旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

長浜下見・打ち合わせ

2022-11-09 09:51:38 | 国内
イチョウの古木が神社の境内を守るように広がっている。きれいに掃除された静かな美しい集落。


11月28日からの《手造の旅》近江長浜と間人のため、下見と打ち合わせに訪れた。11月7日正午過ぎ、長浜駅を出たところから伊吹山がきれいにみえる。

石灰岩の採掘で山のカタチが変わっているが、それでも美しい。
※「地質で語る百名山」のページにリンクします

今年春の旅で竹生島をガイドしていただいたMさんと待ち合わせ。
車でMさんの集落に受け継がれている十一面観音の話をきかせていただいた↓

↑村に伝わるにしてはかなり立派なお像。
長浜はかつて天台宗をはじめとする大きな寺院が立ち並んでいたが、信長の戦乱によってほとんどは焼失してしまった。里人はせめてお像だけでも救いたいと運び出し、田んぼや地面に埋めて隠した。江戸期にはそれらが村々の宝となり誇りとなり、小さな村には似つかわしくないほど立派なお像が近在の村々に、ある。現在でもお願いすれば拝観させていただける。

Mさん宅のある田中集落手前で↑「富田人形館」がめについた。
下調べの時に、人形浄瑠璃が伝わっていると書かれていたが、ここがそうか。
※観光情報サイトにリンクします
旅の本番でぜひ訪問したい。

Mさん宅のすぐ近所↑長い立派な壁が続く家ばかり

↑Mさん宅には錦鯉が泳ぐ日本庭園があった↑

奥様手作りの干し柿が絶品!↑丁寧に昔ながらの暮らしをしておられる。

しかし、裏の家ではなんとエアB&Bを営んでおられて
つい先月もオーストラリアからの日本語を学んでいる学生が一週間滞在していたのだそうだ立派な柚子の木。

近くの神社には↑五十年ほど前に倒壊したという鐘楼がさいけんされかかっていた↑

↑あの向こうの社に十一面観音が安置されている(^^)

11月28日に宿泊する己高庵に向かう途中↓こんな塔が見えたが教会ではなく、

ヤンマーの創業者山岡孫吉の生まれた場所に、ヤンマーが寄贈した「ヤンマー会館=東阿閉(ひがしあつじ)公民館」だそうな。
長浜の農家に九番目の子供として生まれた山岡は、動力をつかって農業を楽にする方法を考え続けた。ドイツで学んだディーゼルエンジンを世界最小化に成功し、本家ドイツでも高く評価された。この会館の形状はそこからきている。※ヤンマーの名前は「山岡」と通称「勝ち虫」と呼ばれるトンボの中でも最大のオニヤンマから
今回の旅ではとても時間がないが、いちど個人的に訪問してみたい「ヤンマーミュージアム」もある。


(本番での)昼食をどうしようと相談していたら↑このお店も人気ありますよとのこと(^^)


雨森芳洲の出身集落

22歳の時に対馬藩に仕え、朝鮮通信使との実務を担当した。釜山に三年留学していた。
彼の遺した資料を集めており、今は「東アジア交流ハウス」となっている。
朝鮮半島からの観光客も多く訪れている。
ここもいつか時間をかけて見学してみたい。


**
鶏足寺エリアが近づいてくると…



「鶏足寺紅葉受け入れ中止」とはいったいどういうことだろう。
湖北の紅葉名所としていちばんにあげられるような場所なのに。
「実は…コロナ禍になる前にものすごい数の人がやってきて、村の人が家からさえ出られないほどだったんです」
Mさんがお話してくれた。

↑己高庵の方も、
「いつもなら二十分でお送りできる駅まで往復二時間もかかるほどで、ひどいことになっていました」とのこと。
紅葉のオーバーツーリズムが住んでいる人を辟易させてしまっていたのか。
そして、村の話し合いで
「こんなになるならいっそ閉めてしまおう」と、コロナ禍も手伝って
2022秋も「来ないでください」状態が続いている。
うーむ、せっかくの素晴らしい場所なのにもったいない。

己高庵はしかし、紅葉のメッカど真ん中にある宿なので、
「お泊りの方が周囲を歩かれるぐらいならかまいません」と半黙認。
今回、28日にはこの宿に泊まるので翌朝は散歩してみうよう。

周囲には石田三成が隠れていたと伝わる洞窟とか

↑日本最古の製鉄所跡とか、見所がいろいろある。

鶏足寺は長浜「観音の里」エリアの中でも屈指のお像がある。
それは見られないかもしれないが、
29日の朝、お天気になるように祈ります(^^)。


最後に高月駅の案内所へ寄った。
これまで何度もお世話になったNさんにご挨拶したかったのだが、あいにく不在。
本番でお会いできれば幸いです(^^)


