熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「生きがいについて」

2008年06月15日 | Weblog
神谷美恵子の「生きがいについて」を読了した。「生きがい」ということばが、これほど重いとは思いもよらなかった。ハンセン病治療施設での経験を基に書かれているので、その一字一句の重みに圧倒された。「生きがい」もさることながら、宗教というものに対する見方も少し変わった。

外国で生活していると、言葉とか宗教について考えさせられることが多い。特に宗教については、なぜあのようなものを信仰する人がこれほど多いのか素朴に疑問に感じていた。しかし、血で血を洗うような歴史を重ねてきた民族にとっては、そうした極限状態のなかで精神の安定を守るには、現実世界とは異次元の精神世界を創造する必然性があったということなのだろう。

日本は、歴史をどこまで遡っても日本人の国でしかないのだが、欧州では単一民族の国家というのは、たぶん無いのではなかろうか。例えば、イギリスの正式名称はThe United Kingdom of Great Britan and Northern Ireland(グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国)であり、その名からして複数の国家の連合体であることがわかる。言語にしてもスコットランド、ウエールズ、アイルランドには独自の言語があり、つまりイギリスは多民族国家ということなのである。最近は落ちついているが、ベルギーではワロン語系住民とフラマン語系住民の対立というものがあるし、ドイツやイタリアがほぼ現在のような姿に統一されたのは19世紀のことにすぎない。バルカン半島で旧ユーゴスラビアの内戦があったのは1990年代のことである。

表向きは平和に見えても、欧州はいまだに潜在的な民族間の緊張状態を抱えているのである。しかも、そこへ非欧州地域からの人口流入が続いている上に、昨今はテロの脅威も増している。平和を維持するというのは至難のことなのだ。現在ですら微妙なバランスの上に日々の生活が成り立っているのである。歴史の大部分が闘争で占められているというなかでは、やはり絶対唯一の存在という精神の拠り所がないと、生きて行くことが困難なのではないだろうか。

ひとりひとりがそれぞれの精神世界を構築し、それぞれの絶対者を信仰するというのでは精神の安定は得られないだろう。自分だけの絶対者、というのでは存立基盤が脆弱に過ぎる。自分の置かれた状況が変われば、絶対者の位置づけも変わってしまうだろう。それでは「絶対」にはならない。そこには権威が必要なのである。ところが、権威というのは、その裏付けが無ければ権威として存在できない。そこに権威の存亡をかけた新たな闘争が生まれるのである。強力な権威というのは、わかりやすくなければならない。教義が明快で、強力な武力を持ち、権威という権力を支える経済力に恵まれている、というのがさしあたり必要なことではないだろうか。

現実世界に対する不安から精神世界の体系を作り上げたのに、その権威付けのために新たな闘争が展開される。結局、人間の存在は矛盾から抜けられないということなのだろう。

ところで「生きがいについて」であるが、自分にとっては内容が重く、衝撃が強かったので、すこし読後感の咀嚼が進んでから改めて何事かを語りたいと思う。