熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「空気人形」

2011年11月05日 | Weblog
哀しい物語だ。ささやかな誤解が交錯して人の生活が破綻する。空気人形は自分が信頼し好意を寄せる相手には、自分が空気人形だということを告白する。あるいは期せずして人形だということがばれてしまう。それに対して、相手は自分も同じだと答える。それは人形だという意味ではなく、心の有り様を表現した比喩なのだが、人形のほうは文字通りに受け取ってしまう。そこに自分の同類がいる、しかも一人や二人ということではないと認識してしまう。親しくなったと思った相手が自分と「同じ」だというので、その空気を抜いて自分の空気を吹き込もうとして、結果的に刺殺してしまう。愛情表現として彼のなかに自分の空気を送り込もうとして穴を開けたつもりだったのだ。傷自体は大きくなさそうだが、刺した場所がまずかったのか、おそらく失血死だろう。そして彼女、いや、その人形は漸く確保できたと思った自分の居場所を失うのである。

空気人形に対して人が「自分も同じ」と語るとき、そこで語り手がイメージしているのは何らかの喪失感なのだろう。程度の差こそあれ、それは誰もが自覚していることではないだろうか。人が関係性のなかを生きるかぎり、喪失感や虚脱感を軽減するのは他者との関係よりほかに有効なものはないだろう。それは目には見えないものだから「空気」という表現で伝えようと思うのは自然なことだ。空気人形はなかにある空気が抜けてしまえばただの樹脂でしかなくなってしまう。人もまた、他者との関係がなければ食べて排泄するだけの奇怪な物体でしかない。作中で吉野弘の詩が使われている。私は知らなかったのだが、人気のある詩人だそうだ。「空気人形」の公式サイトにも紹介されているが、このサイトは少なくとも私が使っているマックではエラーになって見ることができないので、その詩をここに引用させていただく。

「生命は
 自分自身だけでは完結できないようにつくられているらしい
 花も
 めしべとおしべが揃っているだけでは
 不十分で
 虫が風が訪れて
 めしべとおしべを仲立ちする
 生命は
 その中に欠如を抱き
 それを他者から満たしてもらうのだ
 世界は多分
 他者の総和
 しかし
 互いに欠如を満たすなどは
 知りもせず
 知らされもせず
 ばらまかれている者同士
 無関心でいられる間柄
 ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
 そのように
 世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
 花が咲いている
 すぐ近くまで
 虻の姿をした他者が
 光をまとって飛んできている
 
 私も あるとき
 誰かのための虻だったのだろう
 
 あなたも あるとき
 私のための風だったかもしれない」
 
 (吉野弘「生命は」より:「空気人形」公式サイトより引用)

人は誰か他の人のために生きてこそ人なのだと思う。直接に人のためにどうこうするということではなく、それこそ空気のように誰かのためになるとか、知らないうちに誰かの何かの代用品になっているとか、誰に感謝されるということもなしに、それどころかその存在に気付かれもせずに生きてこそ、人は人たりうるのではないだろうか。それを哀しいと感じるかどうかは、人それぞれだろうが、哀しいと思うなら、人として生きることは哀しいものなのだ。