晴れている。午前6時少し前に住処を出て、最寄の駅から6時2分発の列車に乗る。終点London Charing Cross駅にはほぼ定刻の6時29分に到着。ここで地下鉄Northern Lineに乗り換え、6時36分発の列車に乗る。London Euston駅には6時43分頃に到着。ここでManchester Piccadilly駅行きの列車に乗るのだが、まだ時間に余裕があるので、駅構内のCostaというカフェでカプチーノを飲みながらBLTサンドをいただく。
British Railの時代もマンチェスターへの列車はEustonを発着していた。今、ロンドン・マンチェスター間はVirgin Trainsという会社が運営している。7時26分発の列車に乗り、Manchester Piccadilly駅には定刻よりやや早く10時15分に到着した。昔と違うのは、乗客が多いことと、その乗客に日本人が目立つこと。Eustonからの乗客も多かったが、最初の停車駅であるMilton Keynesでほぼ満席になり、Stockportでかなりの客が降りた。それにしても、昔もこんなに混んでいただろうか? 2人掛けの座席で、隣に誰かが座っていたということは一度も無かったと記憶している。余談になるが、先日の新聞に、マンチェスター発ロンドン行きの飛行機の乗客の95%が乗り継ぎ客だと書いてあった。おそらく、ビジネスセンターとしての機能が強化され、英国の一地方都市という位置付けから、直接海外とつながる中核都市に成長したということなのだろう。
マンチェスターに降り立った瞬間、駅がきれいになったことに気付いた。ホームの屋根はそのままに駅舎を建て替えたのである。昔は、ロンドンからの列車が発着する駅だというのに、バスターミナルまでは少し歩かなければならないし、駅前の客待ちのタクシーも少なく、使い勝手が悪そうな印象があった。今もバスターミナルの位置は昔のままだが、そこまで路面電車が結んでいる。タクシー乗り場も整備され、常にかなりの台数のタクシーが停まっている。その変貌ぶりに、何故か心が躍った。
まず大学へ行くことにした。駅から大学へ向かう道の風景は昔と殆ど変わらない。空き地であったところに建物ができたくらいである。自分が通っていた校舎も、住んでいた寮も、少なくとも外観は昔と同じ姿である。懐かしいというより、まるで昨日もここにいたかのような感覚がする。わずかに2年間ではあったが、慣れ親しんだ曇天の下にいる所為かもしれない。寮は大学の寮の中では唯一の高層建築で、確か15階まであっただろうか。私の部屋は何度か移動したが一番長く暮らしたのは8-1という8階の角部屋だ。晴れた日には遠くにピーク・ディストリクトの山並みが見える快適な部屋だった。
今日の昼は、Abdulsのケバブを食べると最初から決めていた。問題はその店がいまでもあるかどうかということだった。寮を後にして学生会館の前を過ぎると、見覚えのある看板が見えた。まだ昼前だったので、その場はそのまま店の前を通り過ぎ、Whitworth Art Galleryへ行く。この美術館は大学の施設で、昔から入場無料だった。ターナーのコレクションでは世界でも有数の規模と言われていたが、何年か前に、そのターナーが盗難に遭ったことが発覚した。発覚、というのは、いつ盗まれたかわからないというのである。確かに、昔はやる気の無い美術館だった。それが、建物の外観はそのままに、内部は見違えるようになっていた。展示の主体はコンテンポラリーに変わっているが、展示に主体性とテーマ性があり、見ていて楽しい。都市の風景というようなテーマの部屋には、古今東西の都市をテーマにした絵画、版画、写真が展示されている。ちょうど今、大英博物館でアメリカの風景というテーマの銅版画展を開催しているが、規模こそ違うが企画の面白さでは互角ともいえる。その都市の風景に東京も登場する。歌川広重の「両国花火」と「猿わか町」であるが、そうした浮世絵がニューヨークやロンドンの風景とか都市生活者をモチーフにした絵画と並べられると、自分が日本人である所為か、強力な存在感を放っているように見えた。