午後四時少し前、伊吹山を照らす太陽が夕方の気配を映している。

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《手造の旅》奈良桜井エリア~橿原考古学博物館から益田岩船

2022-11-04 15:32:26 | 国内
作った人の指の跡までみえる↑「この馬は疫病を表していると思われます。
馬のように早くひろまる疫病を止めようと、馬のカタチにしてそれを壊して祈ったらしいのです」

Mさんにこう解説してもらうと、いっきに身近に思えていた。

木簡や墓誌や、こまこました発掘物たちは自分たちで見ていてもわからない。
適切な展示と分かりやすい解説が必要。
今回ご案内いただいたMさん、ありがとうございました。
人が違えば同じ場所でもちがった解説がきける※2022年春に訪れた時のブログをこちらからご覧ください
橿原考古学博物館展示品の中でも有名なひとつ↓

「太朝臣安萬呂…」と読める
古事記の編纂者「おおの(あそん)やすまろ」が火葬された墓から見つかった青銅の墓誌。

小さな真珠四粒も納められていた※墓誌の下に見えます

みつかったのは1979年1月。斜面の茶畑下から。
※こちらのページに発見された時の様子が詳しく書かれています


茶畑の下にあった火葬された炭の穴が再現展示されていてわかりやすい。

先月長野の茅野市縄文考古館を訪れたせいか、縄文時代のモノに目が留まる

↑人の誕生は宗教の原点↓

「縄文土偶は東高西低です」
長野や東北でみつかったような大きなオモシロイ土偶は西日本ではみつかっていないのだそうだ。


↑二メートルを超える日本最大の埴輪はメスリ山古墳から発見された↑
↓五世紀の宮山古墳から発見された埴輪↓

「矢を入れる筒を描いてある『靫(うつぼ、ゆぎ)型埴輪」↑


↑遺体をぐるりと鏡で囲った「天神山古墳」の様子↑

↑こちらは「黒塚古墳」、同じように銅鏡三十三面でぐるりと取り囲まれた埋葬場所がみつかった。水銀朱で真っ赤だった。
この二つ、遺体は消失していて被葬者は判別できていないが、武具や馬具でなく鏡でぐるりと囲うというのは女性的?


↑未盗掘で発見された藤ノ木古墳からのモノはすべて国宝にしていされている。

発見されたモノは右↑復元が左、

藤ノ木古墳の石棺からは↑男性二体が見つかった↑
これは誰?
説によると、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子とそのいとこの宅部皇子二人。
大化の改新の半世紀ほど前の話。蘇我馬子は聖徳太子と親戚で二十歳ほど年長と推定されている。

古墳時代から飛鳥時代へ。

この事件のあった後に蘇我馬子の発願で建てられた日本最古の仏教寺院・飛鳥寺の瓦六世紀末から七世紀はじめ↑
この時に鋳造された飛鳥大仏が(修復を繰り返しているとはいえ)、いまでも残っているのは奇跡的↓

※益田岩船へ行かなかったお二人だけが今回訪問

橿原考古学博物館は訪れる度に新しいものがみえてくる。
展示物が変わっていない場合でも、自分の目の方が変わっていくから。
**
今回の旅の最後に、天智天皇のお母さん・斉明天皇の墓⇒牽牛子塚古墳と、謎の巨石・益田岩船を訪れることにした。

※今年五月に訪れた時のブログをごらんください
この白いピラミッドにはびっくりする。
が、古代の記述の通り白い石を敷き詰めていくと、ほんとうに八角形のピラミッドのようなカタチだったようだ。
「牽牛子」とは朝顔のこと。

ここから竹藪の中をしばらく歩いて、謎の巨石・益田岩船へ向かう。ところどころ倒木をくぐったりまたいだり、地元のMさんが用意してくださった軍手が役に立つ(^^)

突然…

周囲を圧する巨石が見えた

あきらかに削った末に放置されている

先の、今年五月のリンクにもう少し詳しく書いたのでお読みください(^^)


《手造の旅》奈良桜井エリア、
皆さんにお渡しした日程表にはこの益田岩船は書かなかった。
幸いお天気に恵まれて最後にお見せすることができました(^^)




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《手造の旅》奈良桜井エリア~オーベルジュ桜井から長谷寺へ

