熊本熊的日常

日常生活についての雑記

緩急の妙

2010年10月16日 | Weblog
昼間、竹橋の近代美術館で開催中の「上村松園展」と「茶事をめぐって」と常設展を観てから、夜、松戸へ行って柳家喬太郎の独演会を観てきた。上村松園と喬太郎の噺に、なんとなく共通したものを感じて面白いと思った。

上村松園が描くのは「美人画」だが、どれも自画像なのではないだろうか。勿論、それぞれにモデルがいたり、人形や能面を基に描いていることは知っている。しかし、考えすぎかもしれないが、当時の女性が置かれていた状況とか、そうしたなかで女性が画家として身を立てるということの困難を勝手に想像すると、どうしても作品に描かれている女性に、作者の覚悟を映したような、凛とした強さを見てしまう。例えば、先日、出光美術館での「日本美術のヴィーナス」に出品されていて、今回こちらの松園展にも出ている「灯」は若妻の姿を描いている。そこには新婚女性の初々しさも当然にあるのだが、灯りの蝋燭の火を着物の袖で守る姿に、灯りだけではなく家庭そのものを守ろうとする意志を感じてしまう。単なる若い女性ではなく、何事か使命を持ち、そのことを誇りに思う気持ちが透けて見えるように感じるのである。

逆に、どの作品もそうした溢れ出る内面を感じさせるのに、表情や佇まいには静謐が漂う。それは画の基になっている能面にも通じるもので、まだ一度しか観たことはないのだが、能という芸能が極めて形式的な動きに徹しているにもかかわらず、そこに感情のうねりが表現されていることを想起させる。おそらく、表現する側と観る側との相互作用がひとつの作品を創りあげるのだろう。絵画や演劇に限らず、物事というのは、遍く相互作用の創造物とも言える。同じものが人によって違って見えるのは、観る側の感性や知性にも拠るからだ。そういう点では、日本画や能は形式の決まり事が多いが故に表現が抑制されるだけ空想の自由が大きいとも言える。

空想という点では話芸である落語も聴衆の側に一定の知性と感性を要求する芸だ。古典ともなれば時代背景が今とは全く違うので、まくらのなかでそれとなく予備知識を説明する「仕込み」が無いと、細かいところで引っかかってしまう人などは噺の全体像を把握することすらできないだろう。新作にしても、人情の機微や社会への批判といった普遍性のある要素を織り込まないと単なる漫談になってしまう。今日のトリとなった「ハンバーグができるまで」は大好きな噺のひとつで、サゲが出色だ。古典にある典型的なサゲとは違った独創性があり、その一言で天地がぱっと広がるような気持ちよさがある。サゲというよりアゲと呼びたい。噺の主人公の「ノボルちゃん」は普通にうだつの上がらない男で、感情の起伏はどちらかといえば小さく演じられている。おとなしい奴が主人公では落語にならないので、取り巻きが個性豊かという組み合わせだ。後半、別れた妻が何の前触れもなく戻ってきて、夕食にハンバーグを作り、そのハンバーグを前にした会話がある。ノボルちゃんは元妻に未練があるようで、久しぶりの彼女の手作りの料理によりが戻るのではとの期待が静かに高まる。ところが、彼女がやってきたのは再婚の報告をするためだった。彼の落胆は彼女への怒りとなり、結局できあがった料理を一緒に食べることなく、彼女は帰ってしまう。後に一人残された彼が、付け合せの人参のグラッセを手にする。彼は人参が何よりも嫌いなのである。それでも鼻をつまんで無理やり人参を食べる。すると、…

突然、元妻がやってきたことの嬉しさ、その後の展開への期待の高まり、彼女がやって来た理由がわかって落胆し彼女への怒り、彼女が帰ってしまった後の空虚、嫌いなはずの人参を口にする、新たな地平が広がる、という流れになっている。サゲは彼の再生を暗示しており、そこから新たな物語が続くかのような余韻を秘めている。実はそうしたドラマチックな展開で、感情は激しく揺れ動くのだが、表面にはそれがあまり表れない。抑制の効いた表現なのだが、そうした彼の気持ちと一緒に聴いている側の気分も激しく揺れるのである。実際に聴かないとなんのことやらさっぱりわからないだろうが、この噺は後世に残るかどうか知らないが、私の中では間違いなく傑作落語のひとつだ。

本日の演目
柳家小んぶ 「権助芝居」
柳家喬太郎 「井戸の茶碗」
(中入り)
寒空はだか 漫談
柳家喬太郎 「ハンバーグができるまで」

開演 18時30分
閉演 20時30分

会場 松戸市文化会館

大学生になる

2010年10月15日 | Weblog
今月から大学生になった。都内某大学の通信課程の3年次へ編入が認められたのである。通信課程への編入学なので、試験のようなものはなく、所定の書類を準備して提出するだけだ。それでも「編入学許可書」というものを手にすれば嬉しいのが人情だろう。昨日、日本郵便のレターパックで入学許可書が届き、今日は佐川急便で履修登録関連書類一式が届いた。シラバスをぱらぱらとめくりながら初年度はどの科目を取ろうかと考えていると、単位取得の大変さを想像しながらも、それ以上になんとなく心ときめくものがある。注目すべきは図書館利用の手引きだ。近隣の大学と相互利用ができるようになっており、そのなかには女子大もある。卒業まで何年かかるのかわからないが、ずっと女子大の図書館に入り浸っていようかとも思う。

大学の通信課程で勉強しようと思うきっかけになったのは、5月に会食をした旧職場の同期の奴との会話だった。
「俺、映画は学割で観るんだ。」
というのである。50近いオヤジが学割かよ、と思うではないか。彼は放送大学の講座を受講しているのだという。放送大学も「大学」なので、そこに学生として在籍すれば年齢に関係なく当然「学生」なのである。細かいことは抜きにして、漠然と「学生」という身分を手にすることに妙な魅力を感じた。

その後、調べてみると放送大学とか一部の大学の通信課程のなかには10月入学という枠があることがわかった。さっそく放送大学を含めて3つの大学から資料を取り寄せて、いろいろ比較検討し、放送大学以外の2大学については入学相談会にも足を運んだ。そうして今回の決定に至ったのである。

陶芸を始め、茶碗というものを知ろうと茶道を始め、陶芸で作ったものを収める箱を作ろうと木工を始め、それぞれに楽しくやっていると、どうしても造形とか美術といったものの背後にある共通言語をきちんと押さえておきたいと思うようになる。身近にそういうことに精通した人がいればよいのだが、いない場合には自分で勉強するなり学校に行くなりしなければならない。自分でコツコツやっていられるほど先がある年齢ではないので、手っ取り早く学校に行くことにしたのである。