再び大学本部へ向かう道すがら、Abdulsでドナ・ケバブを買い、自分が住んでいた寮の足元にある広場のベンチでそれにかぶりつく。店の人は見覚えの無い人だったが、店の構えもカウンターの設えも昔と同じだ。ケバブがどのようなものか改めて説明の必要はないだろうが、この店はパキスタン人の経営なので、パンにナンを使う。それも普通サイズのナンなので肉厚で大きい。その大きなナンに収まりきれないほど肉や野菜を載せ、ヨーグルトソース、チリソース、マンゴーソースをかけてもらい、無理やり包むのである。私がここの学生寮で暮らしていた頃、平日の朝食と夕食は寮費に含まれており、寮の地上階にある学生食堂で食べることができた。週末は食堂が休業なので外食になるのだが、たいがい勉強が追いつかなくて、ゆっくり食事をしている余裕などなかったので、寮から至近距離にあるAbdulsのケバブの世話になっていた。とにかく量が多く、自分の部屋に持って帰って手をべとべとにしながら食べたものだが、それでも食べきるのに難儀はしなかった。今日はやっとの思いで平らげた。20年の歳月を自分の食欲の衰えで実感した。ドナ・ケバブは3ポンドだった。昔は2ポンドくらいだったと思う。
満腹になったところで、Oxford Roadを北へ歩く。BBCのあたりまでは、多少、商店が入れ替わってはいるものの昔とそれほど変わらない。週末の食事でAbduls以外の選択肢のひとつは、持ち帰りピザのBabylonであった。これは昔よりもきれいな建物に移ってピザレストランになっており、その隣にはAbdulsの支店がある。Abdulsに支店ができるとは驚きだ。自分に馴染みのある店が発展するのを見るのは自分のことのように気分がよい。
鉄道のガードをくぐったところにあった、保険会社の名前が付いた巨大な廃墟ビルがホテルになっていた。大きな建物の半分は既に営業中で残りの半分も足場が組まれ、外壁を工事しているようだった。このビルに限らず、昔のマンチェスターには廃墟になった大きな建築物が数多くあった。かつて産業革命発祥の地として栄え、1950年代まではロンドンに次ぐ英国の中核都市であったが、英国全体の国力低下とともに荒廃が進み、私が暮らした頃はその陰の極か、あるいは再生が始まった頃だったのではないだろうか。英国がサッチャー政権の下で外資の導入を梃子に経済力の再生を目指したとき、その誘致政策に乗って、このあたりには日本の電機メーカーが進出した。当時のマンチェスター・ユナイテッドのスポンサーがシャープで、マンチェスター・シティがブラザー工業だったのは、そうした動きを象徴していた。
その元廃墟ビルのホテルとパレス・シアターという劇場がある交差点を越えるとOxford RoadはOxford Streetという名前に変わる。この劇場の並びに何軒か間を置いて映画館があり、その裏に日本料理屋があったはずだ。映画館は閉鎖されており、日本料理屋のあった場所もシャッターが固く閉ざされている。この日本料理屋は値段が少し高めであったのと、その値段に見合った満足度を得たことがなかったので、人に誘われればついてきたが自分から行くことは一度もなかった。何年も前にここの経営者一家は日本に帰国しており、東京で一度お会いしたので、この店がもうなくなっていることはここに来る前から知っていた。
この映画館の前を過ぎるとすぐに市立図書館の円筒形の近代風建築とゴシック様式の市庁舎が並ぶ。その前にSt Peter's Squareという広場があったが、その広場に今は路面電車の駅がある。この路面電車の線路は、その昔、マンチェスターが繁栄していた頃に走っていて、その後廃線になった路面電車の軌道を掘り返して建設したのだそうだ。勿論、全線が廃線再生ではないだろうが、都市再生の方法としては興味深い事例ではないだろうか。東京の幹線道路を掘り返したら、やはり都電の軌道が現れるのだろうか?
