土曜のきのう。
夜からは
自宅カウンセリングの予約が
入っていたので、
日中のみがオフだった。
ここの処、
プチ・マイブームになってる
街中の“昭和食堂”通いをすべく、
開店時間の10時を目指し、
ブランチにしようと
出かけてみた。
毎回、いくたびに
駐車料金が200円かかるが、
1時間の街中散歩もできるので
よしとしている。
土曜の朝10時とはいえ、
駅前は閑散として、
先月の京都・大阪での
雑踏を思い返し、
つくづく田舎だなぁ・・・と、
実感した(笑)。
でも、人がいない・・・って、
寂しいけれども
ストレスがなくっていい。
車の往来がないのも
いいなぁ・・・(笑)。
やはり、
都会はたまに行くのがよく、
普段は田舎暮らしが
性に合っている。
*
駅前通りは、
偶然にも『ハルフェス』なる
イベントをやっていたが、
それとて、ささやかな規模で
歩いて3分ほどの区間であった。
手作りマーケットみたいな
いつもの雰囲気で、
たいして目の魅かれるものも
なかった。
*
なので、
10時ちょうどに
『大政食堂』についた。
かつ丼・ワンタンメン・・・と、
やってきたので、
この日は、
炒飯&餃子の
“ひとり味見会”である(笑)。
さすがに、
この時間帯は
他客はひとりもおらず、
ジモティの
「タンギー爺さん」の姿も
見られなかった(笑)。
*
餃子はすぐにできてきた。
ちょいと羽のはえた
こじゃれた見てくれで、
きつね色は上々の出来である。
まずは、そのまんま、
ポイと一口でやってみる。
まずまずの味。
ただ、皮は既製品の
薄っぺらなので
これの旨味はない。
その分、
羽がショリっといって、
クリスピー感を醸し出していた。
いかにも、
昭和の食堂餃子、
町中華の餃子である。
8ケ400円は適価かな・・・。
二人前の16ケにすると、
「円盤」になるようだが、
市内の全円盤を制覇した
エンバニストとしては
この餃子では食指が動かなかった。
*
卓上には
「す」とラベルされた瓶や
「タレ」のボトル、
厚紙で巻かれた「ラー油」がある。
*
8ケ平らげた処に、
タイミングよく炒飯が登場。
スープの味噌汁用の木椀は
ご愛敬である。
棚倉の『一竜』の炒飯を
これまでのベスト1としているが、
それを凌ぐものに当たりたいと
方々の食堂・町中華・ラーメン屋で
トライしているのだが、
未だにその邂逅をみない。
はたして、大政は如何に・・・。
一口目。
「おっ!! ンマイっ!!」
(これは、いけそう!)
と、プラスチックのレンゲで
ワッシワッシとやると、
ガリッと塩粒を噛み、
アララ・・・となった。
🥲
これはダメでありんす・・・。
その後も、二度、三度、
塩粒を噛んだ。
岩塩かもしれない
ずいぶんと大粒の
塩を使ってるのか・・・。
一口目の味が良かっただけに、
これは、大いにガッカリだった。
もっと粒子の細かいのを
使えばいいのに・・・と、
恨めしくさえ思った。
*
「昭和」つながりで、
ブランチ後には、
二本松の『ゆうぷら』に向かった。
歩いて2分の処にあった
『万SAI堂』が転居して
店名も変更されたが、
古本コミックが沢山ある。
「昭和レトロ」コーナーには
昔懐かしい作品群が、
廉価からプレミア価格まである。
きのうは
残念ながら
目的の「ちばてつや」の作品がなく、
仕方なく、大型本コーナーから
これまで買ってきた作者の
未収集ものを4冊ばかり購入した。
ついでに、
拡張された駄菓子コーナーで、
歓声をあげる幼児たちに交じって(笑)、
いくつかオトナ買いをしてきた。
*
帰路、旧国道沿いの
切り通しの斜面に
山吹の黄色が早緑に映えていた
帰宅後は、
オナカもくちくなって、
ベッドで漫画を読んでるうちに
寝落ちしてしまった(笑)。
なんとも、太平楽な
爺様の半日である(笑)。
・・・気が付いたら、
明日から、新年度の
学校勤務が始まる。
してみりゃ、今日が
この春休みの
最後の日である。
京都行きの旅もあり、
孫や教え子・元同僚との
懐かしい再会もあり、
長いようで短かった
人生59回目の
スプリング・ロンバケだった(笑)。
*** 『魂理学』試論ノート8 ***
ブログにメモ的に
アイディアを記して、
それをワードにコピペしてから、
体系的に整理しているが、
なんだか、昨晩は途中で
アタマが混乱してしまい、
ギブアップしてしまった。
文系・理系の既成知識を
メタ研究的に統括して、
「大統一理論」みたいな
『魂理学』なるアヤシイ
ポップ・スピリチュアルを
描こうとしているが、
これがなかなかシンドイ(笑)。
でも、落としどころは、
自分で納得でき、
自分が安心立命となれる
「自分の神話」になれば
それで十分である。
独善的な宗教家じゃないので、
ひと様を折伏させることなぞ、
さらさら関心がない。
観測も計算もしない
アタマのなかでの妄想的な
思考実験なので、
あらゆるケースでの仮説を立ててみて、
もともと確定しようがないので、
どれがいちばん自分的にシックリくるか、
「そうであってほしいか・・・」
という処を見出したいのである。
*
「元は一つ」
という仮説は、
なんか寂しいなぁ・・・
という感情を伴う。
つまり、
「自意識」を持つ「原存在」が、
一つしかなく、それでは、
退屈、寂しいので、
不完全な自分の分身を作り、
それを多様化させた、
というケース。
突き詰めると、
この宇宙には
元々、「ひとり」しかいない、
とすると、あまりにも寂しい。
その寂しさは、
自分以外の人類が滅亡して、
人間並みの姿と応答をする
AIを相手にしているような
感じかもしれない。
*
「明晰夢」というのは、
夢の中で、これは夢である、
と自覚できるものだが、
たいがいの夢は、
それが夢とは気づかずに
荒唐無稽な体験をしたりする。
この宇宙・世界も、
現実と思い込んでいるものは
「夢の中の現実」と同じく、
実は、大元の「原存在」という
夢見手の幻の体験なのかもしれない。
この現実とは、
そういうものである・・・と、
気付くことが
明晰夢として夢の中で
振舞うことに相当する事なのだろうか・・・。
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