熊本熊的日常

日常生活についての雑記

マリッジブルー

2011年11月02日 | Weblog
夜勤なので、仕事の合間を見て、職場のあるビルの地下にある商店街へ弁当類を買いに行く。その時間は昼間の当たり前の時間帯に働いている同僚が帰宅する頃でもあるので、エレベーターホールでそういう人たちと一緒になることもある。今日、エレベーターで一緒になった人はもうすぐ結婚することになっていて、新生活が始まる新居に最近引っ越したばかりだ。しかし、あまり嬉しそうな雰囲気はなく、むしろ憂いを含んだ感じだ。エレベーターを降りてからしばらく立ち話をしたのだが、いざ結婚となると相手の嫌な面が気になりだして迷いが出てきたというのである。

生まれたときから配偶者が決められているような時代や文化ならそんな悩みなど起こるはずもないのだろうが、人それぞれにしょうもないしがらみが程度の差こそあれ付いて回るにしても、今は原則として当人同士で決定するのが結婚というものだ。おそらく、人生のなかであらゆる点で最大規模の決断だろう。そこに迷いが生じるのは自然なことだ。しかも、当人同士のこととはいいながら、そこは社会生活を営む者同士でもあるので、当人同士では収まりきれないことが湧いてくる。それは必ずしも個別具体的なことではなく、空気のようなものも少なくないのだが、それが関係性というものでもある。そうした空気の塊のようなものも含めて物事が動くという個人的経験は、おそらく結婚くらいしかないのではなかろうか。

大きなものは、一旦動き出すと制御が難しくなる。手漕ぎボートが自由自在に動けるのに、航行中の巨大タンカーが急には停船できないのに似ている。人の行動は八割方が習慣に依存しているという話を聞いたことがある。八割という数字がどこからどのように算出されたのかは知らないが、実感としては納得できる。当事者同士だけではなく、それぞれの社会関係がひとつの出来事についてある方向に動き出すと、それがそこに関わる人たちの思考の習慣を刺激してある方向への動きは個人だけではどうしょうもないほどに大きなものになってしまう。

しかし、何事も経験だ。人間として社会を構成しているのだから、その単位となる人間関係を取り結ぶのは自然でもあり必然でもある。近頃は結婚しない人、結婚という形どころか、パートナーさえいないというような人も珍しくはなくなった。ただ、必然を経験していない人というのは、ある種の欠落を感じさせる。人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬのだが、その間にさまざまな物語を創り出すことで社会全体としての文化が豊潤になるものだと思う。そうした豊かさに貢献することが社会に生きる者の義務でもあろう。経済生活の側面だけでしか豊かさを語ることができないようでは、生きていても当人も面白くないだろうし、周囲にとっても迷惑だ。たとえ憂鬱であっても、自分の関係性を大きく動かすという経験は必ず自分の人生を豊かにする。結果として、その関係性を解消することになったとしても、その解消という経験もまた人生を豊かにする。人は経験によってしか発想をすることができない。たくさんのことを経験すれば、それだけ物事をいろいろに考えることができるようになる。それを豊かさと呼ぶのではないだろうか。そういう人が増えることは社会全体が豊かになることでもある。

なにはともあれ、ご結婚おめでとうございます。