きのうは
ソーちゃんが
新竜王となって初めての
『順位戦』だった。
棋界の最高位に付き、
四冠となるも、
一年に1クラスずつしか昇級できない
順位戦のシステムでは、
彼はまだ最高クラスのA級には
達しておらず、その一つ下の
B級1組というのに在籍している。
これは、A級のトップが
『名人』位に挑戦できるという、
最低でも5年はかかる
登山にも似た行程なのである。
天才の彼をしても、
C級1組の年度には
9勝1敗という成績でも
上に上がることができずに
一年「現級留置」となった。
きのうの対戦は、
松尾八段で、
序盤が夕休(ゆうきゅう)前まで続く
という異常な長さだったが、
終盤は相手が自ら
「お粗末だった…」
と感想戦で述べたように
あっけない幕切れで
89手目での投了となった。
棋界では年長者の先輩ではあっても、
十代にして九段で四冠の天才の前には
歯が立たなかったという印象だった。
そりゃそーだ。
先日まで、棋界№1と言われていた
トヨピーをして
ソーちゃんとの十九番勝負を通じて
「自分は並の棋士だと思わされた…」
と述懐させたくらいなのであるから…。
これから
鍋物の時季になるが、
ここのところ、
前夜に余った
旨味たっぷりの汁を
翌日、フードプロセッサーで
ポタージュにする工夫を覚えた。
特に、出汁昆布は
棄てずに柔らかいまま
撹拌すると、フコダイン成分で
適当な粘土が生じて
そのトロミがなかなかに佳い。
魚介と野菜の旨味が十分に出ているので、
丁寧に仕上げるなら
ミキシングしたあとに
いちど濾して、
新たに温めてから
そこへバターと生クリームを入れると
リッチなフレンチ・スープに仕上がる。
最近、「16h空腹療法」とともに
「医食同源」生活にも取り組んでるので、
食事の後に「すりごま」と「黒糖」を
リキュール・グラス半分くらい分
捕っている。
どちらも百均で買える
健康食品である。
20代の頃、京都在住だったが、
結婚披露として福島で開催した
デュオ・リサイタルで弾いた
ラモーのクラヴサン組曲からの
『ソローニュの馬鹿』を
チェンバロで練習している。
ギターやリュート、ピアノでは
表現し得ないオリジナルの響きが
自分の手によって奏でられる喜びを
しみじみと味わっている。
日曜から見始めた
三度目の『冬ソナ』を
四日かけて、やっと、
今朝見終わった。
案の定、
最終回のラストシーンでは
またボロ泣きしてしまった(笑)。
ヒ~ン 。・゚゚'(/o\)'゚゚・。
今日、なかなかに
泣けるドラマや映画がないだけに、
自分にとっては
貴重な作品である。
なので、
まだ、感動が持続している間に、
十年前に書いた
『私的・続編』を掘り起こして
自分用に製本化しようと思っている。
なにせ、
楽天サイトに100日間も連載したので、
膨大な量があり、
それも、古い縦書きソフトを使った為、
ワードに変換できず、
また、一から打ち直す必要がある。
それを考えただけでも
相当な手間だが、
自分の50代の貴重な時間を使って
創り上げたファンタジーなので、
フラッシュメモリー内のデジタルデータを
"紙化"して視覚化したいと思った。
公開当時は、
連ドラ風に「一日一話」を
画像とBGMをつけて連載し、
作家と映画監督になったような気分で
創作に没頭した。
当時、スピンオフ企画で、
『冬ソナ深層分析』をも
ブログに載せていたので、
検索して拾ってみた。
*********
*********
『冬のソナタ』〜 母-娘結合
2004年に日本を席捲したこの人気ドラマの深層心理を分析してみたいと思う。
まず、ドラマの筋について簡単にふれておこう。
ユジンは高3の女の子で、ある日、転校生のチュンサンと偶然にバスで乗り合わせる。
ユジンの周囲には、幼馴染で彼女に恋心を抱いているサンヒョク、将来同居することになる親友の女友達チンスク、そしていずれその夫となるヨングク、美貌を鼻にかけ早々にチュンサンに振られるチェリンがいる。
ユジンはやがてチュンサンと恋に落ち、二人はほんのひと時、薔薇色の甘さを味わう。
しかし、チュンサンはユジンの亡き父が自分の亡き父と同一人物であると誤解し、ショックを受ける。
そして、ユジンのもとを離れようとする日に事故に遭う。
物語は、そこから10年後に飛び、
