移民たちの安宿として営業していたが、1908年に史跡として買い取られ、博物館として営業している。

↑ポール・リヴィアが生きていた18世紀後半の地図↑青いのが当時の海岸線。
後にどれだけ埋め立てられたのかがわかる。


この周辺は下町で八百屋さんがたくさん

近くのノース・オールド教会

この教会の塔に掲げるランタンの数で英国軍が陸路か海路かを知らせた。




車に乗って川向うの大学地区へ

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