友人と日本橋高島屋で開催中の草月流いけばな展を観て来た。午後1時に高島屋の正面入り口で待ち合わせ、まずは腹ごしらえと、たいめいけんへ行ってみるが、行列ができているのでコレドのなかで済ませることにする。あれこれと話しをしながら食事をしていると1時間くらいはあっという間に過ぎてしまう。それから改めて高島屋へ行き、8階の会場までエスカレーターで上がっていく。
あまり花を観に出かけた経験がないのだが、作品を観て驚いた。噂には聞いていたが、生け花というよりはサイボーグ花という風情だ。花を使って立体像形を作ることに主眼があるような印象を受けた。要するに花がどのように咲いているかということよりも、草花の色や形に注目し、それを素材にして自分が想定するテーマを表現しているのだろう。色や形だけが問題なので、例えば上下逆さにして使うということも当然にあり、季節感は二の次で、いかに独創性に富んだ表現をするかということが追求されているわけだ。生け花というのは、野にある花を摘んできて、それを花器に生けるのだから、野から切り離した時点で人為的な世界のものと化していると言える。それなら、「自然」であることにこだわるほうがむしろおかしいわけで、自由にその「美しさ」を見出し、あるいは再構成する、ということにこそ生け花の本分がある、というのなら、これでもよいのだろう。むしろ、こうあるべきなのかもしれない。しかし、あまりにあざとさが過ぎると、観ていて痛々しさを覚えてしまう。こういうものを美しいと思う感覚に対する痛々しさ、こうまでして己を見せたいのかということに対する痛々しさとでも言うのだろうか。「いけばな」というとき、「いけ」るのは何なのだろうか。
あまり花を観に出かけた経験がないのだが、作品を観て驚いた。噂には聞いていたが、生け花というよりはサイボーグ花という風情だ。花を使って立体像形を作ることに主眼があるような印象を受けた。要するに花がどのように咲いているかということよりも、草花の色や形に注目し、それを素材にして自分が想定するテーマを表現しているのだろう。色や形だけが問題なので、例えば上下逆さにして使うということも当然にあり、季節感は二の次で、いかに独創性に富んだ表現をするかということが追求されているわけだ。生け花というのは、野にある花を摘んできて、それを花器に生けるのだから、野から切り離した時点で人為的な世界のものと化していると言える。それなら、「自然」であることにこだわるほうがむしろおかしいわけで、自由にその「美しさ」を見出し、あるいは再構成する、ということにこそ生け花の本分がある、というのなら、これでもよいのだろう。むしろ、こうあるべきなのかもしれない。しかし、あまりにあざとさが過ぎると、観ていて痛々しさを覚えてしまう。こういうものを美しいと思う感覚に対する痛々しさ、こうまでして己を見せたいのかということに対する痛々しさとでも言うのだろうか。「いけばな」というとき、「いけ」るのは何なのだろうか。