ユジンは建築家として活躍しながら幼馴染のサンヒョクと婚約する。
結納の日に、ユジンは死んだはずのチュンサンと瓜二つのミニョンという人物を偶然、街で見かけ茫然自失する。
その後、建築家のミニョンは、チュンサンとは別人ということで一緒に仕事をするが、やがてそのミニョンがかつて事故で記憶を失ったチュンサンその人であることがわかる。
やがてチュンサンは2度目の事故に遭って記憶を取り戻すが、母親のミヒから、「あなたの父親はユジンのお父さんだ」と偽りの言葉を告げられて、再度、ユジンと別れることになる。
最後には、チュンサンがサンヒョクの父とミヒの間にできた子どもだったことがわかるが、ユジンはアメリカに発ったチュンサンを追わずに、フランス留学へと旅立つ。
3年後、帰国したユジンは、かつて自分のプランニングした家が専門誌に掲載されているのを見て、それがチュンサンの仕事であることを直感し、現地に赴く。
そして、事故の後遺症で盲目の身となったチュンサンと運命的な再会を果たし、ふたりは結ばれて物語は終わる。
************
ヒロインのユジンは、父親のいない母子家庭の少女ということで、
母-娘結合(母性原理、女性原理)の優位性が物語の初めに示唆される。
また、妹を含めて「男っ気」のない「女家族」であることも、これからユジンの男性性、父性性獲得が、彼女の発達課題になるであろうことが想像される。
ユジンの父のように、病気で死別した場合、しかも生前、少女時代に父との「よきふれあい」を経験できた子は、まだ救われる。
というのも、我われのもとには、
父と生別した母子家庭の少女で、非社会的、反社会的問題で訪れる子が多いからである。
その父親というのが、アルコール依存症や、DV(家庭内暴力)、ギャンブル依存症、浮気性、ワーカホリックなどのなんらかの病理性を持っている場合、そこに育ってきた女の子は、どうしてもネガティブ・ファーザー・コンプレックスに陥るものである。
極端なケースでは、援助交際に走るタイプの子は皆そうである、と言っても過言ではない。
仮に、父親が物理的に実在していても心理的には不在にひとしい場合にも、似た現象は生じる。
端的に言うと、この子たちは「肌さみしさ」から「永遠の父親探し」に走るのである。
それは超理想化された父性像であり、神に等しく人格化された父親像なので、現実の人の世界には存在するべくもなく、したがって、彼女たちは大勢の〞普通の男性〞に抱かれても尚寂しさを癒されず、不全感を抱き続けるのである。
*********
ユジンは、少ない期間といえども父親とある程度接した経験があるだけに、極端な「白馬の王子様探し」にはならない、とは想像がつくものの、基本的には、そのような心理状態に彩られていると理解した方がいい。
そして、彼女の成育過程で、多分に欠如していたであろう父性性、男性性をどう獲得して、自我に統合していくか、というのが物語の主眼になるのである。
『冬のソナタ』〜 男性性の侵入
母-娘結合(母性原理、女性原理)の世界で育ってきたユジンの前に、転校生のチュンサンが現れる。
ユジンより先に、鼻っ柱の強い美人のチェリンが自分にとっての「白馬の王子様」と直感してチュンサンにアタックするが、てんで相手にされない。
体育のバレーボールで見せるチュンサンのラフプレーに魅せられて
チェリンの言うセリフに「やっぱり、男は力よ」というのがある。
これなぞは、女性が内なる劣等機能としての異性性である「力のアニムス」に魅せられている姿を現している。
アニムスとは女性の中にある男性性のことである。
なぜ、劣等機能なのかというと、
女性は表面で「女性らしく」生きることに優位性を置いており、自然と本来的に内在している男性性を磨くチャンスがなくなるからである、とユングは言う。
さらにユングは、アニムスを4つに分類して、「力」のアニムス、「行為」のアニムス、「言葉」のアニムス、「意味」のアニムスとしている。
男性の心に潜在する劣等機能としの異性性をアニマと呼ぶが、アニムスはその男性形である。
アニマは本来、「たましい」や「息」「風」を現わすラテン語である。
チェリンは〞数学オリンピック・チャンピオン〞としてのチュンサンに対しても、そのロジカル性やロゴス的な側面に「言葉のアニムス」を見出して魅かれているようである。
