今回の戦争は、なんとしても醜い事件だ。これによって日本は、家康時代のように完全な独立国になるだろうが、しかしそれが日本にとって最善のことなのか、わたしにはもはや保証できない。国民は依然として善良だが、上流階級は腐敗してきている。昔の礼節、昔の信義、昔の温情は、日に照らされた雪のように消えつつある。(ラフカディオ・ハーンがアメリカのシンシナティに暮らしていたころの友人、エルウッド・ヘンドリックへ宛てた手紙の一節)
24頁
新しい時代は、金銭が世の中の仕組みを動かすという事実を骨身で悟るということだ。
28頁
群衆は金銭によって動かされている。ロシアとの講和条約に反対したのも勝利の代償が少ないと感じたからである。二銭の電車賃値上げに反対したのも、家計のためである。
77頁
教科書疑獄事件は、1903年(明治36)4月に小学校令を改正し、教科書を国定化することに繋がる。それだけ教育の画一化が進んだわけで、啄木が「自己流の教授法を試み」たのは、この流れに反したのである。
79頁
電車賃値上げについて三社が願書を出した翌々日の3月9日、「読売新聞」は、これに反対して電車焼き打ちの噂が立っていることを報せているが、その記事は次のように書き出されている。
三電車の五銭均一に値上げの請願を出したるに就いて市民の激昂は非常にて殊にこの値上げを運動するには当局者中に少なからざる収賄等のある由なれば…
値上げ運動の背後に汚職問題があることを示唆している。
人々が運賃値上げに怒ったのは、単純に三銭が五銭に上がることだけではなかった。東京市会では、1895年(明治28)に不正鉄管事件、1900年に市参事会収賄事件が起きている。不正鉄管事件とは、東京市に供給していた水道管を巡る収賄事件であり、市参事会収賄事件は、汚物清掃請負人指定、量水器購入、水道用鉛管納入を巡って起きた事件で、いずれも急速に発展して行く東京の基盤整備にからむものであった。そして、これらの汚職事件は、電車を市営にするか、民営にするかという問題と結びついていた。なにより電車の利権がもっとも大きかったからである。この利権を巡って、三たび汚職事件の当事者たちが暗躍していたのである。
このことは、その後の経過を眺めると明白である。値上げ反対の世論の高まりにより、三社は願書を一旦取り下げるが、5月26日に突然、三社は合併する。そして合併が認可された8月1日、内務大臣は運賃を四銭均一にすることを認めた。合併認可も、運賃を一銭値上げすることも秘密裡に行われた。
79-80頁
さらに電車問題のその後を追うと、1911年(明治44)に市は合併した三社の経営と財産を買収する。買収費は実情の値の二倍に相当したといわれる。市有化にあたって、会社は利益を上級社員には平均390円を払ったが、運転手や車掌には46円しか支払わなかった。重役に支払われた額は平均4万円。利は上に厚く下には薄かったのである。漱石の坊ちゃんがなった、月給25円の技手も、むろん上級社員とはいえない。
80-81頁
天涯があきらかにしている下宿屋と貧民窟の分布は、日比谷焼き打ち事件で焼き払われた交番の分布、電車賃値上げ反対運動で止められた電車の位置とほぼ一致する。荒れた群衆が住む場所は、天涯が述べる下宿屋と貧民窟であった。(石川天涯『東京学』)
109頁
電車の拡張工事は、交通が便利になったということにとどまらない。電車が通れば、人は動く。たとえば、山の手の呉服商は本所深川に電車が走りはじめたため、客は「五銭を投ずれば自由に運んでくれる電車に乗って、三越で新調したのよといつた調子に三越、白木屋、松屋などの大商店に吸収され」(「中外商業新聞」)ることになる。
125頁
米価を操作していた商社がねらい打ちにあったから、財閥や貴族は怖れさえ抱いた。事件後、三菱の岩崎は東京市に百万円を無条件に寄付し、大倉財閥も同額を葬祭場建設のために東京市に寄せた。山下汽船の山下亀三郎も百万円を市に提出し、小学校教員を集めた文化村を代々木原に建設する案を発表する。そして奇妙なブームがはじまる。
鍋島公爵家では1920年1月5日、麹町区の宅地の一部6千坪を「市民の住宅難を救う」ために開放すると発表。ついで21年1月、岩崎家の岩崎久弥は深川区伊勢崎町の4万坪の大庭園を市民の遊園地、また道路のために無料開放すると発表。さらに巣鴨の別邸、柳沢家の下屋敷であった六義園を含む12万坪のうち、5万坪余を開放して文化村を建設するとした。大和郷住宅地と呼ばれ、翌22年から工事が開始されている。上駒込では藤堂子爵家が2万坪の住宅地を建設。土方久敬伯爵も3千坪を住宅地として開放。近衛文麿は米騒動の前年すでに、邸宅約2万坪を住宅地に開放していた。後に目白文化村と呼ばれるように、美術家や作家の多くが住むことになる。