そういう視点に立つと、放送大学の講座には自分の興味に合ったものが無く、かなり早い段階で検討対象から外してしまった。残り2つの大学は片方が都内にあり、もう片方は関西だ。通信制なので立地は関係ないだろうと思われるかもしれないが、科目の多くがスクーリングへの出席を必須としているので、やはり立地のハンディを補って余りあるだけの魅力がないと遠くの学校を選ぶことはできない。立地のハンディを補う要素は具体的には提供されている科目内容と、仕事をしながら履修するための配慮のようなものを挙げることができる。どの大学の資料にも在校生や卒業生の紹介を冊子にまとめたものがああるが、そこに「仕事を辞めて入学しました」とか「定年退職を機に」というような人が目立っていたら、仕事をしながら卒業するのは通信課程とはいいながらも無理なのかな、と思ってしまうだろう。資料の検討に際しては学科の紹介は勿論のこと、卒業生紹介の冊子も入念に読み、入学相談会でもそのあたりのことは十分に質問をさせて頂いたつもりだ。

3年次に編入学したので、順調にいけば2年で卒業だが、最大6年まで在籍できることになっている。卒業することは結果であって、そのために入学したわけではないが、自分の位置の目安は必要なので、単位とか卒業というものはやはり意識するべきだろう。あと大事なのは、新たな人間関係を築くことである。就職して以来ずっと同じ業界で仕事をしているので、そろそろ新しいことを始めないと閉塞状況が深刻化する一方になってしまう。大袈裟なようだが、生きていくためには今のままでいるわけにはいかないのである。

さて、最初の関門は履修科目の選定だ。一度登録すると次年度まで変更ができないので、よく考えて決めないといけない。早くも学生気分でいい感じだ。

原丈人さんにお会いした頃

2010年10月14日 | Weblog
唐突に「原丈人」という人物が登場したのは、私が使っている「ほぼ日手帳」の所為だ。毎日の頁にちょっとした一言が掲載されていて、今日10月14日はこんなことが書いてある。

「鉄道模型に対する父の姿からは
 「好きなことを徹底的にやること」の大切さを学ぶことができたと思っているんです。
 そういう経験からすると、ここをショートカットすれば最短距離だとか、
 こうしたら、簡単に儲かるなんて考えかたで仕事をやっても…
 あんまり、いいことはないだろうなって思う。」
 ――― 原丈人さんが『とんでもない、原丈人さん。』第1部の中で

一度だけ原さんにお会いしたことがある。1995年のことである。当時、私は経団連の新産業新事業委員会の仕事をしていた。当時の委員長はソニーの大賀会長で、私の勤務先の社長が部会長を仰せ付かり、社内から3人のスタッフがお付きとして委員会や部会の事務作業に従事することになった。私はその3人の末席で、カバン持ちのようなものだ。部会の表向きのミッションは日本で起業を促進するための環境作りへむけた提言をまとめること。より直接的な目標は、当時はまだ日本にはなかったストックオプション制度を導入することだった。バブル崩壊から5年が過ぎ、なお閉塞感が拭えないなかで、政治も混迷していた。時の首相は社会党の村山富市。自民・社会・さきがけ連立政権で、自民単独与党の時代とは違って、議員立法が成立しやすい状況が生れていた。この機に閉塞した旧制度に新しい潮流を入れようという機運が高まっていたのである。

この部会メンバーの所属企業は私の勤務先以外では以下の3社。当時の経団連会長がトヨタの豊田章一郎氏であったことからトヨタ自動車、新産業新事業委員会の委員長が大賀氏であることからソニー、なぜか日本開発銀行(現:日本政策投資銀行)。事務局である経団連からは専任で2名、私の勤務先からはカバン持ち含めて4名、ソニーは2名、トヨタと開銀が各1名という構成だった。このメンバーに経団連からさらに1人、そこに通訳の長井鞠子さんを加えて米国の起業事情の調査に出かけた。その際に、確かサンフランシスコでデフタパートナーズのオフィスにお邪魔して、原さんのお話を伺ったと記憶している。

正直なところ、もう15年も前のことなので、話の内容については全く記憶が無い。ただ、いかにも育ちが良さそうな雰囲気の小柄な人、という印象は今でも残っている。ベンチャーキャピタリストというのは、単に投資をするというだけではなく、起業家の参謀のような役割も担うのが本来の姿なので、あまり表に出て有名になってしまうというのは好ましいことではない。参謀とは、起業家にとっては秘密兵器のようなものでもあるので、匿名性がなければ参謀本来の活動ができないからである。おそらく、原さんにしても、そのデフタパートナーズにしても、その存在の大きさほどに世間で知られていないのはそうした事情の所為ではないかと思う。ほぼ日のサイトで糸井重里との対談記事を拝見すると、相変わらずご活躍のご様子だが、今のこの状況は果たして彼が15年前に思い描いていたものと、どれほどの乖離があるのだろうか。

最近、ここに後悔めいたことを書く機会が多くなっているような印象があるのだが、後悔ついでに書くなら、原さんのような人との接点を活かすことなく、この15年を過ごしてしまった己の不明を恥じている。さらについでに後悔すると、この出張調査ではロバート・マクナマラにも会ったのに、挨拶のとき"How do you do"の一言を言うだけで精一杯だった。ケネディとジョンソンの時代に国防長官を務め、その後は世銀の総裁だった人だ。当時はご自身のコンサルタント会社を経営されており、80歳近いというのに矍鑠としておられた。

ただ、この仕事では個人的に大きな収穫があった。それは、実名を挙げさせて頂いた長井さんの仕事ぶりを拝見したことである。通訳という仕事を間近に観察させて頂いたのはこのときが初めてだったが、メモをどのように取るのか、どのようなタイミングで通訳を差し挟むのか、というような極めて実務的な技能を門前の小僧のように体験させて頂いたおかげで、後々の自分の仕事がどれほど円滑になったかわからない。このときの勤務先を退職してから外国人が同僚だったり上司だったりすることが多く、時として彼らの通訳として客先や取材先に同行することも頻繁にあったので、長井さんのお仕事を観察したことがたいへん役に立った。

ほぼ日手帳のひとこと欄がどのように選ばれて編集されているのか知らないが、「鉄道模型」といえば、今日は鉄道記念日だ。それにしても、是非拝見したいのはシャングリ・ラ鉄道博物館だ。残念なことに「博物館」というのは原家での通称であって、一般公開はされていないという。

東京夜話

2010年10月13日 | Weblog
別に仕事が忙しいからというのではなく、単に自分の次のシフトの人が休暇中なので、先週から今週にかけて残業でタクシーを利用して帰宅することが続いている。以前にも書いたかもしれないが、タクシーに乗った時はなるべく運転手さんと会話をするように心がけている。わずか15分ほどの間のことなので、できるだけ運転手さんに語ってもらえるように務めているつもりだ。その甲斐あって、多くの場合は仕事帰りのひと時を楽しく過ごして気持ちよく一日を終えることになる。勿論、いろいろな人がいるので毎回必ずというわけにはいかない。