************
『冬のソナタ』~出会いの「時」
物語の幕開きは、ユジンが遅刻しそうな場面から始まる。
ユジンは遅刻の常習犯である。
たんに「寝坊助」である、といえば可愛気があるが、時間にルーズである、キチッとしていない、と捉えると、父性性の欠如した母子家庭の
甘さが露見しているとも見える。
遅刻以外では優等生らしく、放送部活動なども責任感を持って務めているが・・・。
ここで「時」というテーマがさりげなく提示されている。
「時間」には、物理的な「時間」を現わすクロノスと、心理的な「時」を現わすカイロスがある。
カイロスとは、その「時」がきた、とか「時」が熟した、という性質の時間である。
同じ1時間という物理的時間(クロノス)でも、好きな人とい「時」は短く感じるが、嫌いな人といる「時」は長く感じる。
時間にはこのような心理的な「時」の一面がある。
**************
さて、ユジンにとって重要な「時」とはなんであろうか。
十代という年齢からいって、少女から大人の女性になる、ということがまず思い浮かぶ。
どうアイデンティティを確立していくか、というのが一般的課題である。
将来の進路に悩んだり、恋に「時めく」ということもあろう。
また、発達課題として、母性的家族で育ってきたので、男性性、父性性の「補償的取り込み」が必要になる「時」だろう、と前述した。
そして、人格の発達のためには何らかの「死と再生」の通過儀式が起きてくるだろう、という予測がされる。
**************
そこへ、転校生のチュンサンが現れる。
最初の出会いはバス停である。
これを「二人の男女がバスに乗り合わせる」という夢として解釈したら、どうだろう。
夢における、男女という異質なものの組み合わせは、無意識下での「新たな可能性の統合」を象徴する。
バスというのは社会的な乗物である。
つまり、この二人は、これから
お互いを「自分にないもの」を取り込む対象として、社会生活のなかで運命共同体となるだろうことが、示されているのである。
バスのシーンで、二人が破れたシートを自分たちが身に付けていたばん創膏で繕う、というのがある。
これなぞは、「心の中の欠損したものを繕う」という二人にとって共同作業の第一歩のメタファーとして見ると面白い。
☆☆☆
(・(エ)・)
『冬のソナタ』~「母殺し」の過程
現代においても、韓国には儒教的精神が日本より根強く残っている。
チェ・ジウが小泉総理と握手するときにさりげなく左手で目上の人に対する敬意のポーズをとったことでもわかろう。
この時代にあっても、韓国では、
日本の親子関係よりも、それが濃く、上下関係が明確であることがドラマからも伝わってくる。
特に、独りっ子のサンヒョクとチュンサンは母親に楯突けない「イイ子」であったことが伺える。
これは深層心理学的には、母親の否定的な側面である「呑み込む母」の姿を如実に現わしている。
カウンセリングの場面では、こういう「イイ子」たちがしばしば不適応を起こして、不登校や非行などになりやすい。
このネガティブ・グレートマザー(否定的な太母)から、どう自立するか、というのが二人の発達課題であることが一目でわかる。
この母親たちは我が子を愛するがゆえに、無意識下では、その子を自分から奪ってしまう女性の出現に怯え、その相手を亡きものにしたいと願うのである。
ズバリ言えば、「子離れ」が出来ない母なのである。
息子たちは、母に愛されているがゆえに、その葛藤で苦しむことになる。
このような状況で、一般的には、無意識下での「母親殺し」の心理が働き、「英雄」元型のコンステレーション(付置)が生じてくる。
それはどういうことか、というと、世界に偏在する「英雄の物語」を見るとわかる。
日本昔話の『桃太郎』や『一寸法師』などでは鬼退治がなされた後に、宝物の獲得やお姫様との結婚がなされる。
これと似たモチーフは古今東西にある。
アニメの『シュレック』もそうであるが、ドラゴン退治をして姫と結ばれる。
分析心理学者のユングは、この世界中にあるモチーフから「英雄」的行為とその結果、という一連のプロセスを鑑みて、人の心には「英雄」元型がある、と考えた。
