昨日は木工の後、一旦帰宅して着替えてから銀座に買い物に出かけた。その後、映画でも観ようと思い、渋谷に出たのだが、生憎、中途半端な時間だったので、池袋に行き、燕路の独演会を聴いた。
よく落語会で噺家がマクラのなかで池袋演芸場が空いているというようなことを口にする。どんなところなのだろうと以前から気にはなっていたのだが、入るのは昨日が初めてだった。口銭を払って演芸場のある地下へ下りていくと、なんとなく人が充満しているような雰囲気が伝わってきた。会場入り口から中を覗くと、開演10分前でほぼ満席だった。モギリを経てすぐのところ、最前列の端の席が空いていたので、そこに座る。ホール落語とはちがって、落語を口演するのに良いように作られた演芸場は雰囲気もそれらしい。舞台装置がいらないので、どこでもできるというのが落語という芸のひとつの特徴ではあるのだが、話芸故に語り手の微妙な表現も感じられるような物理的空間というものは、やはり必要だと思う。
2番目の口演は女性の噺家。どこかで見覚えがあると思ったら、ドキュメンタリー映画「小三治」のなかの鈴本のシーンで比較的長い時間露出していた人だ。最初、その映画を神保町の映画館で観たときには、鈴本の人かと思っていた。その後、少し落語を聴く頻度が上がって、寄席の楽屋であれこれと働いているのは前座修行中の人たちだということを知った。こみちは今は二つ目で、昨日のマクラによれば噺家になって8年半だそうだ。あの映画が撮影されたのはいつの事だか知らないが、公開されたのは2009年のことで、私が観たのは2月26日木曜日の12時からの回だった。落語協会のサイトによれば、こみちが二つ目に昇進したのは2006年11月なので、あの撮影のときには既に二つ目だったのかもしれない。
こみちのネタは「鷺とり」。私がこの噺を最初に聴いたのは枝雀のDVD「枝雀十八番」に収録されている1983年4月17日放送のMBS「笑いころげてたっぷり枝雀」のものだった。滑稽噺の典型のようなものなのだが、それでも細部、殊に人の心情に関わる部分は丁寧に語らなければ噺の世界は膨らまないのではないだろうか。この噺で言えば、主人公が五重塔の上にいる場面だ。高い場所に突然移動したときの動揺をきちんと表現しなければ、このすぐ後にサゲが来るのだから、噺全体の印象とか噺そのものの存在感が全く違ったものになってしまう。それまでの噺は主人公が隠居に雀の取り方を語っていたりする場面であり、鷺を取ろうという場面、つまり足が地についている世界だ。五重塔の上というのは、鳶職でもないかぎり、非日常の世界だ。世界が違うのだから、当然に語りも変わらないといけない。この噺では、非日常のままサゲになるので、音楽で言うなら最終楽章だ。交響曲が原則として四部構成になっているのに通じるところがある、と考えれば、五重塔の上の場面はやはり一工夫も二工夫も必要なのである。
と、ここで文句を並べても仕方ない。講談を聴く機会というのは滅多にないのだが、落語のネタのなかに取り込まれているものもあるので、馴染みが全くないというのでもない。かつてとても流行ったのだそうだが、私は数少ない講談を聴いた経験に基づけば、好きだ。本に節をつけて読むという、これもシンプルな芸なのだが、その調子とか声といったものが人の心を刺激するということなのだろうか。聴いていると、思わずその世界に引き込まれてしまうのである。昨日の琴調の話によると、本は自分で写本を作るのだそうだ。それ用の和紙を買い、毛筆で書き写すのだという。修業時代で経済的に余裕が無いなかで、和紙だの毛筆だのという金のかかる道具類が必要なのである。おそらく、金が無いからといって、そうした道具類への出費をケチるようでは一人前にはなれないのだろう。どのような芸でも、芸というのはそういうものだと思う。つまり、覚悟を決めなければ、物事を習得することはできないということだ。
初めて訪れた池袋演芸場の印象はとても良かった。次は寄席のほうを聴いてみようかと思っている。
昨日の演目
古今亭半輔「寄合酒」
柳亭こみち「鷺とり」
柳亭燕路「猿後家」
宝井琴調「『忠臣蔵』より 赤垣源蔵 徳利の別れ」
(中入り)
柳亭燕路 この人に聞く 宝井琴調
マグナム小林 バイオリン漫談