これまでの経験から、タクシー業界のなかでも大手と呼ばれる会社の車を運転している人は客扱いに慣れている印象を受けることが多く、個人タクシーは当たり外れの差が大きいように思う。それでなるべく個人ではなく会社タクシーを利用するようにしている。

仕事を終えて職場のビルの通用口から外に出ると、ビルを取り巻くようにタクシーが客待ちの行列を作っている。「タクシー乗り場」というものが設けられていない場所なので、ビルの角や地下駐車場の出入り口の前後などの行列の途切れたところの先頭の車に乗ることになる。自分の乗りたいタクシーを求めてビルの周囲をぐるっと回る、というようなことはしないが、外に出てすぐのところに停まっているのが個人だったりすると、会社タクシーを求めてビルの角から角まで歩く。この間にビルの車回しの出口と入口もあるので、まず出口手前の先頭、入口手前の先頭、次の角の先頭、と3回の選択機会がある。それでも全部個タクなら、それも縁だと思って個タクに乗る。

今の勤務先で働くようになった去年1月頃は、勤務先界隈のビルの前で客待ちの列を作っているタクシーの過半は会社タクシーだった。それがいつの間にか個タクが多数派を占めるようになった。それが何故なのか、何人かのタクシー運転手に尋ねてみたところ、それまで銀座を拠点にしていた個タクがこちらへ流れてきた所為だという意見が圧倒的に多い。銀座界隈は客数そのものが減少している上に、客待ちタクシーの列に対する交通規制も強化されているという事情があるようだ。

「こんばんは」とか「お願いします」とか言いながらタクシーに乗り込んで行き先を告げ、運転手さんはそれを聞きながらドアを閉め、後方を確認しながら車を車列から道路へと出す。この一連の作業は運転する人にとっては注意力を総動員するところなので、乗ってすぐに余計なことを言い出すと、人によっては成すべき作業を失念したりすることもある。一度こんなことがあった。乗り込んですぐに話を始め、そのまま盛り上がって住処前に着いたら、メーターが入っていなかった。運転手さんは自分のミスなので今回は無料でいい、と言うのだが、そんなことをしてもらってはこちらの気分が悪いので、それらしい半端な金額をカードで支払った。このとき、タクシーに搭載されているカード処理の機器はメーターと連動していないということを知った。以来、タクシーに乗って、交通の流れに乗るまでの数分間はこちらから話しかけないようにしている。

車が発進すると程なく皇居のお堀端に出る。午前1時とか2時という時間でもジョギングをしている人がいる。どのような生活サイクルのなかで深夜のジョギングになるのか想像もつかないが、見た目にはあまり健康的な印象は受けない。近頃は、自転車の人も増えたような気がする。かなり本格的なロードレーサーで、乗っている人のコスチュームもそれらしい姿だ。都心の深夜の道路は決して静かなところばかりではない。特に皇居の周囲は建設中のビルの工事があったり、地下鉄の通路整備というような工事もあれば、下水道や電気の恒例の工事もある。そうした工事の風景とジョギングや自転車の往来が重なる、なんとなく妙な画が現出する。タクシーの運転手さんとの会話の取っ掛かりは、こうしたジョギングの人や自転車のこと、工事のことなどになる。

そうした会話のなかで、記憶に残っているもののいくつかの見出しだけ列挙すると以下のような感じになる。見出しは勿論、私が勝手につけているので、内容は読む人が勝手に想像して頂きたい。

決死のバイク便
首都高 魔の代々木カーブ
油断大敵 連休中の閑散都心 県外ナンバーに要注意
連休は警察の稼ぎ時
無言で宇都宮 昼間なのに
昼の顔 ダンス教室主催 ヒップホップなの
どこまでも一般道で
調布で大破
認知症でもハンドルは放しません
縁石踏んで空中へ
最短記録 交差点横断
車載カメラが語る
元ホスト
元株屋

まだタクシーで働くようになってそれほど長くないという運転手さんが語っていたが、運転手になって驚いたのは、世の中にこれほど交通事故が多いのか、ということだったという。四六時中道路上にいれば嫌でも事故を目撃する機会は多くなる。それにしてもこれほど多いのかと思った、というのである。おそらくそれはその運転手さんだけの感想ではないようで、総じて交通事故のことは話題に上りやすい。

話をしていてこちらも気が引き締まるのは、運転手さんが日頃の心がけを語るときだ。「お客様に、乗ってよかった、と思っていただけるようにといつも考えているんですよ」とか「とにかく安全に目的へお乗せすることが使命です」とか、気負った風もなく、さらりと語られると、そこに社会のなかで暮らす人間が当然に持つべき気概のようなものを感じ、自分もしっかりとしなければならないと気持ちを新たにするのである。

東京の夜は、けっこう好きだ。

雲のうえ

2010年10月12日 | Weblog
北九州市の広報誌がすごい。先週末に橙灯に置かれていたのを見つけたのだが、表紙がいい。裏表紙は、ごくありふれた地元企業の全面広告なのだが、表紙の印象が強烈なのである。表紙なのに題字が無い。その代わり、使われている写真が半端ではないかっこ良さだ。これなら、心ある人はきっと手に取ること請け合いだ。

今、配布されているのは9月25日号で、写真は斎藤圭吾氏の撮影。橙灯にはバックナンバーが揃っていて、それらを見ると、毎号写真というわけではなく、絵の号と交代のようだ。絵も良い。発行は北九州市にぎわいづくり懇話会。毎回特集が組まれていて、9月25日号の特集は「夜のまち」。記事のほうは、どうということもないのだが、記事に使われている写真がまた言い。プロのカメラマンなのだから良くてあたりまえかもしれないが、それにしても良い画だ。風景は出かけていって実物を見たくなるように、人物は会って話を交わしたくなるように、食べ物は食べてみたくなるように写っている。

北九州というところには一度だけ仕事で訪れたことがある。ロームという会社の工場を拝見させて頂けるというので出かけて行ったのである。もう10数年前のことなので記憶は定かでないのだが、ロームの系列のアポロ電子という会社にもお邪魔させていただいた。この他、九州は熊本の東京エレクトロンの工場にお邪魔したことがあるくらいで、観光で訪れたことは一度も無いし、ましてや暮らしたことも無い。このブログの筆名は「熊本熊」だが、熊本には縁もゆかりもないのである。勿論、友人知人には九州出身の人も少なくないので、いろいろ話には聞いており、いつかゆっくりと出かけてみたいと思わないこともなかった。

しかし、今、こうして「雲のうえ」をぱらぱらとめくっていると、小倉の「epidemic」でクリームブリュレを食べてみたい、とか、「おもてなし北川」でおもてなしを受けてみたい、とか、八幡の「二鶴寿し」の寿司はどんな味がするのだろう、というように個別具体的な欲望が湧き起こるのである。残念ながら、それで即、仕事を休んで飛んでいく、というような身分ではないのだが、そういう感想を抱かせる広報誌というのはあまり無いのではないか。マスメディアの取り上げ方というのはわざとらしく、あんなのを観て出かけていくような奴と一緒にされるのは嫌だ、と、却って行きたくなくなる。よくある自治体の広報誌に出ているような店だと、生活臭がきつくて引いてしまったりすることもある。それが「雲のうえ」はちょっと違う。どう違うのか、やはり「雲のうえ」の実物をみてもらえればすぐにわかる。すぐにわからない人とは付き合いたくない。