元型というのは、誰もが持っている「心の遺伝子」のようなものである。
ちなみに「グレートマザー」というのもひとつの元型である。
*************
古今東西の昔話や神話に「ドラゴン退治」のテーマが多いのはなぜか、といえば、そこに古今東西に関係なく共通の「人間の心のドラマ」が投影されているからだ、とユングは考えた。
その最も卑近な例が、母親が子どもの個性を認めずに、我が物のように振舞う様を、「ドラゴン」に捕われた姫(子どもの心)として物語や神話では表現しているのである。
このドラゴンや鬼を退治することが自分が「個性的に生きる」唯一の活路である、と子どもたちは先験的に知っている。「英雄」元型という心の遺伝子を持っているからである。
そこで、子どもたちは「母親殺し」に立ち上がるのである。
これは本来、心のなかで象徴的に行なわれるべきイニシエーション(通過儀礼)なのであるが、今日では、実際の場面でアクティング・アウト(行動化)してしまい、殺人事件として「母親殺し」が起こる悲劇が増えている。
***********
この物語では、サンヒョクがまず、ユジンを侮辱した母に対して、
反抗の狼煙をあげる。
母親は、自分にとって都合のよかった「イイ子」のサンヒョクが変わってしまったので(実は成長しているのである)ユジンを憎らしく思う。
これは、後に、ミヒがユジンをチュンサンから遠ざけようとした心理でもある。
グレートマザーの力が強大な時、
英雄は逆にドラゴンに食い殺されて、子どもは永遠に「自立」できなくなる。
事実、サンヒョクは後に、ユジンに捨てられて瀕死状態になって入院し、またグレートマザーの膝元に引き寄せられてしまう。
このあたりに、彼の自我強度の
脆弱性を見ることができる。
(嫉妬に狂って、ユジンに無理チューをしてレイプ紛いの狂態を演じた時も、彼の自我の弱さを感じたが・・・)
☆☆☆
(・(エ)・)
『冬のソナタ』~2度の事故
グレートマザーの元型に同一化した母は、子どもを無意識下で呑み込み、その個性を殺す働きをする。
チュンサンが母ミヒと同乗するタクシーから飛び降りて、ユジンのもとへ駆けていった時に、事故は起きる。
それは、グレートマザー・コンステレーションによって起きたとも、心理屋には見える。
コンステレーションとは心理学で
「付置」と訳されているが、本来は、「星座」の意味である。
この場合、ユジンが自分と兄妹である、と思い込んだことも、ある意味、宿命的状況に「呑み込まれた」と考えることができる。
つまり、チュンサンの周囲には「呑み込む」母的な「場の力」が働いていたのだ。
それが、グレートマザー・コンステレーションである。
事故によって、チュンサンは記憶を失い、結果としてユジンのもとから完全に引き離されることになった。
しかも、ミヒの考えで、ミニョンという新たな人格をマインド・コントロールで注入さる。
母親は、我が膝元から「自立」して離れようと意志した息子を、無意識下の支配で、再度、我がままになる「イイ子」に仕立てたのである。
母ミヒが希有な才能を持つピアニストであることを考えると、ある意味で、シャーマニックともいえる、
尋常じゃないグレートマザー・コンステレーション状況にチュンサンは置かれていたと言えよう。
この強力さゆえに、「死と再生」の通過儀礼である事故に2度も逢わねばならなかったのだ、とも解釈できる。
このようなことは、我々の臨床でも時折、体験することがある。
☆☆☆
(・(エ)・)
『冬のソナタ』~ソナタと恋歌
『冬のソナタ』は邦題で、韓国での原題は『冬恋歌』である。
恋歌は、Love Songのことだが、ソナタとは、音楽用語で、「奏鳴曲」ともいう。
宮崎 駿監督によれば、『~の~』というタイトルは必ずヒットするという。
『風の谷のナウシカ』
『天空の城ラピュタ』
『となりのトトロ』
『紅の豚』
『千と千尋の神隠し』
『ハウルの動く城』
例外は、『もののけ姫』だが、「これも「の」の字が、2字入る・・・」と宮崎監督は言う。
カタカナを含んだ『~の~』というタイトルは「舶来モノ好き」日本人の耳をくすぐるのかもしれない。
それと『ふゆソナ』と詰めて4文字になると、これもまた日本人好みの語感になるのだろう。
最近の若者は何でも4文字につめて
「メリクリ」
「あけおめ」