柳亭燕路「汐留のしじみ売り」
開演:18時00分
終演:20時30分
会場:池袋演芸場
よく落語会で噺家がマクラのなかで池袋演芸場が空いているというようなことを口にする。どんなところなのだろうと以前から気にはなっていたのだが、入るのは昨日が初めてだった。口銭を払って演芸場のある地下へ下りていくと、なんとなく人が充満しているような雰囲気が伝わってきた。会場入り口から中を覗くと、開演10分前でほぼ満席だった。モギリを経てすぐのところ、最前列の端の席が空いていたので、そこに座る。ホール落語とはちがって、落語を口演するのに良いように作られた演芸場は雰囲気もそれらしい。舞台装置がいらないので、どこでもできるというのが落語という芸のひとつの特徴ではあるのだが、話芸故に語り手の微妙な表現も感じられるような物理的空間というものは、やはり必要だと思う。
2番目の口演は女性の噺家。どこかで見覚えがあると思ったら、ドキュメンタリー映画「小三治」のなかの鈴本のシーンで比較的長い時間露出していた人だ。最初、その映画を神保町の映画館で観たときには、鈴本の人かと思っていた。その後、少し落語を聴く頻度が上がって、寄席の楽屋であれこれと働いているのは前座修行中の人たちだということを知った。こみちは今は二つ目で、昨日のマクラによれば噺家になって8年半だそうだ。あの映画が撮影されたのはいつの事だか知らないが、公開されたのは2009年のことで、私が観たのは2月26日木曜日の12時からの回だった。落語協会のサイトによれば、こみちが二つ目に昇進したのは2006年11月なので、あの撮影のときには既に二つ目だったのかもしれない。
こみちのネタは「鷺とり」。私がこの噺を最初に聴いたのは枝雀のDVD「枝雀十八番」に収録されている1983年4月17日放送のMBS「笑いころげてたっぷり枝雀」のものだった。滑稽噺の典型のようなものなのだが、それでも細部、殊に人の心情に関わる部分は丁寧に語らなければ噺の世界は膨らまないのではないだろうか。この噺で言えば、主人公が五重塔の上にいる場面だ。高い場所に突然移動したときの動揺をきちんと表現しなければ、このすぐ後にサゲが来るのだから、噺全体の印象とか噺そのものの存在感が全く違ったものになってしまう。それまでの噺は主人公が隠居に雀の取り方を語っていたりする場面であり、鷺を取ろうという場面、つまり足が地についている世界だ。五重塔の上というのは、鳶職でもないかぎり、非日常の世界だ。世界が違うのだから、当然に語りも変わらないといけない。この噺では、非日常のままサゲになるので、音楽で言うなら最終楽章だ。交響曲が原則として四部構成になっているのに通じるところがある、と考えれば、五重塔の上の場面はやはり一工夫も二工夫も必要なのである。
と、ここで文句を並べても仕方ない。講談を聴く機会というのは滅多にないのだが、落語のネタのなかに取り込まれているものもあるので、馴染みが全くないというのでもない。かつてとても流行ったのだそうだが、私は数少ない講談を聴いた経験に基づけば、好きだ。本に節をつけて読むという、これもシンプルな芸なのだが、その調子とか声といったものが人の心を刺激するということなのだろうか。聴いていると、思わずその世界に引き込まれてしまうのである。昨日の琴調の話によると、本は自分で写本を作るのだそうだ。それ用の和紙を買い、毛筆で書き写すのだという。修業時代で経済的に余裕が無いなかで、和紙だの毛筆だのという金のかかる道具類が必要なのである。おそらく、金が無いからといって、そうした道具類への出費をケチるようでは一人前にはなれないのだろう。どのような芸でも、芸というのはそういうものだと思う。つまり、覚悟を決めなければ、物事を習得することはできないということだ。
初めて訪れた池袋演芸場の印象はとても良かった。次は寄席のほうを聴いてみようかと思っている。
昨日の演目
古今亭半輔「寄合酒」
柳亭こみち「鷺とり」
柳亭燕路「猿後家」
宝井琴調「『忠臣蔵』より 赤垣源蔵 徳利の別れ」
(中入り)
柳亭燕路 この人に聞く 宝井琴調
マグナム小林 バイオリン漫談
柳亭燕路「汐留のしじみ売り」
開演:18時00分
終演:20時30分
会場:池袋演芸場