他に池田家の下大崎町、時計王服部の大森八景園、柳原家の麻布桜田町、酒井家の牛込矢来町、渡辺治右衛門の小石川富士見町が土地開放され、1922年(大正11)の話題となった。
このブームにも裏がある。旧大名屋敷を引き継いだ華族富豪の土地は、市内でおよそ二十分の一を占めていた。これら別邸、庭園は税法上は田畑山林とされ、税の対象とならなかったからである。ために広大な庭園はときに人々の怨嗟の的となった。
206-207頁
富豪たちの土地開放ブームは米騒動が生んだ「民衆本位」の掛け声に便乗したものだが、不況により土地を売却しなければならなかった内実もあった。
成り金時代はバブル景気であった。投機とドンブリ勘定がまかり通った。成り金時代が終わると疑獄事件が次々と明るみに出た。
中国で没収した阿片を払い下げ、その利益を拓殖局長官と関東庁民政局長とが着服していた阿片事件。造船成り金内田信也から満鉄が8,500トンの船を通常の値よりはるかに高く買い、内田は原に贈賄したと騒ぎになった。
東京市でも、道路の砂利の利権にからむ贈収賄事件、東京瓦斯の重役が値上げ案を通過させるために市会議員に2万円をバラまいた事件などが浮上した。事件に連座して起訴された者は67名。取り調べを受けた市会議員は17名に上った。成り金時代、東京で土木工事にどれほど投資されたかを表す疑獄事件である。
225-226頁
村は物理的にも精神的にも一つの共同体を形づくっている。農業が大地を生活の糧としているためである。家々の耕地の広さはマチマチである。だが、作物の育つスピードは変わらない。動植物を工業製品として生産できない限りは、たとえ機械化が進歩しようとも、収穫までは自然のリズムと一致させなければ農業は成立しない。
水利一つを取り上げても、村は必然的に共同性を基盤とする。このことは一定の人口と収穫とのバランスが保たれている限り貧しさとは結びつかない。一定の人口と収穫がある限りというのは、それこそ村が共同体であるということと同意義である。そのバランスを保つための制度も当然内在する。それが村を安定させ、存続させてきたのである。
むしろ貧しさは、「光るトタン屋根とナマコ板の塀とゴミの流れ寄つている川と」で作られた街にある。当然ながら、そこには村が内包していた、安定した共同性はない。そのように安定されていたのでは、工業も商業も成り立たない。求められるのは上昇であり、膨張である。
304-305頁
すでに多くの人にとって「あの世の平和」が見えなくなった、自身に結ぶ血縁も、死者たちも見えず、自分が死ねばすべてがそれきりであるということである。この心理が生まれたのは都市生活者が多くなったためである。彼らは新聞記事の老人のように位牌を背に負って故郷を出たわけではなかった。いつの日にか、故郷へ帰ろうとした者も、東京や大阪など大都市での生活が長くなれば、やがて定住する。墓もまた住まいの近くに求めた。
いま一つの理由は産業の論理が社会の端々まで行きわたったことである。人間もそのなかでは機械のひとつの歯車である。老人や病者が労働力として役に立たぬ者と見なされれば、さらに死はそれっきりのことと考えられる。死者は意味を失う。位牌を背負った老人は二重の意味で時代から取り残された「珍しい事実」だったのである。
312-313頁
(1930年)4月はじめ、東京板橋の岩の坂下、木賃宿や長屋が建ちならぶスラムのなかで41人の貰い子殺しが発覚する。岩の坂下に住む念仏行者の妻小川キクは、1923年(大正12)ごろから、富豪令嬢の不義の子、八王子や桐生など生糸工場の女工が生んだ私生児を養育費付きで貰い受けながらも、自分たちの生活と自分の子の養育費に追われ、次々と嬰児を栄養不良、過失によって殺していた。死児を医大の解剖用に、育てた子も乞食の手先や娼婦として売り飛ばしていた。
これで事件は終わらなかった。キクの自供から岩の坂下には、同じように貰い子を殺していた者が数名いることが判明する。5月末には新宿駅に嬰児の腐乱死体入りの石油缶を預けた女が、養育費欲しさに子を貰い受けたものの、7人を殺していたことを自供する。さらに6月末、託児院で16人の嬰児が殺されていたこともわかった。
315-316頁
貰い子殺し事件があきらかになった1930年(昭和5)の夏、旅費もなく徒歩で東京から故郷へ戻る失業者の群れで、東海道の街道は溢れた。
(中略)