北九州市のサイトに「雲のうえ」を紹介する画面がある。それによると4人いる制作スタッフのうち3人にマガジンハウス「Ku:nel」という雑誌での仕事歴がある。それは偶然かもしれないし、そのつながりでこの仕事をしているのかもしれないのだが、なんとなく「雲のうえ」のテイストの源が想像できたような気がする。以前付き合っていた人がこの雑誌を愛読していて、2冊ばかりもらったこともある。そういえば、もうすぐ彼女の誕生日だ。はがきでも出してみようか。返事があるとしても、はがきや手紙ではなくて携帯のメールだろうけれど。

運より縁と思いたい

2010年10月11日 | Weblog
日本民藝館で「河井寛次郎 生誕120年記念展」が開催されている。その関連企画に「河井寛次郎の器でお茶をのむ」というものがあり、今日はそれに参加してきた。この企画は10日から11日にかけて都合3回あり、各回定員10名ということで事前に往復はがきで申し込むことになっていた。あまり考えもなしに、単に自分の都合の良い時間で申し込み、それに対して返信があったので、応募者が少なくて抽選にはならなかったのだろうと思っていた。果たして今日出かけてみると、応募者が多くてたいへんな倍率だったと聞かされた。定員も2名増やして12名としたのも、少しでも応募者の希望をかなえたいとの配慮の表れだ。私は抽選に当たるという経験が殆ど無いので、これは運というより縁ではないかと感じた。

河井の茶碗に加えて濱田庄司が挽いて棟方志功が絵付をしたという茶碗も登場し、たくさんの茶碗を手にする機会に恵まれた。ひとつひとつ手作りなのだから当然なのだろうが、思いの外、ひとつひとつの茶碗に個性があることに驚いた。縁や高台の仕上げがそれぞれに違い、持った感触も当然に違うのである。装飾のほうは、茶碗だけでなく他の器にも共通するものがあり、ここ日本民藝館をはじめとして公の場所やメディアを通じて広く知られているので見る側に多少の先入観もあるため、なんとなく河井作品であることが感じられる。しかし、持った感触というものは持ってみないことにはわからない。河井ほどの作家ではなくとも、それなりの作品を手にする機会というのはそう度々あるものではないので、一度に10数個の同じ作家の作品を手にでき、しかもそのなかの2つでお茶まで頂くことができたのは、私にとってはたいへんな勉強だ。

おそらく、ひとつひとつの作品が違っているのは、それだけ作家がひとつひとつの作品に強い思いを持って向かい合っていたということでもあるのだろう。技巧的には、どの茶碗も茶が点て易そうというわけにはいかないように見えた。河井の故郷である島根県安来ではどこの家庭でも気軽に抹茶を点てるのだそうだ。その代わり煎茶はあまり飲まないのだという。抹茶が日常の風景のなかに溶け込んでいたからこそ、逆に茶碗の枝葉には囚われないということであるのかもしれない。枝葉末節ではない茶碗全体としての佇まいや存在感に、河井自身を投影しようとしたのだろう。

今回の会が催された部屋の床の間には河井の書が掲げられていた。

「茶ニテアレ 茶ニテナカレ」

配られた資料のなかにこの言葉の解説があった。
「茶事に心を入れる人は、とかく茶事に囚われの身となる。そんな不自由さに茶はないはずである。茶はどこまでも茶でありたいが、それは同時に茶であって、茶に終わらぬもの、茶に滞らぬものがなければならない。これを「茶にてあれ、茶にてなかれ」というのである。逆説のようであるが、茶であるのみなら、真の茶ではなくなる。単に茶でないなら、それもまた意味がない。茶であって、茶でないもの、茶でなくして茶であるものが、示されねばならない。ここが茶に厳しさのあるところである。有事の茶は二義の茶である。有事にして無事なるものがないと、究竟の茶にはならぬ。今の茶人の多くには「茶ニテナカレ」の厳しさがない。それ故、「茶ニテアレ」ということすら、十分守れないのである。今の茶など、大方は茶と呼ばれる資格をすら持たぬと思われてならぬ。」

もう何も申し述べることはない。

ジャーナリズムという商売

2010年10月10日 | Weblog
マスコミの尖閣デモスルーの件 2chで大盛り上がり(R25) - goo ニュース

渋谷で行われた尖閣列島問題に関する反中国デモが海外のメディアでは報道されたが日本のメディアでは取り扱われなかったそうだ。「そうだ」というのは、私はテレビも新聞もない生活をしているので、そういうことを知らなかったからだ。

結局は報道機関も企業である以上、その存立の基盤となる権力の承認なしには存在し得ないのは当然だ。偶然、この時期に中国では劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞したが、この件について中国のメディアは黙殺しているという。要するに、社会の枠組みのなかで活動をするということは、その社会の裏づけとなっている権威の承認を得ているということなのである。秩序というものは自然発生的に成立するものではない。人間はそこまで道徳的にはできていないし、毎度このブログで書いているように、人には我があり欲があるのだから、そうしたものを押さえ込んで社会という秩序を成立させるのは権威なのである。

一部にはジャーナリズムが正義の味方であるかのような幻想も依然としてあるようだが、報道機関の収益源はコンテンツの売上と広告収入だ。広告主の利益に反するようなコンテンツを流すことなどできないし、後々の企業活動に制約を受ける結果を招くようなコンテンツを流すこともできない。そういうことを承知の上で、報道を読み解くのが真っ当な市民の在り方ではないだろうか。

不景気だの少子化だのと騒がれている割には、日常の生活が安穏としているので、政治家は安心して政治家としての己の身分を守るというわかりやすい目的合理的な行動に走る余裕がある。政治家が社会への目を向けず、保身に汲々としているからこそ、首相がころころ交代しても政権党が交代しても、特にこれといった変化は起こらない。しかし、諸外国の眼には、政権が頻繁に交代するというのは背後に異変が生じているのではないかと見られるのも当然だろう。日本の権威に異変が起きているのではないか、と外から思われたからこそ、領土問題という池のなかに中国が尖閣列島という名の小石を投げ込んで波紋が広がる様子を観察したのではないか。その日中の様子を見て、ロシアも北方領土に然したる用もないのに大統領がはるばるやって来たのではないか。最近の円高も同じような文脈でとらえることができるのかもしれない。