2022-11-04 07:44:50 | 国内
オーベルジュ桜井の入口目の前に「実習農場」がある。

昨夜のダイニングで使われていた食材もあったにちがいない。
※昨夜のダイニングのメニューは写真と共にこちらに書きました
このダイニングと全九室のオーベルジュは「なら、食と農の魅力創造国際大学」の付属施設として、奈良県とヒラマツグループが共同で運営している。

目の前に、今年から動き出したもうすこし簡易な宿泊施設と手軽なレストラン

大和三山を見渡せるウッドデッキもある


散歩からもどるとちょうど朝食



※奈良五条市の山にある「ばあく」で手作りされたソーセージ
**
九時半に出発し長谷寺へ

地名は「初瀬」だが、寺の名前は「長谷」。

伝説によれば七世紀・天武天皇の頃に道明上人により創建。いわゆる「本長谷寺」。

道明上人の墓とされる小塔が回廊の横にある。※今年四月に訪れた時のブログに載せております
現在みられる回廊は1650年徳川家光の時代のもの。

回廊が寄進された経緯についても↑上のリンクからの4月のブログに書きました↑

道明上人の弟子・徳道上人が初代の巨大十一面観音を完成させたのが、長谷寺信仰の実質的なはじまりに思える。
徳道上人のお堂と像↓

徳道上人は「西国三十三カ所巡礼」の基礎を築いたとされる人
※こちらにその経緯が書かれています

↑傾斜地に建てられた本堂の前は清水と同じような広い舞台になっている↑

地の利を最大に生かした1650年江戸時代に落慶した建築。

↑上の写真左手奥に高さ十メートルを超えるご本尊が立っている。

↑今回も足元までお参りいただきました(^^)


訪れる度に新たな発見のある長谷寺

この大黒様もなにやらおもしろそうだったのだけれど、追いかけきれておりません。
また、次回以降にて(^^)


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《手造の旅》奈良桜井エリア~大宇陀街歩き

2022-11-03 13:56:07 | 国内
↑大願寺の門・秋↑


大和屋のヒット薬「天寿丸」「人参五臓圓」は天保六年(1835)に発売された。宣伝看板は何年後に製作されたのか定かではないが、日本最古の屋根付き看板とされている。

嫁入りで家の前に集まっている写真にも↑そのまま写っている


製薬業で財をなした大和屋は御用金600両(今の価値で3000万円ほどと解説された)を出したかわりに「細川」の姓を三代に限り使用することを認められた。ここが「旧細川家住宅」なのはそれ故。

細川[大和屋]の二代目治助は「山一」をシンボルとした↑
この看板にも「山一」の文字があるので、製作は二代目の時期だろう。

使われていた印鑑

↑「天寿丸」の扁額もそのころに書かれたもの。

当時の宇陀は薬問屋がなんと53軒もあった↑その筆頭でいちばん右に「治助」の名前が見える↑
↑左にもうひとつ黄色のメモが貼ってあるのが↓今も営業している「平五薬局」↓

53軒のうち、今も続いているのはここだけ?
↓当時の賑わいを写した珍しい写真が展示されている↓

↑右に「医療・工業用」の文字が見える↑

ここに藤澤製薬にゆかりの品がたくさんあるのはなぜなのだろう?と、ずっと思っていた。

左に見える巨大な鍾馗様はフジサワ製薬のシンボル↑
鍾馗様は樟脳をつくりはじめた創業者・藤澤友吉が明治30年に会社のシンボルマークに選んだ。

↑さらに巨大な鍾馗様は昭和五年(1930)東京日本橋に完成した東京支社の屋上看板だった↑
四回目の訪問で、細川家がフジサワ製薬創業者の母の実家なのだと知った。

母・細川まつは三重県名張の福守利兵衞に嫁いだが離縁されていた。
1866(慶応二年)に実家で友吉を出産。
満8歳で大阪道修町に丁稚奉公。
16歳の時に大阪の漢方医藤澤新平の養子となった。
27歳で独立、翌年薬問屋を開業。
33歳で樟脳事業をはじめている。
その時代に、実家の母と「大和屋」祖父の細川なにがしが友吉を支えていたのかもしれない。

***
宇陀が薬の里であることを理解させてくれるもうひとつの場所が「森野薬草園」
奈良時代からの葛をはじめとして今も薬草栽培がおこなわれている。

森野家は江戸時代よりずっと前から葛をつくり、薬草の研究をしてきたが、
第十代道貞が将軍吉宗から依頼をうけて、高価な輸入薬の国産化事業を成功させた。
隠居後に裏山にある「桃岳庵」に住み、絵入りの薬草図「松山本草」全十巻を遺した。