などと、新造語を遊び感覚で使いまわしている。
**************
『冬のソナタ』とは、上手い邦題を
つけたものだが、ソナタについて
若干、薀蓄を垂れてみたい。
ネットの音楽辞典を検索してみると、イタリア語で、ソナータとは、
元々カンタータ(声楽曲)に対する
「器楽曲」の意味である。
「器楽による歌」といってもいい。
その語源は、イタリア語の「ソナーレ(鳴る、響き)」からきており、日本語では「奏鳴曲」と訳された。
ソナタは、今日では器楽のための独奏や重奏の曲をさし、3~4楽章からなる。
3楽章の場合は、急・緩・急という速さの変化があるのが一般的である。
さらに、詳しく見ると、第1楽章は、ソナタ形式、第2楽章は、リート形式(2部形式や3部形式など)、第3楽章は、メヌエットやスケルツォなど、第4楽章は、ソナタ形式という独特の形をなす。
ここでいう、ソナタ形式とは古典派音楽独特の曲形式で、中学や高校の音楽の時間にもテストなどに出て、かすかに言葉を覚えている向きもあろうかと思う。
ソナタ形式の構成は、ざっとこうだ。
呈示部→序奏(第一主題/第二主題)→小結尾
展開部(第一主題/第二主題)
→再現部(第一主題/第二主題)
終結部
この構成に、『冬のソナタ』を当てはめてみるのも面白いかもしれない。
第1・2話の高校生篇が「提示部」で、「序奏」の第一主題が、ユジンとチュンサンの葛藤、第二主題が、ユジンとサンヒョクの葛藤。
チュンサンの事故死で「小結尾」を向かえる。
「展開部」は、物語が10年後から始まる。
第一主題は、ユジン-ミニョン-チェリンの三角関係。
第二主題が、ユジン-チュンサン-サンヒョクの三角関係。
展開部から再現部に移る時に、チュンサンの2度目の事故があり、「再現部」の第一主題は、ユジン-チュンサンの新たな関係。
第二主題が、ユジン-チュンサンの別れ。
「終結部」は、フランス帰りのユジンと盲目となったチュンサンが再会し結ばれて、終わる。
************
『冬ソナ』を見ていて思うのは、BGMもさることながら、クラシック音楽を上手く作品構成に生かしている。
脚本家の造詣が深いのか、監督の思いなのか。
サンヒョクはFMのクラシック番組担当で、カン・ミヒはクラシックのピアニストだ。
心理描写に使うBGMも、ベートーヴェンのピアノソナタ『テンペスト(嵐)』であったり、バーバーの『アダージョ』であったり、選曲が堂に入っている。
音楽担当イ・イムのセンスのよさが伺える。
彼の手によるオリジナルもいい。
それゆえ、物語がソナタ形式の構成にスッポリ当てはまっても、すこしも違和感を感じさせない。
また、ややもすると、大の大人から少女漫画チックだとか、筋がご都合主義だ、という批判も仄聞するが、あえて弁護するならば、仮にそのような稚拙な物語でも音楽が支えている力によって、鑑賞に値する作品になっているということだ。
それは、モーツァルトの『魔笛』がメチャクチャにストーリーなのに
偉大な音楽によって一級の芸術作品と賞賛されるのに似ている。
『冬のソナタ』は現代版テレビ・オペラといってもいいかもしれない。
とすると、韓国での原題『冬恋歌』は正しいのだろう。
ソーちゃんが
新竜王となって初めての
『順位戦』だった。
棋界の最高位に付き、
四冠となるも、
一年に1クラスずつしか昇級できない
順位戦のシステムでは、
彼はまだ最高クラスのA級には
達しておらず、その一つ下の
B級1組というのに在籍している。
これは、A級のトップが
『名人』位に挑戦できるという、
最低でも5年はかかる
登山にも似た行程なのである。
天才の彼をしても、
C級1組の年度には
9勝1敗という成績でも
上に上がることができずに
一年「現級留置」となった。
きのうの対戦は、
松尾八段で、
序盤が夕休(ゆうきゅう)前まで続く
という異常な長さだったが、
終盤は相手が自ら
「お粗末だった…」
と感想戦で述べたように
あっけない幕切れで
89手目での投了となった。
棋界では年長者の先輩ではあっても、
十代にして九段で四冠の天才の前には
歯が立たなかったという印象だった。
そりゃそーだ。
先日まで、棋界№1と言われていた
トヨピーをして
ソーちゃんとの十九番勝負を通じて
「自分は並の棋士だと思わされた…」
