幸田文「崩れ」を読了した。たぶん読む人によって評価が真っ二つに別れるのではないだろうか。私には面白くて、途中、何度も笑みがこぼれてしまった。圧倒的大多数の人にとっては笑えるところなどどこにもなさそうな本なのに。
72歳の筆者が日本のあちらこちらにある地面の崩壊現場を見て歩いた見聞記である。いったい噴火の跡や地すべりの跡を見て何がそんなに面白いのだろうと思うかもしれない。私も読み始めた時には、なぜこのような話が本にまとめられたのだろうと訝った。ところが、読み出したら愉快でたまらない。おそらく、自分が著者の目に近いところにいると感じられるからだろう。
著者の目に近いというのは、例えば、本書執筆時の著者の年齢が現在の私の親とほぼ同じであり、その年代の人々の感覚というものに私が興味を感じているということがある。また、最近は機会に恵まれないのだが、自分も山歩きが好きであることとか、地理に関心があること、本書に登場する場所のいくつかに実際に足を運んだことがあるといったことも関係しているだろう。土地の崩壊という現象に素朴に驚き、その心の動きが的確に文章に表現されて、その作者の驚きが自分の驚きのように感じられているということも、勿論あるだろう。
しかし結局のところ、本を読んで面白いと感じるのは、表現とか構成とか、自分の経験との重ね合わせというものもあるだろうが、そうした個々の要素を包括した総体としての印象によるところが大きいのだろう。それを感性と呼ぶのかもしれないが、読書は食事にも似ている。食事も、個々の食材の味とか、それを包括した料理としての味、さらに料理の組み合わせによる味、もっと言うなら、食事を共にする相手の印象、器やその場の雰囲気の影響もあるだろう。どちらも、人が自覚している以上に多くの感覚を刺激しているのだと思う。
以前、このブログに、自分の書いたものを読み返すと面白いと書いた。それは当然のことなのである。まず第一に自分が面白いと思ったことを書いているからであり、第二に自分の体験や思考を追体験できるからであり、第三に自分のツボに触れるからである。自分の書いたものが他人に面白いと思われるためには、リテラシーをある程度共有できている必要がある。その上で、表現技巧や話の展開力が問われるのである。小説家や文筆家と常人との最大の違いは、対象とする読者層のリテラシーに応じた題材、視点、構成、表現を自在に操る能力の多寡にあると思う。表現力とか構成力という、どちらかというと皮相な技巧の有無以前に、プロのもの書きには他人の感性のツボを見抜く能力が備わっているのだろう。プロ野球選手が、常人には見ることのできないボールを見ることができるのと同じことである。その誰にでも真似のできるわけではない部分が、書いたものの総体としての印象を決定付けているのだと思う。
72歳の筆者が日本のあちらこちらにある地面の崩壊現場を見て歩いた見聞記である。いったい噴火の跡や地すべりの跡を見て何がそんなに面白いのだろうと思うかもしれない。私も読み始めた時には、なぜこのような話が本にまとめられたのだろうと訝った。ところが、読み出したら愉快でたまらない。おそらく、自分が著者の目に近いところにいると感じられるからだろう。
著者の目に近いというのは、例えば、本書執筆時の著者の年齢が現在の私の親とほぼ同じであり、その年代の人々の感覚というものに私が興味を感じているということがある。また、最近は機会に恵まれないのだが、自分も山歩きが好きであることとか、地理に関心があること、本書に登場する場所のいくつかに実際に足を運んだことがあるといったことも関係しているだろう。土地の崩壊という現象に素朴に驚き、その心の動きが的確に文章に表現されて、その作者の驚きが自分の驚きのように感じられているということも、勿論あるだろう。
しかし結局のところ、本を読んで面白いと感じるのは、表現とか構成とか、自分の経験との重ね合わせというものもあるだろうが、そうした個々の要素を包括した総体としての印象によるところが大きいのだろう。それを感性と呼ぶのかもしれないが、読書は食事にも似ている。食事も、個々の食材の味とか、それを包括した料理としての味、さらに料理の組み合わせによる味、もっと言うなら、食事を共にする相手の印象、器やその場の雰囲気の影響もあるだろう。どちらも、人が自覚している以上に多くの感覚を刺激しているのだと思う。
以前、このブログに、自分の書いたものを読み返すと面白いと書いた。それは当然のことなのである。まず第一に自分が面白いと思ったことを書いているからであり、第二に自分の体験や思考を追体験できるからであり、第三に自分のツボに触れるからである。自分の書いたものが他人に面白いと思われるためには、リテラシーをある程度共有できている必要がある。その上で、表現技巧や話の展開力が問われるのである。小説家や文筆家と常人との最大の違いは、対象とする読者層のリテラシーに応じた題材、視点、構成、表現を自在に操る能力の多寡にあると思う。表現力とか構成力という、どちらかというと皮相な技巧の有無以前に、プロのもの書きには他人の感性のツボを見抜く能力が備わっているのだろう。プロ野球選手が、常人には見ることのできないボールを見ることができるのと同じことである。その誰にでも真似のできるわけではない部分が、書いたものの総体としての印象を決定付けているのだと思う。