『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

自家製アズキアイス

2021-09-09 06:59:00 | アート
オフ日のきのう。

車がまたもや
オイル漏れで、
ゲージが空になったので
「クルマの主治医」の処へ
補充に出かけた。

この4月に
充填剤を添加して
様子を見たのだが、
それも奏効せず、
ピストンの底のリングが硬化して
オイルが燃焼している
という事だった。

エンジンをバラシて
オーバーホールするか、
別のエンジンに交換するのが
根治療法だと説明されたが、
それだと十数万かかるというので、
対症療法として
オイルを缶買いして
毎月、自分で補充するという
手間の方のオプションを選択した。

それだと、
最も粘性のあるオイルが
20ℓ缶で1万くらいだという。

4ケ月で1.5ℓほど減るので、
一缶で1年はもつ計算である。

オイルを入れるのは、
ウォッシャー液を入れるのと
同じ作業なので、
素人でも出来る。



 



郊外に出たついでに、
山際にオープンした
カフェを思い出して、
赴いてみた。

12時を過ぎていたが、
席が空いてたので
ラッキーと思ったのだが、
オネエサンに席にエスコートされ
座った途端に、
強面の主人が厨房から
顔をのぞかせて
「予約が入ってるので
クルマで待っててください」
といきなり告げられた。

「はっ?
 どういうこと?」
と尋ねると
「予約が入ってるんで…」
としか言わない。

大方の察しはついたが、
「じゃ、ダメってことッ?!」
と、やや気色ばんで問うも、
ウンともスンとも言わない。

そしたら、
食事を終えたらしき
老夫婦が
「私ら、今、出ますから…」
と気を利かせてくれた。

そんでも、
この店主、
ウンでもスーでもなく
何のフォローも
「すみません」
もないので、
埒が明かず、
憤然として店を出た。

談志家元が、
なぜ外食しないか尋ねられ、
「俺より頭悪い奴が作るのが
 ウマイわけねぇ」
と応えたのに、
ゴーマンチックでも
凄いなぁ…と、
思った事があるが、
まさにその真意がよく解った。



十年以上つづけていた
グルメサイトを
今年閉鎖したが、
市内の全ての飲食店を訪ねたが、
ダメな店ばっかりで、
「ダメだ、ここは…」
と思った処は
案外に早く潰れている。

中には
例外もあって、
なんで、こんな店、
まだ続いてんだろう…という、
のもなくはないが…。

自分に仇をした
ヒドイ店の前を通ると
「コルタ・ポーズ」
(影絵の狐の指型/呪いのサイン)
を送って「潰れろ」と念ずるが、
【人を呪わば穴二つ】で、
やっぱ、そういう呪詛は
自分に返って来て
体調不良の遠因になるやもしれないので
控えなきゃと自戒している(笑)。






中っ腹で
家路を目指す途中、
田圃に降り立ったシラサギが
雨に濡れそぼり
怪しいほどに美しかった。

スマホの最大ズームで撮ったら、
いいあんばいにボケていて、
そのまま額装したら
一枚の絵になった(笑)。






夕飯の買い物をして、
遅めの昼食にしたが、
ランチで使う予定だった
1.500円分で買い物が出来、
しかも牛ランプが安価だったので、
"ぼっちフレンチ"に仕立てた。

あほカフェで
1500円もする
あほカレーを喰うより
300円ほどで、よほど上等で
遥かに美味な
ステーキ・ランチになった。

『やまや』に寄ったら、
『ゲランドの塩』があったので、
初めて購入してみた。

グルマン益博氏が
推奨している
「世界最高の海塩」だそうだが、
日頃、常用している
「博多の塩」と
大して変わりはしない。







何故だか太平寺の
『ヨーク』でのみ見かける
自家炊き「あんこパック」が
懐かしい昭和味がするので、
見つけると買ってくる。

きのうは、
割り箸にキリタンポのように巻いて、
アイス・キャンディーにしてみた。






*********





『魂理学試論』9


「ナビの論理」



「主体・客体」という言葉があるが、ここでは「主体」というのを「自意識」とし、「客体」というのを自分以外の全ての「対象物」であると定義しよう。

「何も始まらない 何も終わらない」という「変化の過程」が全く経験できない世界は、時空を有さない「無」の世界に等しくもあるが、仮に時空が在っても、「客体」とする他者や対象物がない世界もまた「自己完結」の世界で「無」に等しいものではないだろうか。

「一にして全 全にして一」というので、宇宙にある意識が、仮に「ただ一つ」だけ純粋に存在だけしており、何の対象物も無いと仮定してみると、これまた定常・恒常の状態が無限に続くだけで、「無」の世界に等しいものである。

「諸行無常」も「パンタレイ(万物は流転する)」も【変化】が宇宙の本質である、と説いている。



 解剖学者の養老 猛司先生は、「自分とはナビにある赤い三角形の目印である」と言い、そのものだけでは意味をなさず、周囲の対象物があって、はじめて「有意味性」を持つと説明した。
 なるほど、その通りで、明快至極である。

 物質はじめ、生命体も、時間とともに、様々な多様な物に分化・変化・進化してきたのは、この「主体」―「客体」の関係を「単体性」から「多体性」にする為のように思われる。
  
 そもそも、生命の起源で、単細胞生物から多細胞生物に進化したのも、アメーバからヒトにまで進化したのも、また、元素周期表のように、「水平リーベ」と元素が分化したのも、「単体」では変化の起こしようがないからなのだろう。

 化学変化を見るとよく解かるが、水素と酸素から「水」ができ、CHOから「ご飯」ができる(笑)。



「既に在る現象」と「既に在る自意識」は、どちらが先かを考えてみると、この現象界に限っては、宇宙が誕生した138億年前には、まだ生命体は一つもなかったわけで、そこには今在るような自意識は存在していなかった。

 その後、物質が多様化し、地球ができて、生命体が発生し、自意識を持つヒトが誕生した。
 宇宙誕生から138億年して、はじめて、対象・客体について問う存在・意識が生まれたわけである。

 原始生命体も、外界(環境)を感知する性質は持っていた。
 しかし、「自意識」というものは、ヒトのような脳構造に進化して得られる認知能力だろう。
 それは、大脳皮質の最も外側に薄く発達した「新皮質」によるものと考えられるので、最もヒトに近いチンパンジーでも実験で『心の理論』(サリーとアンの課題)を持たないと証明されているので、「自分が死ぬ存在である」などの自意識は持てていないと推察できる。



 世界を「認識できる/認識する」機能である「自意識」が最初から無くても、宇宙創成期には、淡々と物質が進化を続けた。

 そして、物質どうしが干渉しあって、そこに、自己複製をする物質、すなわち生物の原型が現れた。

 その境目は、未だに解明されていないが、ウイルスが最もその元型に近い。

 生命とは「active maintenance of normal and specific structure」と定義される。
「正常で特異的構造の積極的維持」をするものを生命体という。

 最近のAIの進化で、もし、プログラム・ソフト自体が自らのエラーを常に修復し、自らバックアップ(コピー)を増やしていく、という性質を持てば、
それはもはや「生命」の定義に当てはまるのである。

 現に、プログラムでそのような性質をもつ「疑似細胞もどき」の動画を見たが、ヴァーチャルの世界では「人口生命体」は完成しているのである。

 SFの天才・星 新一の作品には、ここに世界中の「神」の概念をディープラーニングさせたら、世界中で様々な「祟り」や「バチ当たり」が始まった、という噺があった(笑)。



 生物の痕跡がない古地層を調べると原始大気の組成が解かり、実験室でそれと同じ組成にスパーク(雷)を当てると、アミノ酸が出来る。
 ハロルド・ユーレイ&スタンレー・ミラーの実験は高校の生物でも習う。

 その出来上がったアミノ酸が結合してタンパク質にまでは自然界で縮合(濃縮・合成)できるが、そこにどのような仕組みでRNAのような塩基を持つものが取り込まれたのかは解明されていない。

 最先端の生物学でも、コロナ・ワクチンのようにゲノム解析して遺伝子を創る事はできるが、それを人工タンパク質に組み込んで「自己複製」する細胞化にはまだできない。

 おそらくは、複数のブラックボックスが介在しており、量子コンピュータを用いても解明できないかもしれない。
 それこそ、「宇宙の秘儀」「神秘」なのである。



 レトロ・ウイルスのような原子生命体は、外界と内界を隔てる隔壁(膜構造)を持つ閉じた代謝システムを有するに至った。
 この閉じた世界を持つ、というのも「物」としての生き物の特徴なのである。

 また、電子や光子というエネルギーとして振る舞うものも、波と粒という捕まえられる性質があるので、「閉じた系」を持っていると考えられる。

 唯一そうでないのは宇宙開闢(かいびゃく)以前の「原存在」だけかもしれない。

 生命の単位「細胞」は、まだ、核を持たない原核細胞(単細胞生物)から核を持つ真核細胞(多細胞生物)へと進化した。

 熱力学の「エントロピー増大の法則」(一定のものが乱雑化する)というのが、宇宙の大原則であるが、物質の合成や生命現象のような、それに反するものも宇宙は蔵している。

 ヒトを構成する全細胞も半年ほどで、全部入れ替わるというのは、エントロピーを減少させる為だという。
 新陳代謝をすることにより、ランダム化(死)に抗っているのだが、やがては「エントロピーの法則」に回帰していく。

 もっとも、それにより、個体が死することで、種としての保存に役立っているという点では、エントロピー減少に役立っている。
 
「実体として生きる」ということは、たえず垢が出るように、古いものが死に新しいものに入れ代わる、ということである。

 

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