東海道ばかりでなく、上野駅では「帰郷奨励金」を手にした失業者と家族が、列車で故郷に帰る姿が眼についた。政府も道路改修工事などによる失業対策を行ったが、実数は百万(政府発表では1930年の失業者は約32万)といわれた失業者を救うこともできず、蔵相井上準之助は「不景気のもとで失業者の出るのは当然」といい、内相安達謙蔵は「失業手当などやると、遊民惰民を生ずるから、さういふ弊害を極力防がうと考へて居る」とまでいい切った。(『改造』1930年5月号)
政府は失業者の救済もできず、都市の治安維持の立場から「ともかくも故郷へ」と呼びかけた。要するに政府は双手をあげて失業者を放り棄てた。このときほど「故郷」とか「血縁」といった言葉が飛びかった時期はない。
320-321頁
1941年ごろより技術、科学への関心が高まった。しかし政府指導者層の科学的知識がどれほどのものだったか。軍医であった長尾五一は筆致を抑えながら記す。
「東條首相が、昭和18年1月議会を召集した時病気になり、開会が数日遅れたことがあった。この時の主治医は軍医学校内科の主任大鈴中佐であった。熱の原因が不明で今日の如く抗生物質のない時なので、同中佐は血液の検査がしたかったがこれは拒絶された。即ち大小便や痰のような排泄物は勝手に検査してもよいが、血の一滴たりとも採らせぬというのであった。」
東条は信念で血液検査をこばんだのではない。単純に注射が怖かったのである。ほかにも注射とX線検査を拒む将軍は少なくなかったという。東条の軍事裁判の折、検察側の証人となった田中隆吉少将は豪放を装いながら、「ノースアメリカン機の本土初空襲後強度の神経衰弱に罹った」という。長尾は戦後になって『戦争と栄養』を著した。彼の締めくくりの言葉。
「また西式健康法を健兵対策に取り上ぐべしと主張した大本営幕僚がいた。こんな軍首脳の下で、兵員の健康管理をやるのであるから、軍医の活動には、学術能力以上に所謂心臓と足とがひつようであった。
民主主義の世の中になってこれらの点がいかに改善されるか興味深く眺めている。」
380-381頁
戦時下の統制体制が敗戦によって分断されたのではなく、じつは戦後へと結びついている、この視点から歴史を読み返す作業が近年進んでいる。『現代日本経済システムの源流』(岡崎哲二・奥野正實編)、『「日本株式会社」の昭和史 官僚支配の構造』(小林英夫・岡崎哲二・米倉誠一郎・NHK取材班著)、『一九四〇年体制 さらば「戦後経済」』(野口悠紀雄著)などが代表作であろう。これらの研究を参照して、戦時体制がどのように戦後の体制を作り上げたのかを整理してみる。
昭和初期においては経済のあり方は現在とでは大きく異なっていた。現在は、企業の資金調達は銀行融資の割合が9割に及ぶほど高く、結果銀行が経営に対して強い発言権をもつ。ところが35年(昭和10)においては、国内企業が銀行融資に頼るものは三割にすぎず、資金は株式市場を通じて資本家が出資していた。それだけ資本家が大きな力をもっていた。
企業の役員は、現在では内部昇進が当たり前である。企業での内部昇進による役員の割合は9割である。つまり企業の経営者と資本の所有者とは分離されている。しかし1935年当時は内部昇進者は3.6割にすぎず、多くの役員は資本家であった。
企業に勤める人々の離職率は現在では日本企業が終身雇用に近い雇用制度を採っているからきわめて低い。1992年で1.5パーセントであり、アメリカの三分の一である。ところが1927年(昭和2)においては、日本人の離職率も4.3パーセントである。断っておくが、数値だけで1920年代の労働環境がアメリカと同じだというつもりはない。離職率が高かったのは経営者に労働者は使い棄てられる側面があった。
386-387頁
1960年は日本の産業構造が大きく変化した年でもある。
この年に企業に勤める労働者がはじめて労働人口の過半数を超え、農業や漁業に従事する者と商工自営業者は過半数を割り、十年後の1970年になると、企業労働者はおよそ六割に増える。もう少し細かくいえば農漁民は60年で30.6パーセント、70年には18.1パーセントにまで減少する。
東京オリンピック開催が決定されたのは1959年。それからわずか5年5ヶ月の間に東京は高速道路が建設されるなど大規模な都市改造が行われた。東京とその周辺は、新たな「普請中」に入った。それだけに、とくに東北の農村から農民たちはオリンピックの建設ブームで出稼ぎする者が多く、1963年、64年の出稼ぎ者は28万人にのぼった。職安を経ずに就労する者も多く、実質的には1965年でも百万人に及ぶと推定されている。テレビなど電化製品が普及し、農民もまた消費熱に煽られる。農業の機械化も進行したが、購入資金を農閑期に外へ出て求めざるを得ない。