国家とか企業のような不特定多数の集合体を律するのは権威だが、さらにそれらを取り巻く大きな社会の秩序は勢力均衡によってしか律しえないのだろう。映画などでは世界全体を支配する権力機構が登場したりするが、それはまだ空想の世界だ。それこそ映画のように、地球外の社会との交渉が始まるようになれば、オール地球でまとまらなければならないことになるのだろう。そのときになれば、地球全体を律する権威が生れるのかもしれない。

劉氏ノーベル平和賞受賞に祝福の声、徐々に拡大(産経新聞) - goo ニュース

震度5

2010年10月09日 | Weblog
茶道の稽古で点前を終えて仕舞で棗と茶杓を下げるとき、棗を持つ手が震えてしまい、棗の蓋がカタカタと鳴ってしまった。それを見ていた先生が一言。
「熊本さん、手が震度5」
可笑しくてますます鳴ってしまう。

今日は先生から24日の茶会の招待状を頂く。帰り際に一言。
「熊本さん、正客お願いね」
初めての茶会でいきなり正客である。誰だって動揺するだろう。心が震度5だ。
「しょ、正客ですかぁ」
「だいじょうぶよ。ちゃんと指示は出すから」
「はぁ」
「勉強になるから、やってみるといい」
震度5で済まない。

住処に戻り、久しぶりに茶道のDVDを観てみる。しばらくは、毎日観ないといけないだろう。

天下の回り物

2010年10月08日 | Weblog
貧乏なので銀行の窓口に出向かなければならない機会は殆ど無い。よく銀行のATMに行列ができている風景を目にするが、自分がその行列のなかにいる姿など想像もできない。自慢じゃないが、財布に1万円札が入っていることなど滅多に無い。金は天下の回り物、というらしいが、どこにでも回ってくるわけではないらしい。回る経路が決まっていて、その経路の近くにいる人のところにだけ回ってきて、私のように経路の遥か彼方に居る者のところには生涯回って来ないのものなのだだそうだ。

今日はどうしても窓口でしかできない振込があって、近所の銀行に出かけてきた。事前に振込用紙の記入は済ませていたので、それと現金だけで用は済むのかと思いきや、身分証明書の提示を求められた。成程、現金と振込用紙だけでは、送金人が誰であるのかわからない。用紙に記載されている住所氏名など、どのようにも書くことができる。同じ事情からATMで送金をする場合も現金での振り込みは10万円までだ。要するに原則として現金の移動は禁じられている、とも言える。政府としては世の中の金の流れを可能な限り把握しておきたいということなのだろう。

私のような貧乏人にとっては現金もカードも振込もたいした違いはないのだが、節約したくなるほど多額の税金を支払うような人にとっては、自分が使う金をいかに少なく見せるかということが可処分所得を減らさないために重要なことになる。そのためにはカードや振込といった資金の動きが明確になってしまう決済手段を避けて現金や現物で決済したほうが都合が良い。国税査察官の活躍を描いた「マルサの女」という映画があったが、ここで脱税に使われていたのは、いろいろ仕掛けがあっても端的には現金や小切手を隠すという方法だった。私もかつて事業再生業務に関わっていたときに脱税で捕まった人とお会いしたことがあったが、彼の場合もワンルームマンションに隠した現金が見つかってしまったのだそうだ。ついでに言うと、その事業再生業務をしていた勤務先の社長のことで東京国税局に調書を取られたことがある。その後、その社長の身に何が起きたかは知らないが、映画のように、地道に関係者の証言や証拠が収集されている様子を垣間見た思いがしたものだ。

現実は映画よりも巧妙な手口で税金を回避している人たちがいるのだろうが、過度に監視や規制を強くすると経済活動を阻害することになるような気もする。水清くして魚棲まず、とも言う。税金として国家に納めても、それが全て意味のある用途に使われるわけではないだろう。不正の横行を許せとは言わないが、組織や社会はある程度は清濁併せ呑むくらいでないと、円滑に機能しないものなのではないだろうか。10万円単位の金の動きに神経を尖らせるよりも、経済活動を促進して所得を増加させた上で、その増加した所得に課税するというのが真っ当な政策だ。国家としての基本戦略を考えることなしに、枝葉末節ばかりをいじくることに注力しているから肝心のことに手が回らずに政権が終わってしまうということを、ここ数年繰り返しているような気がしてならない。

ノーベル賞

2010年10月07日 | Weblog
ノーベル賞というものがどういうものか、実は理解していないのだが、世間が大騒ぎするのでたいしたものであることは確かなのだろう。今回は日本人が2人受賞し、イギリスの母校からも2人の受賞者があった。自分には全く関係のないことなのに、微かな共通点があるというだけで、嬉しく感じられるのは不思議なことだ。

まだ日本の経済力が強く、欧米から盛んにバッシングを受けていたころ、何故日本人のノーベル賞受賞者が少ないのかということが話題に上っていた。しかし、バブル崩壊後の日本人受賞者を見ると以下のようになる。

1994年 文学賞 大江健三郎 東京大学文学部卒
2000年 化学賞 白川英樹 東京工業大学理工学部卒、工学博士(東京工業大学)
2001年 化学賞 野依良治 京都大学工学部卒、工学博士(京都大学)
2002年 化学賞 田中耕一 東北大学工学部卒、東北大学名誉博士
2002年 物理学賞 小柴昌俊 東京大学理学部卒、ロチェスター大学大学博士課程修了(Ph.D.)、理学博士(東京大学)
2008年 物理学賞 小林誠 名古屋大学理学部卒、理学博士(名古屋大学)
2008年 物理学賞 益川敏英 名古屋大学理学部卒、理学博士(名古屋大学)
2008年 化学賞 下村脩 長崎医科大学附属薬学専門部卒、理学博士(名古屋大学)
2008年 物理学賞 南部陽一郎 東京帝国大学理学部卒、理学博士(東京大学)
2010年 化学賞 鈴木章 北海道大学理学部卒、理学博士(北海道大学)
2010年 化学賞 根岸英一 東京大学工学部卒、ペンシルバニア大学博士課程修了(Ph.D.)

ちなみにバブル崩壊前の受賞状況は以下の通り。

1949年 物理学賞 湯川秀樹 京都帝国大学理学部卒、理学博士(大阪帝国大学)
1965年 物理学賞 朝永振一郎 京都帝国大学理学部卒、理学博士(東京帝国大学)
1973年 物理学賞 江崎玲於奈 東京帝国大学理学部卒、理学博士(東京大学)
1981年 化学賞 福井謙一 京都帝国大学工学部卒、工学博士(京都大学)
1987年 生理学・医学賞 利根川進 京都大学理学部卒、カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程修了(Ph.D.)
1968年 文学賞 川端康成 東京帝国大学文学部卒
1974年 平和賞 佐藤栄作 東京帝国大学法学部卒