↑これが、それ↑

↑資料館で復元ページをめくって現代の名前と比較できる。
第十代道貞は初代森野藤助を名乗り、現在の当主は十一代藤助。


今日は後ろの山も色づいている。

春と秋の違い※今年2022年4月に訪れた時のブログをご覧ください



大願寺の薬草料理をいただきます(^^)

食事のあと、天女登場(^^)

大和ハープの演奏、ぐっと腕を上げられて、壬申の乱のときの行軍をイメージしてたという曲を聴かせてくださいました。

↑大願寺前庭
階段をおりたところにある「道の駅」から、川沿いに延びる細長い宇陀の街をあるくと、

十五分ほどで冒頭の「薬の館」と「森野薬草園」に至る。




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談山神社の蹴鞠2022秋

2022-11-03 11:29:58 | 国内
藤原鎌足を祀った十三重塔を背景に、春と秋に蹴鞠祭が行われている。

今年春は雨で屋内になったそうだが、今日は気持ち良い秋空がひろがった。


「鞠場」は四隅に竹が立てられているが、本来は「式木(四季木とも)」呼ばれる、松・桜・柳・楓を立てるならわしだった。
それぞれ二メートル半ほどの高さがあり、これ以上高く蹴り上げるのは「無作法」とされた。
この「無作法」こそが蹴鞠のなんたるかをあらわすキーワードだろう。

11時少し前、神職の方々がスタンバイ。

ショウなど和楽器の音と共に、まずは拝殿に行かれた。
神様にご挨拶の儀式をした後、三十分ほどしてやっと鞠場へもどってこられた。
※こちらにて行列の動画をUPしました

↑鞠は紅葉の枝に挟まれている↑

重さは120~150グラム。
鹿の皮二枚を貼り合わせてある。
縫い合わせるのには馬の背皮を使う。
もみ殻を詰めて丸く形成するが、最後には抜いて中空になっている。
実際にけったことのある方の話だと、「ぼそっとした感じ」。たしかに空気の抜けたバレーボールのように見える。

座って本堂内からも見られる。

「鞠足(まりあし)」と呼ばれる実際に蹴る八人が座について

まずはお祓い

神官から目代(もくだい)さんへ鞠が手渡され、

鞠場(鞠庭)の中央で袖に隠しながら鞠の紐を解く
※鞠目代(まりもくだい)とは蹴鞠の師範代のこと
蹴鞠にも流派があり師匠がいて、全国に「目代さん」と呼ばれる師範代職があったのだそうだ。
※余談:今回の旅メンバーに「目代」という姓の方があって、蹴鞠の解説アナウンスでいきなり自分の姓がでてきて驚かれた。「官職にまつわる姓だときいていましたが、こんなところで」。ご縁ですねぇ。

解かれた鞠は中央におかれる。

八人それぞれが鞠のコンディションをたしかめる「小鞠(こまり)」と呼ばれる試し蹴りをおこなってゆく。
鞠はひとつひとつ手作りなので重さも反応も違う。
全員が確認し終えて、プレー開始。
※動画をこちらからごらんください
「アリ~」「やー」「オウ」
動画の中できこえてくるように、三つの独特のかけ声が使われる。
現場解説によると「鞠の精を呼んでいる」のだとか。
また、自分が蹴るのをアピールするという話もあったが、その違いはよくわからい。

よく知られているように、鞠が地面に落ちないようにリフティングをつづける「競技」にみえるが、明確な勝敗はない。
ルールはいるいろある。
・右足をまっすぐ伸ばして蹴る
・頭や身体などをつかうことは不可
・鞠場に背を向けて蹴らない
・一人で三回以上連続で蹴らない
・無理な体制になって蹴らない
 ⇒「サッカーでファインプレーでも、蹴鞠では無作法とされます」と、現場で解説されていた。
これらを総合すると、蹴鞠のルールはいわば「優雅であること」。
地面に落ちないリフティングを目的としているわけではないようなのだ。

先が平たい専用の靴。使いこなすにはそれなりの練習が必要。
「蹴鞠保存会(しゅうきくほぞんかい)」の方々が京都から来てくださっている。
※こちらのページで活動の様子がわかります
蹴鞠の作法は「蹴道(しゅうどう)」と呼ばれ、茶道や華道のようにその作法を学んでゆく家元システムがある。作法を外れるのは「無作法」とされる。
そうか、蹴鞠はその外見からスポーツのように見えるが、茶道華道と同じ文化芸能の分野に属していたのか。そう考えれば、はっきりとした勝敗がないのも当然。
蹴鞠はスポーツではなく、「無作法にならぬよう優雅に鞠を蹴る」伝統芸能だと理解した。



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