出稼ぎばかりではない。東京の夜間人口は、1962年(昭和37)に一千万人に達した。敗戦時の東京の人口は348万8千人であった。それが17年の間に、他府県の人口を吸収して急激に人口を増した。農漁村からの若者たちは就職を、就学を求めて東京に集まった。企業も東京に本社機能を移転する動きが加速する。
60年代、高度成長期はすべてが猛烈なスピードで回転し、都市は膨張を続けていく。その激しい動きのなかで人間もまたベルトコンベアの歯車の一つとなって回転を続ける。
これは単純な比喩ではない。なぜなら高度成長を支えたのは、大量のモノを作り上げるテクノロジーである。
ここで群衆についてもう一度考えよう。群衆は個々の人々を均一化させる。個々の人は平均化されることでは満足しないはずである。もし平均のままであれば、かえって平均以下だと思うはずである。1964年(昭和39)、総理府の調査によれば、自分の生活水準を「中流」と考える人は87パーセントに達している。なかでも「中の中」と考える人は50パーセントに至る。しかし中流意識とは、じつは誰もが共に上昇する気分なのだ。
430-432頁
群衆社会のなかからはみだした群衆。奇妙なパラドックスだが、当然起きうる事態である。なぜなら群衆社会はすべての人間に同質化を強い、また同質であることを保持しようとするからである。同質である社会のメリットは効率の良さである。いや、効率の良さを求めるがゆえに同質社会が生まれるというべきか。いずれにせよ、群衆社会は効率の悪い、同質化ができない人々をふるい落として、より高い効率を目指す。
いいかえれば中流意識は、中流という均一幻想からこぼれ落ちる人々を生み出すことで成立している。いいかえれば中流社会とは競争社会のスタートだったともいえる。とすれば、こぼれ落ちる人々山谷や釜ヶ崎の労働者だけであるはずはない。
433頁
戦時下、兵士も銃後を守る家族も、総力戦のために消耗品として扱われた。戦後の公害による被害者たちは高度成長のなかで消耗品のごとくであったのか。そういいたいのではない。むしろ自ら心を磨滅させ、自らを消耗品として考えていたのは、企業のなかにいる者、官公庁に働く者、ひいては日本株式会社という巨大な組織のなかで安穏と、しかし身の保全に汲々としていた多くの日本人ではなかったか。
448頁
高学歴を目指し、平均であることから抜け出そうという意識こそ、じつは群衆社会の平均的な意識である。
453頁
日本万国博は、戦後の経済政策を支えてきた官僚主導の護送船団方式、いいかえれば日本株式会社の大宴会であった。
会場のなかで外国パビリオンより人目を惹いたのは日本の企業グループによる巨大パビリオンであった。民間パビリオンのうち建設予算が十億円を超えたのは16館である。電力館や鉄鋼館のように同一の業種の企業が連合して出展したパビリオンは5館、三井、三菱、住友、富士など資本が同系列の企業グループによるものは10館。中堅企業72社の共同出展によるパビリオンが1館である。企業による民間パビリオンは全体の敷地のおよそ半分を占めた。
建築家、デザイナー、文化人、知識人が動員された。戦時下の統制経済によってはじまった日本株式会社は、この大阪万国博においてGNP世界第二の経済大国ぶりを誇示した。この万国博の成功以降、知識人は未来学者として繁栄する未来を語った。建築家、デザイナー、文化人は以降タレントとなった。なにより巨大なイベントによって地域を開発する手法は、東京オリンピックと大阪万国博の成功によって、地方行政の常套手段となった。
455-456頁
テレビは、連合赤軍5人が長野県軽井沢の「浅間山荘」を占拠した後、千数百人の警官が山荘を囲み、10日間わたって繰り広げられた銃撃戦を中継し続けた。警察が強行突入した日、二人の警官が死亡、その8時間前後の現場中継は、NHK、民放各局の視聴率を累積すると98.2パーセントに達した。
これほどテレビの即時性を示した事件はない。この事態は『虚無への供物』のなかの登場人物がすでに写真というメディアで予告していた。「自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることが出来たら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ」。この人間がお化けになる事態をテレビはより大規模に実現した。
470頁
学生運動の内ゲバ事件、連合赤軍事件はノリのような群衆社会の縮図に思える。対立する思想や感性を許容することができない。同質で均質な集団である。
477頁
自己本位とは他者の自己本位もまた認めることである。それを超えるものは人格であり理想である。技術は人格を発揮するためにある。
486頁
松山巖『群衆 機械のなかの難民』中公文庫
2009年11月25日 初版発行