自然科学分野でノーベル賞の対象となるのは基礎科学領域なので、研究の成果が公表されてから、それが評価を受けるまでにどうしても時間がかかる。また、研究成果が英文で発表されていないとそもそも認知されないという事情もあるし、研究者や過去の受賞者による推薦も必要なので、そうした人的ネットワークの構築で日本人が後手に回っていたという事情もあるだろう。しかし、そうした状況はやはり変化しているようだ。受賞者の多くが海外を活動拠点にしており、南部先生のように日本国籍を放棄して米国人として受賞される方もおられる。不景気だの失われた何年だのといったところで、十分底上げされた経済力を背景に、国境を越えて活動する日本人が増えれば、それだけこうした大きな賞を日本人が手にする機会も増えるということだろう。

人口が減少に転じ、経済力もいよいよ翳りが強くなってきたとは言いながら、かつてに比べれば国家という枠組みは柔軟になっている。身の回りの品々を見ても、好むと好まざるとにかかわらず、純粋に日本だけで作られたものは皆無に近いのではないか。形のない知識や情報といったものは尚更のこと、国境など関係なく人々の間を往来するものだろう。そうしたなかで、国家とか国民の在り様というものも時々刻々と変化しているはずだ。それぞれの地域の文化は、そこで暮らす人の基本的人権にかかわるものでもあるので、尊重しなければ無用な軋轢を生むことになるだろうが、一方で個人の生活が世界と直接つながってるというのも現実だろう。つまり、日本が少子化という状況に陥ったり、景気が恒常的に悪かったりというのは、国家という枠組みが今よりも強固であった時代に比べれば、然して深刻な問題ではなくなっているのではないだろうか。日本とか日本人が抱える問題というのは、日本人にとってさえ、世界という社会のなかの「ローカルニュース」といった感覚のものに過ぎなくなっているのではないだろうか。今の時代の生活者にとって、日本人とは何者だろうか。日本とは何だろうか。何故、私は日本人がノーベル賞を受賞すると嬉しいと感じるのだろうか。やはり、私は時代の変化から取り残されているということなのだろうか。

ビルマそーめん

2010年10月06日 | Weblog
このところ木工の後は自炊で昼食を済ませることが続いていたが、今日は久しぶりにcha ba naに寄ってビルマそーめんを頂いた。以前にも書いたようにカレー南蛮の素麺版のようなものなのだが、スープのカレーは魚介系の出汁をベースにしたダル(インド料理の豆のスープ)のようで、見た目はカレーのようでも味はカレーとはちょっと違ったものになっている。薬味にパクチーが添えられていて、それだけで東南アジア風に感じられる麺料理である。私はこれが気に入っていて、この店のランチ4択(他に時期限定でカレーライスがある)のなかでは売り切れでない限り、このビルマそーめんを頂くことにしている。

メニューの説明に「ビルマの家庭料理」と書いてあるので、素麺のような麺がビルマにもあるということなのだろう。私は普段は麺類を食べることはない。別に嫌いというわけではなく、選択肢のなかの優先順位が低いというだけのことだ。印象として、行列のできるラーメン店とか、通ぶった奴が行く老舗蕎麦屋のようなものが麺料理と密接に結びついているので、料理そのものではなく、行列や自称食通といったものに嫌悪を覚える所為かもしれない。

cha ba naのランチはすべて麺で、ビルマそーめん以外はトムヤムクン・ヌードルだったりカレー・ラーメンだったり、私には辛くて食べられそうにないものなので、ビルマそーめんかフォーの二者択一となる。フォーが嫌いなわけではないが、この店ならではの料理はビルマそーめんなので、結局毎回同じものを頂く。

この店以外で好きな麺料理屋としては、刀削麺の店がある。勤務先が霞ヶ関だった頃に同業他社の知り合いから刀削麺荘赤坂店を紹介してもらったのが、たぶん最初だ。以来、気をつけて街を歩くと、けっこうあちこちにある。やはり霞ヶ関時代に同じチェーンの新橋店に行ったとき、偶然にもその正しい食べ方を知った。

刀削麺は形状が不規則なので、無造作にズルズルとすすると麺が激しく振れてスープが飛び散る。それで、私の知る限りはどの店でも紙のエプロンを用意してくれる。それでも間に合わない人もいるらしい。少し遅めのランチで新橋店を訪れたとき、店員2人が空いたテーブルを片付けていた。片方が日本人でもう片方は中国人らしい。その会話から食べ方を学習させて頂いた。
「今のお客さんすごかったね」
「ね」
「これさ、中国でもこんなに激しく食べるの?」
「ううん」
「本当はどうやって食べるの?」
「これを使うの」
と言って、蓮華を持った。少しずつ蓮華に受けて、そこから口の中に流し込むようにして頂くのだそうだ。さっそくそのようにして食べてみると、スープが飛び散るというようなことはない。食べるのにエプロンをつけなければならないようなものなど、普通に考えれば無いだろう。エプロンが出てくるということに、何か疑問を持つのが健全な知性と感性だ。

蕎麦は威勢よく食べているのを見ると旨そうだが、他の麺類を同じように食べると悲惨な感じを受ける。どういう意味で悲惨なのか、敢えて書かないが、イタリアンのパスタを蕎麦のように食べる奴を見ると不快を通り越して滑稽だ。食事の様子というのは、氏素性以前に人格のようなものまで現れるので、気をつけたいものである。一緒に食事をして、食い方が汚い奴だと、それだけで距離を置くことにしている。

もちろん、ビルマそーめんも蕎麦とは違う。箸とスプーンが一緒に出てくるのだから、それを見て、どのように食べるのか容易に想像がつくだろう。

危険人物

2010年10月05日 | Weblog
先日、仁川国際空港で或る日本人が入国を拒否されたというニュースを見つけた。高円寺でリサイクルショップを経営している人だそうだが、検索してみると面白そうなことをしているようだ。早速、その人、松本哉の著作を一冊買い求めて読んでみた。

「貧乏人の逆襲!タダで生きる方法」を読んだのだが、書名から受ける印象とは違って、単なる実用書ではない。もちろん「方法」と謳っているので、形式的にはハウツーなのだが、その背後にある社会に対する洞察に注目するべきだろう。「貧乏人」だの「タダ」だのというタイトルの文字や、帯にある「格差社会への反乱」というような、最近よくあるキワモノ的な浅薄なものではないからこそ、筑摩書房というフツーの出版社が扱っているのである。

抱腹絶倒的記述に溢れていて、通勤途上の電車内で笑いを垂れ流しながら一気に読んでしまった。しかし、本書の肝心な部分はデモの起こし方でもなければ節約術でもない。人と人とが真っ当につながって生きることの快適さを語っているのである。コミュニケーションの基本は対面である。人は意識するとしないとにかかわらず、五感を総動員した上に、それこそ全身全霊で自分を取り巻くものを認識しようとしている。他者と関係を生ずるとき、相手を認識する際に外見や言葉といった記号的要素や言語化表現が可能な要素は勿論重要な判断材料だが、「なんとなく」相手から受ける「感じ」というものが大きな部分を占めているものだと思う。その「なんとなく」を抜きに、人は他人を信じることなどできないのではないだろうか。その「なんとなく」を得るのに、例えば鍋を囲むとか、コタツに入ってどうでもいい会話で盛り上がるといったようなことが有効なのだと思う。