と述懐させたくらいなのであるから…。
これから
鍋物の時季になるが、
ここのところ、
前夜に余った
旨味たっぷりの汁を
翌日、フードプロセッサーで
ポタージュにする工夫を覚えた。
特に、出汁昆布は
棄てずに柔らかいまま
撹拌すると、フコダイン成分で
適当な粘土が生じて
そのトロミがなかなかに佳い。
魚介と野菜の旨味が十分に出ているので、
丁寧に仕上げるなら
ミキシングしたあとに
いちど濾して、
新たに温めてから
そこへバターと生クリームを入れると
リッチなフレンチ・スープに仕上がる。
最近、「16h空腹療法」とともに
「医食同源」生活にも取り組んでるので、
食事の後に「すりごま」と「黒糖」を
リキュール・グラス半分くらい分
捕っている。
どちらも百均で買える
健康食品である。
20代の頃、京都在住だったが、
結婚披露として福島で開催した
デュオ・リサイタルで弾いた
ラモーのクラヴサン組曲からの
『ソローニュの馬鹿』を
チェンバロで練習している。
ギターやリュート、ピアノでは
表現し得ないオリジナルの響きが
自分の手によって奏でられる喜びを
しみじみと味わっている。
日曜から見始めた
三度目の『冬ソナ』を
四日かけて、やっと、
今朝見終わった。
案の定、
最終回のラストシーンでは
またボロ泣きしてしまった(笑)。
ヒ~ン 。・゚゚'(/o\)'゚゚・。
今日、なかなかに
泣けるドラマや映画がないだけに、
自分にとっては
貴重な作品である。
なので、
まだ、感動が持続している間に、
十年前に書いた
『私的・続編』を掘り起こして
自分用に製本化しようと思っている。
なにせ、
楽天サイトに100日間も連載したので、
膨大な量があり、
それも、古い縦書きソフトを使った為、
ワードに変換できず、
また、一から打ち直す必要がある。
それを考えただけでも
相当な手間だが、
自分の50代の貴重な時間を使って
創り上げたファンタジーなので、
フラッシュメモリー内のデジタルデータを
"紙化"して視覚化したいと思った。
公開当時は、
連ドラ風に「一日一話」を
画像とBGMをつけて連載し、
作家と映画監督になったような気分で
創作に没頭した。
当時、スピンオフ企画で、
『冬ソナ深層分析』をも
ブログに載せていたので、
検索して拾ってみた。
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『冬のソナタ』〜 母-娘結合
2004年に日本を席捲したこの人気ドラマの深層心理を分析してみたいと思う。
まず、ドラマの筋について簡単にふれておこう。
ユジンは高3の女の子で、ある日、転校生のチュンサンと偶然にバスで乗り合わせる。
ユジンの周囲には、幼馴染で彼女に恋心を抱いているサンヒョク、将来同居することになる親友の女友達チンスク、そしていずれその夫となるヨングク、美貌を鼻にかけ早々にチュンサンに振られるチェリンがいる。
ユジンはやがてチュンサンと恋に落ち、二人はほんのひと時、薔薇色の甘さを味わう。
しかし、チュンサンはユジンの亡き父が自分の亡き父と同一人物であると誤解し、ショックを受ける。
そして、ユジンのもとを離れようとする日に事故に遭う。
物語は、そこから10年後に飛び、
ユジンは建築家として活躍しながら幼馴染のサンヒョクと婚約する。
結納の日に、ユジンは死んだはずのチュンサンと瓜二つのミニョンという人物を偶然、街で見かけ茫然自失する。
その後、建築家のミニョンは、チュンサンとは別人ということで一緒に仕事をするが、やがてそのミニョンがかつて事故で記憶を失ったチュンサンその人であることがわかる。
やがてチュンサンは2度目の事故に遭って記憶を取り戻すが、母親のミヒから、「あなたの父親はユジンのお父さんだ」と偽りの言葉を告げられて、再度、ユジンと別れることになる。
最後には、チュンサンがサンヒョクの父とミヒの間にできた子どもだったことがわかるが、ユジンはアメリカに発ったチュンサンを追わずに、フランス留学へと旅立つ。
3年後、帰国したユジンは、かつて自分のプランニングした家が専門誌に掲載されているのを見て、それがチュンサンの仕事であることを直感し、現地に赴く。
そして、事故の後遺症で盲目の身となったチュンサンと運命的な再会を果たし、ふたりは結ばれて物語は終わる。
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ヒロインのユジンは、父親のいない母子家庭の少女ということで、
母-娘結合(母性原理、女性原理)の優位性が物語の初めに示唆される。
また、妹を含めて「男っ気」のない「女家族」であることも、これからユジンの男性性、父性性獲得が、彼女の発達課題になるであろうことが想像される。
ユジンの父のように、病気で死別した場合、しかも生前、少女時代に父との「よきふれあい」を経験できた子は、まだ救われる。
というのも、我われのもとには、
父と生別した母子家庭の少女で、非社会的、反社会的問題で訪れる子が多いからである。
その父親というのが、アルコール依存症や、DV(家庭内暴力)、ギャンブル依存症、浮気性、ワーカホリックなどのなんらかの病理性を持っている場合、そこに育ってきた女の子は、どうしてもネガティブ・ファーザー・コンプレックスに陥るものである。
極端なケースでは、援助交際に走るタイプの子は皆そうである、と言っても過言ではない。
仮に、父親が物理的に実在していても心理的には不在にひとしい場合にも、似た現象は生じる。
端的に言うと、この子たちは「肌さみしさ」から「永遠の父親探し」に走るのである。
それは超理想化された父性像であり、神に等しく人格化された父親像なので、現実の人の世界には存在するべくもなく、したがって、彼女たちは大勢の〞普通の男性〞に抱かれても尚寂しさを癒されず、不全感を抱き続けるのである。
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ユジンは、少ない期間といえども父親とある程度接した経験があるだけに、極端な「白馬の王子様探し」にはならない、とは想像がつくものの、基本的には、そのような心理状態に彩られていると理解した方がいい。
そして、彼女の成育過程で、多分に欠如していたであろう父性性、男性性をどう獲得して、自我に統合していくか、というのが物語の主眼になるのである。
『冬のソナタ』〜 男性性の侵入
母-娘結合(母性原理、女性原理)の世界で育ってきたユジンの前に、転校生のチュンサンが現れる。
ユジンより先に、鼻っ柱の強い美人のチェリンが自分にとっての「白馬の王子様」と直感してチュンサンにアタックするが、てんで相手にされない。
体育のバレーボールで見せるチュンサンのラフプレーに魅せられて
チェリンの言うセリフに「やっぱり、男は力よ」というのがある。
これなぞは、女性が内なる劣等機能としての異性性である「力のアニムス」に魅せられている姿を現している。
アニムスとは女性の中にある男性性のことである。
なぜ、劣等機能なのかというと、
女性は表面で「女性らしく」生きることに優位性を置いており、自然と本来的に内在している男性性を磨くチャンスがなくなるからである、とユングは言う。
さらにユングは、アニムスを4つに分類して、「力」のアニムス、「行為」のアニムス、「言葉」のアニムス、「意味」のアニムスとしている。
男性の心に潜在する劣等機能としの異性性をアニマと呼ぶが、アニムスはその男性形である。
アニマは本来、「たましい」や「息」「風」を現わすラテン語である。
チェリンは〞数学オリンピック・チャンピオン〞としてのチュンサンに対しても、そのロジカル性やロゴス的な側面に「言葉のアニムス」を見出して魅かれているようである。
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『冬のソナタ』~出会いの「時」
物語の幕開きは、ユジンが遅刻しそうな場面から始まる。
ユジンは遅刻の常習犯である。
たんに「寝坊助」である、といえば可愛気があるが、時間にルーズである、キチッとしていない、と捉えると、父性性の欠如した母子家庭の
甘さが露見しているとも見える。
遅刻以外では優等生らしく、放送部活動なども責任感を持って務めているが・・・。
ここで「時」というテーマがさりげなく提示されている。
「時間」には、物理的な「時間」を現わすクロノスと、心理的な「時」を現わすカイロスがある。
カイロスとは、その「時」がきた、とか「時」が熟した、という性質の時間である。