24頁
新しい時代は、金銭が世の中の仕組みを動かすという事実を骨身で悟るということだ。
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群衆は金銭によって動かされている。ロシアとの講和条約に反対したのも勝利の代償が少ないと感じたからである。二銭の電車賃値上げに反対したのも、家計のためである。
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教科書疑獄事件は、1903年(明治36)4月に小学校令を改正し、教科書を国定化することに繋がる。それだけ教育の画一化が進んだわけで、啄木が「自己流の教授法を試み」たのは、この流れに反したのである。
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電車賃値上げについて三社が願書を出した翌々日の3月9日、「読売新聞」は、これに反対して電車焼き打ちの噂が立っていることを報せているが、その記事は次のように書き出されている。
三電車の五銭均一に値上げの請願を出したるに就いて市民の激昂は非常にて殊にこの値上げを運動するには当局者中に少なからざる収賄等のある由なれば…
値上げ運動の背後に汚職問題があることを示唆している。
人々が運賃値上げに怒ったのは、単純に三銭が五銭に上がることだけではなかった。東京市会では、1895年(明治28)に不正鉄管事件、1900年に市参事会収賄事件が起きている。不正鉄管事件とは、東京市に供給していた水道管を巡る収賄事件であり、市参事会収賄事件は、汚物清掃請負人指定、量水器購入、水道用鉛管納入を巡って起きた事件で、いずれも急速に発展して行く東京の基盤整備にからむものであった。そして、これらの汚職事件は、電車を市営にするか、民営にするかという問題と結びついていた。なにより電車の利権がもっとも大きかったからである。この利権を巡って、三たび汚職事件の当事者たちが暗躍していたのである。
このことは、その後の経過を眺めると明白である。値上げ反対の世論の高まりにより、三社は願書を一旦取り下げるが、5月26日に突然、三社は合併する。そして合併が認可された8月1日、内務大臣は運賃を四銭均一にすることを認めた。合併認可も、運賃を一銭値上げすることも秘密裡に行われた。
79-80頁
さらに電車問題のその後を追うと、1911年(明治44)に市は合併した三社の経営と財産を買収する。買収費は実情の値の二倍に相当したといわれる。市有化にあたって、会社は利益を上級社員には平均390円を払ったが、運転手や車掌には46円しか支払わなかった。重役に支払われた額は平均4万円。利は上に厚く下には薄かったのである。漱石の坊ちゃんがなった、月給25円の技手も、むろん上級社員とはいえない。
80-81頁
天涯があきらかにしている下宿屋と貧民窟の分布は、日比谷焼き打ち事件で焼き払われた交番の分布、電車賃値上げ反対運動で止められた電車の位置とほぼ一致する。荒れた群衆が住む場所は、天涯が述べる下宿屋と貧民窟であった。(石川天涯『東京学』)
109頁
電車の拡張工事は、交通が便利になったということにとどまらない。電車が通れば、人は動く。たとえば、山の手の呉服商は本所深川に電車が走りはじめたため、客は「五銭を投ずれば自由に運んでくれる電車に乗って、三越で新調したのよといつた調子に三越、白木屋、松屋などの大商店に吸収され」(「中外商業新聞」)ることになる。
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米価を操作していた商社がねらい打ちにあったから、財閥や貴族は怖れさえ抱いた。事件後、三菱の岩崎は東京市に百万円を無条件に寄付し、大倉財閥も同額を葬祭場建設のために東京市に寄せた。山下汽船の山下亀三郎も百万円を市に提出し、小学校教員を集めた文化村を代々木原に建設する案を発表する。そして奇妙なブームがはじまる。
鍋島公爵家では1920年1月5日、麹町区の宅地の一部6千坪を「市民の住宅難を救う」ために開放すると発表。ついで21年1月、岩崎家の岩崎久弥は深川区伊勢崎町の4万坪の大庭園を市民の遊園地、また道路のために無料開放すると発表。さらに巣鴨の別邸、柳沢家の下屋敷であった六義園を含む12万坪のうち、5万坪余を開放して文化村を建設するとした。大和郷住宅地と呼ばれ、翌22年から工事が開始されている。上駒込では藤堂子爵家が2万坪の住宅地を建設。土方久敬伯爵も3千坪を住宅地として開放。近衛文麿は米騒動の前年すでに、邸宅約2万坪を住宅地に開放していた。後に目白文化村と呼ばれるように、美術家や作家の多くが住むことになる。
他に池田家の下大崎町、時計王服部の大森八景園、柳原家の麻布桜田町、酒井家の牛込矢来町、渡辺治右衛門の小石川富士見町が土地開放され、1922年(大正11)の話題となった。
このブームにも裏がある。旧大名屋敷を引き継いだ華族富豪の土地は、市内でおよそ二十分の一を占めていた。これら別邸、庭園は税法上は田畑山林とされ、税の対象とならなかったからである。ために広大な庭園はときに人々の怨嗟の的となった。
206-207頁
富豪たちの土地開放ブームは米騒動が生んだ「民衆本位」の掛け声に便乗したものだが、不況により土地を売却しなければならなかった内実もあった。
成り金時代はバブル景気であった。投機とドンブリ勘定がまかり通った。成り金時代が終わると疑獄事件が次々と明るみに出た。
中国で没収した阿片を払い下げ、その利益を拓殖局長官と関東庁民政局長とが着服していた阿片事件。造船成り金内田信也から満鉄が8,500トンの船を通常の値よりはるかに高く買い、内田は原に贈賄したと騒ぎになった。
東京市でも、道路の砂利の利権にからむ贈収賄事件、東京瓦斯の重役が値上げ案を通過させるために市会議員に2万円をバラまいた事件などが浮上した。事件に連座して起訴された者は67名。取り調べを受けた市会議員は17名に上った。成り金時代、東京で土木工事にどれほど投資されたかを表す疑獄事件である。
225-226頁
村は物理的にも精神的にも一つの共同体を形づくっている。農業が大地を生活の糧としているためである。家々の耕地の広さはマチマチである。だが、作物の育つスピードは変わらない。動植物を工業製品として生産できない限りは、たとえ機械化が進歩しようとも、収穫までは自然のリズムと一致させなければ農業は成立しない。
水利一つを取り上げても、村は必然的に共同性を基盤とする。このことは一定の人口と収穫とのバランスが保たれている限り貧しさとは結びつかない。一定の人口と収穫がある限りというのは、それこそ村が共同体であるということと同意義である。そのバランスを保つための制度も当然内在する。それが村を安定させ、存続させてきたのである。
むしろ貧しさは、「光るトタン屋根とナマコ板の塀とゴミの流れ寄つている川と」で作られた街にある。当然ながら、そこには村が内包していた、安定した共同性はない。そのように安定されていたのでは、工業も商業も成り立たない。求められるのは上昇であり、膨張である。
304-305頁
すでに多くの人にとって「あの世の平和」が見えなくなった、自身に結ぶ血縁も、死者たちも見えず、自分が死ねばすべてがそれきりであるということである。この心理が生まれたのは都市生活者が多くなったためである。彼らは新聞記事の老人のように位牌を背に負って故郷を出たわけではなかった。いつの日にか、故郷へ帰ろうとした者も、東京や大阪など大都市での生活が長くなれば、やがて定住する。墓もまた住まいの近くに求めた。
いま一つの理由は産業の論理が社会の端々まで行きわたったことである。人間もそのなかでは機械のひとつの歯車である。老人や病者が労働力として役に立たぬ者と見なされれば、さらに死はそれっきりのことと考えられる。死者は意味を失う。位牌を背負った老人は二重の意味で時代から取り残された「珍しい事実」だったのである。
312-313頁
(1930年)4月はじめ、東京板橋の岩の坂下、木賃宿や長屋が建ちならぶスラムのなかで41人の貰い子殺しが発覚する。岩の坂下に住む念仏行者の妻小川キクは、1923年(大正12)ごろから、富豪令嬢の不義の子、八王子や桐生など生糸工場の女工が生んだ私生児を養育費付きで貰い受けながらも、自分たちの生活と自分の子の養育費に追われ、次々と嬰児を栄養不良、過失によって殺していた。死児を医大の解剖用に、育てた子も乞食の手先や娼婦として売り飛ばしていた。
これで事件は終わらなかった。キクの自供から岩の坂下には、同じように貰い子を殺していた者が数名いることが判明する。5月末には新宿駅に嬰児の腐乱死体入りの石油缶を預けた女が、養育費欲しさに子を貰い受けたものの、7人を殺していたことを自供する。さらに6月末、託児院で16人の嬰児が殺されていたこともわかった。
315-316頁
貰い子殺し事件があきらかになった1930年(昭和5)の夏、旅費もなく徒歩で東京から故郷へ戻る失業者の群れで、東海道の街道は溢れた。
(中略)
