なぜ、ひとは人と同じことをしたがるのだろう?
なぜ、ひとは同じ間違いを繰り返すのだろう?
なぜ、ひとは反省しないのだろう?
なぜ「わたしは私なんだ」と言えないのだろう?
そしてなぜ、自ら命を絶とうとするのだろう?
・・・「二度とおきてほしくないこと」が、皮肉にも続けて起きてしまった。いまや流行現象になりつつあるいじめられっ子による「最後の抵抗」。いや、本当にこれで「最後」になるのだろうか?そんな疑念さえ感じてしまう。
ぼくは学校の先生でも教育委員会の者でも、むろん文部科学大臣なんかでもなく、ただの「中途半端な趣味人」で、平凡なサラリーマンである。将来子供がなりたくない職業に就いている者だ。ひょっとしたら大人の悪い見本かもしれない。これを読んでくれているあなたが、もしもこれから命を絶とうなどと考えていたら、そのまえにちょっとだけ、面倒でも付き合ってもらいたい。
おそらく、君は非常にまじめに、それこそ、くそ真面目に生きてきたかもしれないでしょう。他人の不正、ズルを許さず、そして自分にも厳しく・・・たぶん、両親がそのように教育されたのだろう。だから、人がどんな悪いこと(イタズラ・ズルのたぐい)をしても、自分は絶対にそれはやらなかったに違いない、と思う。それは立派なことだから、何も恥じることはない。
君がいじめられているのは、君が悪いんじゃない、とはあえて言わない。「いじめられている=被害者」という考えをもっているのなら、その考えは捨てるべきだ。若いときの肉体的、精神的苦痛は、自分の受ける「試練」だと思ってひたすら耐え抜くことだ。時がたてば、何かのきっかけで解決するかもしれないし、また、解決せず時が流れたとしても、後に同じような境遇の人を見かけたとき、即座にその人の気持ちを汲み取ることができる、心優しい人間になっているにちがいないから。
学校で、クラスで、もし君ひとりだけが排除されたとしても、何年か先、いや、何ヶ月か先に、君を本当に必要としている人が、この世界のどこかに必ずいる。その人とめぐり合うまでは、決してそれを忘れるな。
しかしどうしても、「いじめられている=被害者」という考えが捨てられず、そのために自分が追い詰められたと感じたら、意を決してとにかく逃げろ。目の前の苦痛から遠ざかるように、とにかく逃げて逃げて逃げ切ってしまえ。しかし悪魔の誘いに乗り、安易に生まれ変わろうなどと思うな。そんな「最後の抵抗」は、かっこいいものでも何でもなく、それこそが悪魔の思う壺なのだ。世の中は、君が思っているほど広く、また思っている以上に希薄なものだ。事を起こしても無駄に周囲が騒いだり悲しんだりするだけで、何も変わりやしない。
それより、何か好きなことを見つけて、何も考えずにひたすら打ち込め。音楽やマンガといった趣味でも、勉強でもスポーツでもなんだっていい。わからないうちは手当たり次第多くのジャンルに手を出せ。途中で笑われたっていい、呆れられたっていい。他人が到底足元に及ばないようなレベルまで、そのジャンルを極めるところまで打ち込め。そのうち、賞賛される日はかならず来る。他人と同じレベルでいいと思っているうちは、いつまでも成長しないし、それどころか、ますますいじめられるだけだ。「いじめ」は、社会が平等、平等といわれているからこそ起きるものと思っている。だから、自分のなかで「不平等」な関係(大人は、これを「差別化」と呼ぶことがある)を作り出せばいい。そして、その中で同好の士が得られれば、その人こそが、「君がめぐり合うべき人物」になるわけだ。
そして、時が経ったら、最初の文章をもう一度読み返せ。そして、愚かなことを考えていたかつての自分を笑うのだ。
・・・かくいうぼくも、今も戦っている。誰だって先行き見えない今を生きるのは辛いことだし、時には「死にたい」と思うことさえある。このぶんじゃ、まだまだぼくも、修行が足りないようだな。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます