熊本熊的日常

日常生活についての雑記

あるところにはある

2010年10月01日 | Weblog
日本橋三越で開催中の日本伝統工芸展を観てきた。私の陶芸の先生の作品が展示されているので、それを拝見するのが主たる目的だ。といっても、最初からこの展覧会を観るつもりで住処を出たわけではなかった。6月の留学先の同窓会で会った人にいただいた「こどものにわ」の招待券がまだ手許にあるので、それを観に行くつもりだった。ところが半蔵門線の大手町のホームで偶然に工芸展の看板を目にして、先生の作品も展示されていることを思い出し、予定を変更したのである。この展覧会は今回が57回目だが、観るのはこれが初めてだ。予想以上に展示作品が多く、少し驚いた。本展のチラシによれば入選作730余点に加え人間国宝の最新作もある国内最大規模の公募展だそうだ。

展示は陶芸、漆芸、木竹工、金工、染織、人形、諸工芸の7部門から構成されているが、展示会場の3分の1ほどが陶芸で、日本の伝統工芸において陶芸の占める大きさを象徴しているかのようだ。尤も、これは手がけやすさのバロメーターでもあるだろう。陶芸は趣味でもできるが、漆芸となるとそうはいかないだろう。

展示作品だが、陶芸に関して言えば、一部の茶道具類を除いては一様に大きい。骨組みなど無しに粘土だけで大きなものを作るには、形が保持できる程度の均整がとれていなければならない。まず、そうした均整のとれた形状を作ることに技能が要求され、その上で意図したものであれ窯変などの偶然の産物であれ、意匠があり、全体の佇まいがあり、というような具合ではないだろうか。今回の入選作の中で唯一、掌で包み込んでしまえるほどの大きさのものがあった。それは急須だ。勿論、ただの急須ではなく、CGで描いたような球体を組み合わせた緊張感溢れる形をしている。理屈ではなく、直感的な完成度の高さを体現している急須だ。これほどのものでないと、他の大きな作品に肩を並べることができないということなのだろう。

例えば大皿にしても鉢にしても、土で作ることによる形状の制約があり、手法も釉薬も焼成も細かいところでは独創もあるだろうが大方は確立されたものである。それでも、ひとつひとつの作品に個性が出るのは、作り手が時々刻々と変化しているということを示していると思う。日常使いの陶器を製作する陶工は同じ大きさで同じ形状のものを量産し、また量産することそれ自体が技能でもある。陶芸家と陶工の違いは、自分というものの表現形の違いではないだろうか。それを出すか、出さないことを出すか、ということだと思う。

ものを作るとき、そのものは作り手と社会との媒体だ。媒体の位置付けによって、自分と社会との関係性を表現することだ。ものを作る、というとき、まず問われるのは、何故作るのかということ、その上でどのように作るのかということ、だろう。それはどこまで作るのか、ということでもある。陶芸に限ったことではないだろうが、作品を制作するときに、どこまで技巧を凝らすかということに際限はない。制作のために投下できる時間と資源の許す限り、どこまでも手を入れることはできるはずだ。しかし、手の込んだものが必ずしも人の心を動かすわけではない。自分と自分が対峙する対象との距離感、対象の向こう側にあるものとの距離感というようなものが、媒体を位置付けるのではないか。媒体に作り手の色が付き過ぎていていると、観る側からはあざとく感じられるだろうし、色が弱いと周囲の雑音に埋没してしまう。このあたりの適正さというものには正解がない。人が本来的に無定形で、その在り様は関係性というこれまた不定形のもののなかでどのようにも変化するからだ。人というものが本来的に無定形であるからこそ、その表現は無限の広がりを持つということだろう。