熊本熊的日常

日常生活についての雑記

あの世はどこに

2008年06月10日 | Weblog
「三途の川」という言葉がある。実際に「三途川」という名前の川もいくつかあるらしい。「三途の川」のほうは、この世とあの世を分ける川としてしばしば人の口にのぼる。一般論として日本人はこの世とあの世を水平軸で認識しているのではないかと思う。「暑さ寒さも彼岸まで」という時の「彼岸」は「彼岸会」のことで、春分・秋分を中日とする雑節、あるいはこの期間に行われる仏事のことを指す。仏事とは、要するに川の此岸の人々と彼岸の人々との交流行事と言えよう。日本人にとって、この世とあの世は、川で隔てられいるとはいえ、連続したものとして認識されているのではないかと思うのである。

「天国」という言葉がある。これはギリシャ神話のオリンポス、北欧神話のアースガルズ、ユダヤ・キリスト教の天などが混合した概念だそうだ。いずれにしても西洋の世界観である。西洋では、この世とあの世との位置関係が垂直軸で認識されている。つまり、この世とあの世は連続していないのである。

以前から事あるごとにこのブログに書いているが、私の基本認識は全ての物事は連続している、というものだ。別の言葉で表現すれば、世の中は容易に白黒つけることができるものではない、ということでもある。白黒は無理につけるものであって、最初から白かったり黒かったりするものは無い。見る側の価値観の問題と言ってもいいだろう。

しかし、人は白黒はっきりさせたがるものである。そうしないと不安なのだろう。特に、英語、たぶん他の欧州の言語も、物事を明確に区分するようにできている、ような気がするのである。物事をカテゴリーに分類し、それらを比較対照することによって理解をしようというのが、こちらの人々の基本的な姿勢であるように感じる。「比較対照」というと穏やかだか、「対立」と表現したほうが実感に近いかもしれない。自分と他人、同盟者と敵対者、聖と俗、現在と過去、白と黒。あらゆるものを、とりあえず二元論的に分類するのである。そこには自ずと緊張が生じる。そこで、社会のなかにその緊張を緩和させる装置が必要になる。

個人の生活のレベルでは、それがユーモアだと思う。日本の笑いとは明らかに笑いの中身が違う。私の語学力の貧困という事情を考慮しても、こちらの笑いはつまらない。他人の弱さや欠点を平気で笑いの種にする。自分がどこか高いところに立って、他人を見下ろす視点の笑いが多いように感じるのである。そうして自分以外のものを笑い飛ばすことで緊張が緩和されて安心する。そういう精神を感じるのである。実は笑いの正体というのはよくわからないものだ。笑いを極めようとして、鬱病になり、自殺してしまった落語家すらいる。

その二元論的対立を止揚し、緊張関係を超越するという発想もあるように思う。所謂、発明とか発見も、止揚の一形態と見ることができるのではないだろうか。未知の世界へ航海に出る、空を飛ぶ、新たなものを作り出す。そうした発想は、今、ここにある世界、緊張関係で硬直した世界から、未だ見ぬ世界へ跳躍する試みだと思うのである。

私のように、物事を一連の流れとして捉える考え方では、独創とか創造というものは生まれない。創造というのは、二元論的対立の緊張から生まれるものなのだと思う。よく、日本人は創造は苦手だが、改良は得意だ、などと評されたりする。その背景には、こうした思考の構造が関係しているのではないだろうか。

あの世がどこにあるのか。その答えに思考の構造、その人が属する文化や文明の構造の一端が示されているように思う。