東海道ばかりでなく、上野駅では「帰郷奨励金」を手にした失業者と家族が、列車で故郷に帰る姿が眼についた。政府も道路改修工事などによる失業対策を行ったが、実数は百万(政府発表では1930年の失業者は約32万)といわれた失業者を救うこともできず、蔵相井上準之助は「不景気のもとで失業者の出るのは当然」といい、内相安達謙蔵は「失業手当などやると、遊民惰民を生ずるから、さういふ弊害を極力防がうと考へて居る」とまでいい切った。(『改造』1930年5月号)
政府は失業者の救済もできず、都市の治安維持の立場から「ともかくも故郷へ」と呼びかけた。要するに政府は双手をあげて失業者を放り棄てた。このときほど「故郷」とか「血縁」といった言葉が飛びかった時期はない。
320-321頁
1941年ごろより技術、科学への関心が高まった。しかし政府指導者層の科学的知識がどれほどのものだったか。軍医であった長尾五一は筆致を抑えながら記す。
「東條首相が、昭和18年1月議会を召集した時病気になり、開会が数日遅れたことがあった。この時の主治医は軍医学校内科の主任大鈴中佐であった。熱の原因が不明で今日の如く抗生物質のない時なので、同中佐は血液の検査がしたかったがこれは拒絶された。即ち大小便や痰のような排泄物は勝手に検査してもよいが、血の一滴たりとも採らせぬというのであった。」
東条は信念で血液検査をこばんだのではない。単純に注射が怖かったのである。ほかにも注射とX線検査を拒む将軍は少なくなかったという。東条の軍事裁判の折、検察側の証人となった田中隆吉少将は豪放を装いながら、「ノースアメリカン機の本土初空襲後強度の神経衰弱に罹った」という。長尾は戦後になって『戦争と栄養』を著した。彼の締めくくりの言葉。
「また西式健康法を健兵対策に取り上ぐべしと主張した大本営幕僚がいた。こんな軍首脳の下で、兵員の健康管理をやるのであるから、軍医の活動には、学術能力以上に所謂心臓と足とがひつようであった。
民主主義の世の中になってこれらの点がいかに改善されるか興味深く眺めている。」
380-381頁
戦時下の統制体制が敗戦によって分断されたのではなく、じつは戦後へと結びついている、この視点から歴史を読み返す作業が近年進んでいる。『現代日本経済システムの源流』(岡崎哲二・奥野正實編)、『「日本株式会社」の昭和史 官僚支配の構造』(小林英夫・岡崎哲二・米倉誠一郎・NHK取材班著)、『一九四〇年体制 さらば「戦後経済」』(野口悠紀雄著)などが代表作であろう。これらの研究を参照して、戦時体制がどのように戦後の体制を作り上げたのかを整理してみる。
昭和初期においては経済のあり方は現在とでは大きく異なっていた。現在は、企業の資金調達は銀行融資の割合が9割に及ぶほど高く、結果銀行が経営に対して強い発言権をもつ。ところが35年(昭和10)においては、国内企業が銀行融資に頼るものは三割にすぎず、資金は株式市場を通じて資本家が出資していた。それだけ資本家が大きな力をもっていた。
企業の役員は、現在では内部昇進が当たり前である。企業での内部昇進による役員の割合は9割である。つまり企業の経営者と資本の所有者とは分離されている。しかし1935年当時は内部昇進者は3.6割にすぎず、多くの役員は資本家であった。
企業に勤める人々の離職率は現在では日本企業が終身雇用に近い雇用制度を採っているからきわめて低い。1992年で1.5パーセントであり、アメリカの三分の一である。ところが1927年(昭和2)においては、日本人の離職率も4.3パーセントである。断っておくが、数値だけで1920年代の労働環境がアメリカと同じだというつもりはない。離職率が高かったのは経営者に労働者は使い棄てられる側面があった。
386-387頁
1960年は日本の産業構造が大きく変化した年でもある。
この年に企業に勤める労働者がはじめて労働人口の過半数を超え、農業や漁業に従事する者と商工自営業者は過半数を割り、十年後の1970年になると、企業労働者はおよそ六割に増える。もう少し細かくいえば農漁民は60年で30.6パーセント、70年には18.1パーセントにまで減少する。
東京オリンピック開催が決定されたのは1959年。それからわずか5年5ヶ月の間に東京は高速道路が建設されるなど大規模な都市改造が行われた。東京とその周辺は、新たな「普請中」に入った。それだけに、とくに東北の農村から農民たちはオリンピックの建設ブームで出稼ぎする者が多く、1963年、64年の出稼ぎ者は28万人にのぼった。職安を経ずに就労する者も多く、実質的には1965年でも百万人に及ぶと推定されている。テレビなど電化製品が普及し、農民もまた消費熱に煽られる。農業の機械化も進行したが、購入資金を農閑期に外へ出て求めざるを得ない。
