熊本熊的日常

日常生活についての雑記

言葉の力

2008年06月08日 | Weblog
かなり以前からこうしてブログを書いているが、4月14日以降は毎日書いている。ずるをして、何日か分を一度にアップすることもあるが、とにかく毎日書いている。書くのが好きだから書いているということもあるし、自分が想定している読者に伝えたいことがあるから書いていることもある。

残念ながら言葉は万能ではない。言わなければわからないこともあるが、言ってしまったために余計にわからなくなることもある。言っても通じないことも少なくない。ただ、どのような言葉にも必ず意味がある。言葉自体に意味があることもあれば、言葉を発する行為に意味があることもある。言葉を発すべきときの沈黙にも意味がある。しかし、そうしたことの意味がきちんと相手に伝わることは殆どない。そう思っている。だから、伝わったと感じたときの喜びが大きい。そんなことは滅多にないので、なおさら嬉しい。

通じるか通じないかというのは、結局は話し手と聞き手双方の努力と確率の問題だと思う。確率の問題でもある以上、通じないかもしれないと承知の上で、言葉を発し続けなければ、永久に何も通じない。宝くじは、買わなければ永久に当たらない。尤も、宝くじを当てたいと思うか否かは別の問題だ。人はそもそも孤独なのだと達観してしまうことだってできるだろうが、それでは生きている意味がないだろう。生きることに意味があるのかという話はさておき、人生は楽しむためにあるものだと信じたい。それなら、生きている限り言葉を紡いでいこうと思う。誰かとキャッチボールをするのは楽しいけれど、一人で壁にボールを投げて、跳ね返ってきたボールを取るという遊びだってある。どちらがより楽しいということではなく、どちらもそれぞれに楽しい。

ところで、昨日、フィリップ・クローデルの「灰色の魂」を読み終えた。読み終えて、これほど気持ちの高ぶりを覚えたことは、記憶にある限り、同じ作者の「リンさんの小さな子」以来かもしれない。彼の作品はこの2冊しか読んだことがないが、どちらも自分の中では永久保存版である。人間の心を腑分けするように、一見ばらばらの個別具体的細部から人生や人間を語ってみせる作品だ。私は、一度で良いから印税というものを頂いてみたいと思っている。しかし、彼の作品を読むと、そのような自分の身の程知らずの願望が、木っ端微塵に打ち砕かれる。価値のある文章というのは、こんなブログにあるようなものではない。こんなものはしょせんゴミだ。そんな気分になる。しかし、徹底的に打ちのめされる感覚というのは不思議と心地良い。中途半端に殴られるのは痛いだけだが、完璧なまでに打ちのめされると夢見心地になるということだろう。昨夜、「灰色の魂」を読み終えた時、思わず「すっごいなぁ」とつぶやいてしまった。小説が人生を語るべきものだとするなら、この作品は小説のなかの小説だ。生きることの喜びも哀しみも全て語り尽くしている。世の中に完璧ということは無いと信じているが、完璧な小説というものがあるとすれば、この作品ではないかとすら思う。

いつも本を読む時は、付箋を貼ったり、線を引いたりしながら読む。尤も、その数はあまり多くはない、と思う。「灰色の魂」の付箋箇所のなかからいくつか拾うと以下のようになる。

突然の死は美しいものを奪い去るが、同時にそのままの状態で保つ。それこそ、真の偉大というものだ。(36頁)

人間を理解しようと思うなら、根っこまで掘り返さなければならない。そして、時間に肩入れするだけでは、時間はいい顔をしてくれない。その裂け目をほじくり、膿を吐き出させてやらなければならない。手を汚すことだ。(93頁)

ろくでなしだろうが、聖人だろうが、そんなのは見たことがないよ。真っ黒だとか、真っ白なものなんてありゃしない、この世にはびこるのは灰色さ。(118頁)

互いにあまりにかけ離れているときは、話すことなど何の役にも立たない。私は口をつぐんだ。(147頁)

ときに人は、教わったわけでもないことを不意に知ることがある。(186頁)

答えなど信用してはいかん、そうありたいと願った言葉などけっして出ては来ない、そう思わんかね?(202頁)

われわれは、他人が自分にとってどういう存在であるかはつねに承知しているが、他人にとって自分がどういう存在であるかはついにわからないものだ。(231頁)

死がこのように訪れるとは妙なものだ。短剣や銃弾、あるいは砲弾だけではないのだ。短い手紙の一通が、善意と同情にあふれる素朴な手紙が、武器と同じくらい確実に人を殺すことがあるのだ。(241頁)

以上、フィリップ・クローデル著、高橋啓訳「灰色の魂」みすず書房(2004年10月12日印刷 2004年10月22日発行)より。