芸術家というのは大変である。常に過去にはない新しい表現を創造しなければならない。それにしても、こういうのはありなのか、と思うものも少なくない。TATE Modernで明日から開催されるCy Twombly展の内覧会を覗いてきたのだが、この作家を知らなければ、子供の落書きと思うかもしれない。大型の作品が多いので、できれば実物を鑑賞することを勧めるが、Googleのイメージ検索でも相当な件数をヒットするので、取り敢えずそれで、なるべく大画面で観ると雰囲気が掴めるかもしれない。
絵画というのは同じモチーフであっても描かれた時代によって意味が全く異なることもある。どのように楽しむかは、勿論、観る人の自由なのだが、背景知識があるのと無いのとでは見えて来るものが全く違ってしまう。その点、現代美術は描き手と鑑賞者が同じ時代の空気を呼吸しているので、そうしたリテラシーのハードルが低い。素直に感性で鑑賞できる。尤も、感性だけが頼り、という側面がないわけでもない。
私の同業者の一部の間で、コンテンポラリーアートの収集が流行っている。なかには本当に美術品とか絵画が好きで集めている人もいるのだろうが、大部分は投資目的である。第二第三の村上隆を当てようというのである。ブレイク前の画家の絵といっても、決して安いものではない。10枚購入して1枚当たればボロ儲けという世界ではあるのだが。
絵画を眺める楽しさというのは、純粋に自分の感性に訴えるものを感じ取るということもあるだろうし、そこに秘められた謎解きを楽しむというのもあるだろう。値踏みをして、実際の評価額と比較してみる、なんていう楽しみ方だってあるだろうし、それを描いた人の心境を想像するというのも覗き見のような興奮を感じて良いかもしれない。
ただ、抽象画となると、想像の枠が外れてしまって途方に暮れてしまうことも少なくないだろう。日本画でも禅画は抽象画のようだし、晩年に抽象画のような作品に行き着く作家も少なくない。それはそれとして、心安らぐものを感じたりもする。それにしても、Cy Twomblyにはついていけない。観ていて楽しい気分になるのだが、それは作家との距離が遠すぎて、果てしなく広がる花畑を前にしたような楽しさなのである。
絵画というのは同じモチーフであっても描かれた時代によって意味が全く異なることもある。どのように楽しむかは、勿論、観る人の自由なのだが、背景知識があるのと無いのとでは見えて来るものが全く違ってしまう。その点、現代美術は描き手と鑑賞者が同じ時代の空気を呼吸しているので、そうしたリテラシーのハードルが低い。素直に感性で鑑賞できる。尤も、感性だけが頼り、という側面がないわけでもない。
私の同業者の一部の間で、コンテンポラリーアートの収集が流行っている。なかには本当に美術品とか絵画が好きで集めている人もいるのだろうが、大部分は投資目的である。第二第三の村上隆を当てようというのである。ブレイク前の画家の絵といっても、決して安いものではない。10枚購入して1枚当たればボロ儲けという世界ではあるのだが。
絵画を眺める楽しさというのは、純粋に自分の感性に訴えるものを感じ取るということもあるだろうし、そこに秘められた謎解きを楽しむというのもあるだろう。値踏みをして、実際の評価額と比較してみる、なんていう楽しみ方だってあるだろうし、それを描いた人の心境を想像するというのも覗き見のような興奮を感じて良いかもしれない。
ただ、抽象画となると、想像の枠が外れてしまって途方に暮れてしまうことも少なくないだろう。日本画でも禅画は抽象画のようだし、晩年に抽象画のような作品に行き着く作家も少なくない。それはそれとして、心安らぐものを感じたりもする。それにしても、Cy Twomblyにはついていけない。観ていて楽しい気分になるのだが、それは作家との距離が遠すぎて、果てしなく広がる花畑を前にしたような楽しさなのである。