「タイガーマスク」の主人公、伊達直人の名をかりて、全国の児童施設にランドセルなどの贈り物を届ける行為が全国に広がり、いまや一大ブームにまでなったことについてぼくなりに考えてみた。
贈られた児童施設からは感謝の声が、そしてそのニュースの影響で、さらにふえる贈り物。送り主も伊達直人だけでなく、様々なアニメやドラマのキャラクターにまで拡大し、「いい話題」として日本の経済状況とは逆のスパイラルをたどっている。
送る人の気持ちって、どんなだろうかね。純粋に人助けしたい、子供の役に立ちたい、と思う人もいれば、それとは違う動機を持つ人もおそらくいるだろう。中には、あきらかにブームに便乗したと思われる人もいるようで、横浜のある児童施設には、なぜかボクシンググローブが届けられたというのを、ラジオのニュースで聞いた。直接こども達の役にたちそうもないと、施設は結局、拾得物として交番に届け出たそうだ。
ぼくも一肌脱いでランドセルを・・・というつもりは残念ですがまったくありません。そこまでの経済的余裕はないし、そこまでの慈善活動をしようというつもりもない。
ぼくはこう思う。
TVのニュースやドキュメント番組をみると、景気悪化や格差社会、超高齢社会に児童虐待、といった、暗く重たいテーマばかり。最近はミドルクライシスという、30代(ぼくらの世代ですね)が生きていくための苦悩を描いたドキュメントまである。そんな話題に取り上げられる人達を連日TVで目の当たりにしていて、彼らと自分をついつい比べてしまう。
同じ人間なのにどこが違うの、とか、自分は今でこそ普通に仕事して稼げて、それなりに生活も充実しているけれど、それだけでいいのか?もしかどこかで想像しがたい悲劇が繰り広げられているのかも・・・?そんな境遇の人達に思いを巡らすうち、何不自由なく普通に生きていることが恥ずかしいとか、後ろめたいと感じるようになる。
彼らを助けてあげたい。だけど、方法も分からないし、ひとりでは何もできないし、そもそもきっかけが掴めない・・・おそらく普段からこう思っていたのだろうと思う。
そんなモヤモヤした気持ちに突如登場した「タイガーマスク=伊達直人」は、それを一気に解決できる最適なテーマだったのかもしれない。ある評論家が今回の現象を、「日本人の「照れ」文化の象徴」などと評していたが、ぼくは「照れ」よりは「恥じらい」の文化だと思っている。普通に生きていることに、余計な後ろめたさを感じるから、何かしてあげたいという思いが芽生えてくるのかもしれない。
その手段として、伊達直人の行動にあやかって、ランドセルや文房具などを児童施設などに届けるのだが、もちろん自分の功績とはならない。誰にも言えないし、言えるわけがない。届けた先でどう使われているのかを想像するだけで満足なのだ。
これを上手く簡潔な言葉に表現することはぼくのボキャブラリーでは非常に難しいので結構長文になってしまった。
ただこのコラムによって、せっかく広がった「善意の輪」なるものに水を差すつもりは毛頭ない。でも普通に生きていることを、ムリして恥ずかしいなどと思わなくていいんだ。「人のために」とは、何も、高価なランドセルをいくつも買って贈ることではなく、いつでもどこでも、だれにでもできることだと思うから。
ということで、相変わらず中途半端な「KouChanの主張」はひとまずこれにて。
参考にしたニュース記事
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20110112dde041040056000c.html
ところで、今回のタイトルは、「着信御礼!ケータイ大喜利」にて紹介された、「巨人の星」星飛雄馬のセリフ回答から。コーナーが終わった後で、実際に回答を読み上げた声優・古谷徹さんが「飛雄馬って世間知らずなんですね」と評していたのがなかなか面白かったので。
※ブログ内容を一部修正しました。
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