この市庁舎のすぐ近くに、大昔、鉄道の中央駅があった。そして、その中央駅と市庁舎の間に、Midland Hotelがある。20年前も今もホリデー・インの傘下にあるが、その割に敷居が高い。今日も中には入らなかった。中央駅は既に私が留学していた頃から見本市会場となっていた。今もそれは変わらない。が、この駅の隣に、壁に「GREATE NORTHERN RAILWAY COMPANY’S GOODS WAREHOUSE」と大きく書かれた廃墟ビルがあった。それがその文字も含めて外見を残したまま、シネコンとショッピングセンターと駐車場のビルに再生されていた。留学時代もひょっとしたら駐車場として使われていたかもしれない。そのあたりは記憶が定かでない。そして、この旧廃墟に隣接して広がる荒地だった場所にホテルの高層ビルが立っている。ただ、そのように再生された現在でも、この一帯がそれほど賑わっているようには見えなかった。
このあたりはDeansgateという地域である。その名の由来はローマ時代の城門にあるそうだ。実際に、城門跡とされる土台部分の石組みが今でもあり、その遺跡を囲むように小さな公園になっている。ここにある重要な遺跡は城門跡だけではない。世界初の商用旅客鉄道であるリバプール・マンチェスター鉄道のマンチェスター駅の跡もこの近くである。世界初の商用鉄道はダーリントン鉄道だが、これは石炭輸送のための鉄道で1825年に開業している。世界初の旅客鉄道はこのリバプール・マンチェスター線なのである。この旧マンチェスター駅を含むその周辺は、現在Museum of Science and Industryとなっているが、駅舎であった建物の壁には銘板が取り付けられおり、そこにはこのように記載されている。
LIVERPOOL ROAD STATION
THE WORLD'S FIRST PASSENGER
RAILWAY STATION. TERMINUS OF THE
LIVERPOOL AND MANCHESTER
RAILWAY WHICH WAS OPENED BY
THE DUKE OF WELLINGTON
ON 15TH SEPTEMBER 1830.
鉄道関連施設としてはこの駅舎以外には見るべきものはない。しかし、日本人としては見逃せない展示物がある。「桜花」である。太平洋戦争末期に製造された特攻機だ。戦後、日本に進駐した連合軍によって捕獲された機体がここで展示されている。桜花は1944年に開発され、1945年3月21日に初出撃。終戦までに10回にわたる出撃が敢行され、結果として桜花搭乗員55名、その母機である一式陸攻の搭乗員368名の戦死者に対し、桜花による確実な戦果は米駆逐艦撃沈1隻、その他数隻の米駆逐艦が損傷。このようなものは武器とは呼べないであろうし、このような作戦は作戦とは呼ばないであろう。そもそも特攻という発想は何だったのであろうか。桜花の実機を見ることができるのは、ここ以外ではワシントンDCにある海軍博物館とスミソニアン博物館だけだそうだ。あの戦争に関しては個人的に極めて強い感情をもってある考えを持っている。しかし、それはおそらく誰にも話さないと思う。
繁華街の人出はかつてとは比べ物にならない。以前から便の良かったバス路線に加えて路面電車が運行されるようになったほか、市内を循環する無料バス路線が3系統もあるというような足の便の改善による効果もあるのだろう。さらに、おそらく、ロンドンの地価高騰で、ビジネスセンターとしてのこの都市の相対的な位置付けが上昇し、雇用と人口が増加しているのではないだろうか。しかし、一方でチャイナタウンは少し寂しくなったような気がする。やはり週末の食事の場として同じ寮にいた日本人研究者の人々とでかけたクァン・デ・ジュという鴨料理専門店とか1人でふらりと出かけるのにちょうどよかった栄華飯店という中華料理屋、韓国人のご夫婦がひっそりと経営していたコリアナという韓国料理屋などはもうなかった。
市街の中心にAndaleというショッピングアーケードがあるが、これが20年前に比べてかなり拡張されていた。かつてはなかったSelfridgesがAndaleに隣接していたMarks and Spencerとツインビルであるかのような作りで建っていた。そして、唐突に大観覧車。London Eyeがよほど成功しているのか、それに比べればはるかに規模は小さなものだが、ここにもある。高級ブティックが並ぶKing Streetは、多少店舗が入れ替わっているものの、相変わらず高級店が軒を並べている。市街地の裏通りにある古いビルが新しいビルに置き換わっているし、その置き換えは現在も進行中である。
この街はロンドンとは全然違う。それは以前もそうだったのだが、ロンドンは英国の都市というよりも無国籍なのである。マンチェスターはやはり英国の都市である。歩いている人たちの肌の色がロンドンとは違う。例えば、ロンドンの街角とかバスや電車の車内の風景を切り取って「ここはヨハネスブルクです」とか「今、カラチにいます」と言っても通用する雰囲気があるが、マンチェスターにはそうした風景はない。
宿泊先に選んだホテルはManchester Conference Centreという一角にある。昔、ここがどのような場所であったのか記憶がないのだが、ホテルのすぐ近くにあるパブには見覚えがある。典型的なビジネスホテルで一泊くらいならよいが、長居はしたくないような場所である。何かが不快ということではなく、単に落ち着かないというだけのことだ。