出稼ぎばかりではない。東京の夜間人口は、1962年(昭和37)に一千万人に達した。敗戦時の東京の人口は348万8千人であった。それが17年の間に、他府県の人口を吸収して急激に人口を増した。農漁村からの若者たちは就職を、就学を求めて東京に集まった。企業も東京に本社機能を移転する動きが加速する。
60年代、高度成長期はすべてが猛烈なスピードで回転し、都市は膨張を続けていく。その激しい動きのなかで人間もまたベルトコンベアの歯車の一つとなって回転を続ける。
これは単純な比喩ではない。なぜなら高度成長を支えたのは、大量のモノを作り上げるテクノロジーである。
ここで群衆についてもう一度考えよう。群衆は個々の人々を均一化させる。個々の人は平均化されることでは満足しないはずである。もし平均のままであれば、かえって平均以下だと思うはずである。1964年(昭和39)、総理府の調査によれば、自分の生活水準を「中流」と考える人は87パーセントに達している。なかでも「中の中」と考える人は50パーセントに至る。しかし中流意識とは、じつは誰もが共に上昇する気分なのだ。
430-432頁
群衆社会のなかからはみだした群衆。奇妙なパラドックスだが、当然起きうる事態である。なぜなら群衆社会はすべての人間に同質化を強い、また同質であることを保持しようとするからである。同質である社会のメリットは効率の良さである。いや、効率の良さを求めるがゆえに同質社会が生まれるというべきか。いずれにせよ、群衆社会は効率の悪い、同質化ができない人々をふるい落として、より高い効率を目指す。
いいかえれば中流意識は、中流という均一幻想からこぼれ落ちる人々を生み出すことで成立している。いいかえれば中流社会とは競争社会のスタートだったともいえる。とすれば、こぼれ落ちる人々山谷や釜ヶ崎の労働者だけであるはずはない。
433頁
戦時下、兵士も銃後を守る家族も、総力戦のために消耗品として扱われた。戦後の公害による被害者たちは高度成長のなかで消耗品のごとくであったのか。そういいたいのではない。むしろ自ら心を磨滅させ、自らを消耗品として考えていたのは、企業のなかにいる者、官公庁に働く者、ひいては日本株式会社という巨大な組織のなかで安穏と、しかし身の保全に汲々としていた多くの日本人ではなかったか。
448頁
高学歴を目指し、平均であることから抜け出そうという意識こそ、じつは群衆社会の平均的な意識である。
453頁
日本万国博は、戦後の経済政策を支えてきた官僚主導の護送船団方式、いいかえれば日本株式会社の大宴会であった。
会場のなかで外国パビリオンより人目を惹いたのは日本の企業グループによる巨大パビリオンであった。民間パビリオンのうち建設予算が十億円を超えたのは16館である。電力館や鉄鋼館のように同一の業種の企業が連合して出展したパビリオンは5館、三井、三菱、住友、富士など資本が同系列の企業グループによるものは10館。中堅企業72社の共同出展によるパビリオンが1館である。企業による民間パビリオンは全体の敷地のおよそ半分を占めた。
建築家、デザイナー、文化人、知識人が動員された。戦時下の統制経済によってはじまった日本株式会社は、この大阪万国博においてGNP世界第二の経済大国ぶりを誇示した。この万国博の成功以降、知識人は未来学者として繁栄する未来を語った。建築家、デザイナー、文化人は以降タレントとなった。なにより巨大なイベントによって地域を開発する手法は、東京オリンピックと大阪万国博の成功によって、地方行政の常套手段となった。
455-456頁
テレビは、連合赤軍5人が長野県軽井沢の「浅間山荘」を占拠した後、千数百人の警官が山荘を囲み、10日間わたって繰り広げられた銃撃戦を中継し続けた。警察が強行突入した日、二人の警官が死亡、その8時間前後の現場中継は、NHK、民放各局の視聴率を累積すると98.2パーセントに達した。
これほどテレビの即時性を示した事件はない。この事態は『虚無への供物』のなかの登場人物がすでに写真というメディアで予告していた。「自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることが出来たら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ」。この人間がお化けになる事態をテレビはより大規模に実現した。
470頁
学生運動の内ゲバ事件、連合赤軍事件はノリのような群衆社会の縮図に思える。対立する思想や感性を許容することができない。同質で均質な集団である。
477頁
自己本位とは他者の自己本位もまた認めることである。それを超えるものは人格であり理想である。技術は人格を発揮するためにある。
486頁
松山巖『群衆 機械のなかの難民』中公文庫
2009年11月25日 初版発行