本書の中で繰り返し指摘されているように、社会の仕組みというのはその時々に有力な勢力に都合の良いように作られている。明示的に指摘はされていないが、ひとたび仕組みが出来上がれば、社会はそれを無闇に守ろうとするものである。例えば、日本は小泉首相の後、1年交代で首相が変わり、昨年は政権も交代したが、それで社会が変るということはない。それは、政治にリーダーシップが無いとか、政治の力が弱いとかいうような表層の問題ではなく、確立された社会が持つ本来的な安定性によるところが大きいのではないだろうか。それならばなおさらのこと、たいした根拠の無い世間の「常識」などに付き合う義理はなく、公序良俗を犯さない範囲で好き勝手をしたほうが楽しいはずだ。人は関係性の存在なので、「楽しい」と実感するには他者とつながることが必要不可欠になる。そのかかわりかたとして、物理的に対面するのに勝る方法は無い。

携帯端末やパソコンでネットにつながっていても、それは単に情報の断片が往来しているだけであって、その断片自体に実体は無い。断片を総合することで幻想なり仮想実体を作り上げ、それが他者に評価されることで価値を生むのである。その総合化や幻想喚起には、ある程度の技術や権威付けが必要なので、そのために資本が関わってくる。資本が関わった瞬間に、「情報」とかそれにまつわる幻想は市場原理に組み込まれることになる。人が集まるイベントでも、入場料を支払うという経済行為が参加の条件になっているのならば、それは経済活動であり、消費行動であり、その場で体感する興奮を購買しているに過ぎない。

しかし、社会秩序を守る立場から見れば、市場原理ほどありがたいものはない。貨幣価値で世の中のありとあらゆるものを表現するのだから、なによりもわかりやすく、人を納得させやすい。その貨幣の裏づけは、社会の権威に対する信用以外の何物でもない。その権威の強さも貨幣価値で表示される。つまり貨幣という幻想で市場社会は完結するのである。

とすると、社会の安寧に対する最大の脅威は幻想が幻想であると認識されてしまうことだ。王様が裸であるということを認識してしまうことなのである。本書の著者である松本氏がこれまでに行ってきた貧乏人運動は「貧乏」という既存の市場原理のなかで否定されなければならない状況に積極的な価値を置くものだ。本人がどこまで意識しているか知らないが、それはとりもなおさず市場原理を基礎とする既存の社会に対する脅威になるのである。だからこそ、警察の取り締まりの対象にもなるし、外国が彼の入国を拒否することにもなる。

テロ行為をするという意味での危険人物は、単に猛獣のような危険でしかないので、そいつを抹殺してしまえば済むことだ。しかし、本当に怖いのは本当のことをばらしてしまう人である。社会を支える幻想が雪崩を打って崩壊することは、私のような下々にとっては愉快なことになるかもしれないが、権力を握っている側にとっては危険極まりないということだろう。

あのころと今と

2010年10月04日 | Weblog
先日Base Ball BearのDVDを買ったという話を書いたが、あれから毎日のように観ているというか聴いている。武道館ライブのほうは今年の1月3日に行われたもので、メンバーは24とか25歳なわけで、自分の子供であるとしてもおかしくない年齢だ。自分がそのころ何をしていただろうかと思い起こしてみたりするのだが、社会人になって数年しか経ていなくて、ほんとうに頼りない青年だったように思う。それでも当時は所謂「バブル」華やかなりし頃で、頼りない青年でもそうした時流に少しは乗ることができた恵まれた時代だった。

自分のことはともかく、彼らの楽曲を聴くたびによく出来ているなと感心する。音楽のほうは私にはわからないのだが、歌詞が同音異義語を巧みに使って韻を上手に踏んだ言葉遊びのようになっていて粋だと思う。このバンドの楽曲は詞も曲もボーカル/ギターの小出祐介が作っているのだが、彼の通っていた小学校では児童に俳句を作らせるのを日課にしていたそうだ。もちろん、俳句を毎日作ることで誰でも創作ができるようになるわけではないのだが、俳句を作るために意識をして自分の身の回りを見るという訓練は、創作能力の開発や向上と無関係ではないはずだ。そうした意識的に何事かに取り組むということが、持って生れた感性を刺激するのだろう。

ところで今日、自分が卒業した大学へ行って卒業証明書と成績証明書を取ってきたのだが、成績証明書を眺めていて、当時から現在に至るまで、自分の思考の習慣というか偏りのようなものに気がついた。今頃気が付くのではなく、在学中に気付いて、その偏りを修正するなり伸ばすなりしていればもっとマシな人生があったのだろうが、それは今から振り返るから言えることであって、学生という過保護な身分しか経験していない自分にはどうしようもなかった。実際に社会に出て様々な経験を積んだ上で、少しずつ自分なりの生活を作っていくよりほかにどうしょうもない。毎日が暗中模索であり、毎日が試行錯誤だ。こう書くと頼りなげだが、それが健全な姿だろう。頼りない青年は頼りないオヤジになったわけだが、頼りなさの中身は少しは違っていると思いたい。

こどものにわ

2010年10月03日 | Weblog
6月に留学先の日本人会で会った人から「こどものにわ」の招待券を頂いていて、今日がその最終日だったので東京都現代美術館へ観にでかけてきた。この美術館は週末でもそれほど混んだりしないのだが、今日は異様に来館者が多く、閉館1時間前の午後5時だというのに長蛇の列ができていた。列の最後尾には看板を持った職員が立っている。看板には「ここからの待ち時間60分」とある。「こどものにわ」というのはそんなにスゴイ企画展だったのかと、平日に足を運んでおかなかったことを後悔した。しかし、よくよく列の行方を見ると、その先頭は「借りぐらしのアリエッティx種田陽平展」の入口に向かっていた。「こどものにわ」は、普段の週末のような感じだった。

自分の子供の小さい頃はジブリ作品は一通りビデオやDVDで観たような気がする。一部の作品は字幕翻訳の学校に通っていた頃に日本語表現の授業でも使われていた記憶がある。そんなわけで「千と千尋」などは何度も観ている。何度も観たのはこの作品が好きだからではなく、翻訳学校の課題の材料のひとつに選ばれていたからだ。

子供がアニメを卒業し、私が翻訳学校を終えてしまうと、ジブリ作品とも疎遠になってしまった。結局は「千と千尋」が私にとっては今のところ最後に観たジブリ作品ということになる。私はジブリ作品がそれほど好きではない。特に宮崎が監督をしているものは説教臭くて嫌だ。唯一、気に入っているのは「耳をすませば」だが、これは近藤喜文が監督をしている。近藤の監督作品が続いていれば、私とジブリ作品との縁も続いていたかもしれないが、彼は現在の私の年齢で大動脈乖離のために亡くなってしまった。「耳をすませば」は彼の唯一の監督作品ということになってしまったのである。

