参議院選挙の立会人として
朝6時半まで会場へ
すっかり準備ができたところで
これから12時間の立ち合いです
これが開かれる頃を
ドキドキしながら立候補者は
待っているのでしょう
そんな中、角館高校の野球部は
今日も勝ちました
明後日決勝戦です
悲願の甲子園出場を
町を挙げての願いです
そして、あの由緒ある校歌を
甲子園に響かせてほしいです
角高創設の第一の恩人である平福百穂は、一九二六(大正十五)年五月に迫った県立角館中学校(角高の前身)校舎落成式に向けて、尊敬するアララギ派の同志である赤彦・茂吉に校歌の作詞を依頼した。赤彦がじかに風土に接して詞の構想を練る必要上、前年(大正十四年)の晩秋に百穂は郷里に赤彦を招き、田沢湖と角館を案内した(茂吉は他用で来秋していない)。田沢湖の湖水の清澄さと映える紅葉の美しさに赤彦は驚嘆し、鳥海山の雄姿、角館の歴史的町並みに接し、作詞のためのメモを熱心に執った。
しかし、郷里の信州(長野)に戻って作詞に取りかかった矢先、赤彦は末期ガンに冒されていると宣告される。余命いくばくもないと悟った赤彦は、命あるうちに完成しなければと、病床に伏しながらも作詞を進める。やせこけて、全身に黄疸が拡がるという、激しい病苦のうちにも、詞のことだけは忘れなかったという。百穂が故郷でついに県立中学校創立にこぎつけた情熱に応えるためにも、赤彦は作詞を続け、「七分どおりできている。あとは、詞に少年らしい元気なところを加えたい」段階まで達する。責任感や歌人としての誇り、百穂への友情など様々な思いが彼を突き動かしたのだろうが、まさに命を削っての作詞であったに違いない。赤彦はついに力尽き、詞は未完成のまま、落成式二ヶ月前にこの世を去る。
赤彦から詞の増補とまとめ役を託された茂吉は、同志の中村憲吉、岡麓に添削・修整を任せるなど、アララギ派の総力を結集し、ついに詞を補完する。百穂は、すでに音楽界の重鎮となっていた本県東由利出身の小松耕輔に作曲を依頼し、校歌は落成式直前に誕生するのである。
(校歌、並びに解説は角館高等学校のホームページから拝借しました)