さて、「こどものにわ」だが、小規模ながらも楽しい企画展だ。入口からすぐの大巻伸嗣と出口手前の遠藤幹子による遊びの空間、それに出口のところの貼り紙のコーナーは時間を刻むことをテーマにしている。携帯電話やインターネットの普及で、我々はゲームの中で生起するような秒単位での皮相な変化に眼を奪われるようになってしまったように思う。しかも同時に、そうした変化はリセット可能なものとしても認識されているような気がしてならない。そうした風潮に対して物言いをしているかのように、ここに展示されている作品は後戻りできない変化をわかりやすく表現している。床に顔料で着色した砂で絵を描き、それが人々の通行によって日に日に消えていく。今日は最終日なので、床には絵の断片すら残っていない。微かに残る色粉が、言われてみれば絵の痕跡なのだと知って、そこに取り返しのつかない時間を知るのである。子供には、おそらく時間の重みというものは実感できないだろう。長い年月を生き、酸いも辛いも経験して人は人になるような気がする。出口直前の落書きや出口直後の貼り紙は、逆にまっさらの壁面に来観客がチョークで落書きをしたり色紙を貼ることで、時間の累積が表現される。ひとつひとつの落書きや貼り紙には意味がないが、それらが重なってみれば、全体としては模様のようになる。落書きのほうなら、あるいは意味を持った文言が出来上がることもあるだろう。このような作品を観ると、ひとつひとつの行為はその場では意味を持たなくても、他の行為と重ね合わせたり繋がったりすることで新たな価値を生む可能性があるということを示唆しているようにも見える。さらに言うなら、人が生きる世界において無駄な時間というものは一秒たりともないのだ、と解釈することだってできるだろう。また、床や壁面が自分の行為によって変化することで、自分自身もその変化から何事かを感じるという行為の双方向性を感じるかもしれない。もちろん、子供は落書きや色紙がべたべた貼ってある壁を見て、そんなことは思わない、たぶん。でも、時間が経てば物事は変わってしまうものなのだということを体感することは、おそらく彼や彼女たちが成長したときに、きっと健全な認識の基礎の一部くらいにはなっていることだろう。

ところで、閉館1時間前で入場までに60分待ちという場合、列の後半にいる人たちはどうなるのだろうか。美術館側が多少融通を利かせて、「アリエッティ」のコーナーだけ閉館を遅らせるのだろうか。「アリエッティ」も今日が最終日なので、入場できなかった人は日を改めてというわけいにはいかない。展覧会の性質上、待っている客の半分程度は子供たちだ。並んでいる側にとっても、美術館側にとっても、たいへんなことである。

たこ焼きライブ

2010年10月02日 | Weblog
たこ焼きのライブステージを観た、というわけではない。8月に下北沢でライブを観たとき、帰りにライブ会場(shimokitazawa GARDEN)近くの「銀だこ」でたこ焼きを食べた。今日は三三の独演会があり、開演前に腹ごしらえで練馬駅構内にある「銀だこ」で、やはりたこ焼きを食べた。ライブの時にたこ焼きというのが傾向として定着するのかな、と思ったのである。別に「銀だこ」のたこ焼きが好きというわけではない。なぜか、時間をかけずに加熱調理をしたものが食べたいというときに、そこにあった、ということが続いたというだけのことだ。それでも、たこ焼きとかお好み焼きは好きだ。

初めて大阪に行ったのは社会人になってからのことだった。出張で出かけたのだが、当時はまだ大阪出張が泊りがけで許される時代だった。その後、経費管理がうるさく言われる時代になってしまい、国内出張はよほどのことでない限り日帰りとなってしまった。その大阪出張で、お好み焼きを食べにひとりでふらりと街へ出た。たまたま通りかかった「お好み焼き」の看板のある店に入ると、大きな鉄板のあるカウンターがあった。ひとりだったので、そのカウンター席に通された。たいして考えもせずに「野菜サラダ」と「野菜焼き」というのを注文した。何の疑いもなく「野菜焼き」は野菜だけのお好み焼きだと思っていた。目の前の鉄板に油が布かれ、そこに野菜が盛られ、シャカシャカと焼かれている。ところが、いつまでたってもそこに粉が加えられることはなく、やがて野菜を焼いただけのものが私の前に差し出された。結局、その夜は生の野菜と焼いた野菜だけの夕食となった。大阪に泊りがけで出かけたのは、後にも先にもこのときだけである。いつか食べてみたい。大阪のお好み焼き。

さて、三三の独演会だが、今日はマクラが長かった。JRの運賃とか路線の接続の話題だったのだが、納得しがたい事態に続けて遭遇したらしく、語り口が熱かった。接続問題については伊東と名古屋の往復についてだ。伊東の旅館で2夜連続公演があり、その2夜の間に扶桑文化会館での公演があったのだそうだ。扶桑から伊東への経路は念入りにNavitimeで下調べをしていたのだそうだが、生憎、当日に信号機故障の影響でダイヤが乱れ、乗るつもりでいたJR在来線の列車が運休したという。やむなく熱海から伊東までタクシーを利用することになってしまったが、運休に関連してタクシーを利用したのだから、熱海=伊東の料金の払い戻しは受けられないものか、と駅員に交渉を挑んだが取り付く島が無かったという話だった。次が伊豆長岡での仕事の後、大船で仕事があり、その後に東京へ戻ることになっていたときのこと。伊豆長岡=大船の乗車券のうち、三島=大船間はJRで、その後の東京へ戻るのだから、乗車券を三島=東京に変更して差額を支払ったほうが、大船で改めて東京までの乗車券を買うよりも少し安くなるのではないかと考えて、列車内で変更手続きをしたら、思惑に反して割高になったという。どういうことかというと、東京=三島間の運賃は2,210円なのだが、東京=大船間は780円、大船=三島間は1,280円で分割して購入すれば2,060円なのである。もちろん、このような切符の買い方は自動販売機ではできないので、有人の出札口で購入しなければならない。当然このような現象は東京=三島に限ったことではなく、東京=大船間でも横浜で分割すれば東京=横浜が450円で横浜=大船が290円で合計740円となり、通しで買うよりも40円安くなる。このことは私も今日初めて知った。通しのほうが安い、という先入観を持っている人は少なくないように思うのだが、実は分割したほうが安いというのは、確かに大発見のように感じられる。節約できたり余計に払ったりする金額の大小はともかく、身近な先入観が崩れる経験というのは、やはり語りたいものである。

それにしても、三三は見る度に師匠に似てくる。そして聴く度に上手くなっているように感じる。小三治は弟子に稽古をつけるということはしないそうだが、とすれば、似るというのはどういうわけなのだろう。

演目
柳家右太楼 猫の皿
柳家三三  鮑のし
(中入り)
柳家三三  笠碁

開演:19時30分
閉演:21時40分

会場:練馬文化センター 小ホール