同じ1時間という物理的時間(クロノス)でも、好きな人とい「時」は短く感じるが、嫌いな人といる「時」は長く感じる。
時間にはこのような心理的な「時」の一面がある。
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さて、ユジンにとって重要な「時」とはなんであろうか。
十代という年齢からいって、少女から大人の女性になる、ということがまず思い浮かぶ。
どうアイデンティティを確立していくか、というのが一般的課題である。
将来の進路に悩んだり、恋に「時めく」ということもあろう。
また、発達課題として、母性的家族で育ってきたので、男性性、父性性の「補償的取り込み」が必要になる「時」だろう、と前述した。
そして、人格の発達のためには何らかの「死と再生」の通過儀式が起きてくるだろう、という予測がされる。
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そこへ、転校生のチュンサンが現れる。
最初の出会いはバス停である。
これを「二人の男女がバスに乗り合わせる」という夢として解釈したら、どうだろう。
夢における、男女という異質なものの組み合わせは、無意識下での「新たな可能性の統合」を象徴する。
バスというのは社会的な乗物である。
つまり、この二人は、これから
お互いを「自分にないもの」を取り込む対象として、社会生活のなかで運命共同体となるだろうことが、示されているのである。
バスのシーンで、二人が破れたシートを自分たちが身に付けていたばん創膏で繕う、というのがある。
これなぞは、「心の中の欠損したものを繕う」という二人にとって共同作業の第一歩のメタファーとして見ると面白い。
☆☆☆
(・(エ)・)
『冬のソナタ』~「母殺し」の過程
現代においても、韓国には儒教的精神が日本より根強く残っている。
チェ・ジウが小泉総理と握手するときにさりげなく左手で目上の人に対する敬意のポーズをとったことでもわかろう。
この時代にあっても、韓国では、
日本の親子関係よりも、それが濃く、上下関係が明確であることがドラマからも伝わってくる。
特に、独りっ子のサンヒョクとチュンサンは母親に楯突けない「イイ子」であったことが伺える。
これは深層心理学的には、母親の否定的な側面である「呑み込む母」の姿を如実に現わしている。
カウンセリングの場面では、こういう「イイ子」たちがしばしば不適応を起こして、不登校や非行などになりやすい。
このネガティブ・グレートマザー(否定的な太母)から、どう自立するか、というのが二人の発達課題であることが一目でわかる。
この母親たちは我が子を愛するがゆえに、無意識下では、その子を自分から奪ってしまう女性の出現に怯え、その相手を亡きものにしたいと願うのである。
ズバリ言えば、「子離れ」が出来ない母なのである。
息子たちは、母に愛されているがゆえに、その葛藤で苦しむことになる。
このような状況で、一般的には、無意識下での「母親殺し」の心理が働き、「英雄」元型のコンステレーション(付置)が生じてくる。
それはどういうことか、というと、世界に偏在する「英雄の物語」を見るとわかる。
日本昔話の『桃太郎』や『一寸法師』などでは鬼退治がなされた後に、宝物の獲得やお姫様との結婚がなされる。
これと似たモチーフは古今東西にある。
アニメの『シュレック』もそうであるが、ドラゴン退治をして姫と結ばれる。
分析心理学者のユングは、この世界中にあるモチーフから「英雄」的行為とその結果、という一連のプロセスを鑑みて、人の心には「英雄」元型がある、と考えた。
元型というのは、誰もが持っている「心の遺伝子」のようなものである。
ちなみに「グレートマザー」というのもひとつの元型である。
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古今東西の昔話や神話に「ドラゴン退治」のテーマが多いのはなぜか、といえば、そこに古今東西に関係なく共通の「人間の心のドラマ」が投影されているからだ、とユングは考えた。
その最も卑近な例が、母親が子どもの個性を認めずに、我が物のように振舞う様を、「ドラゴン」に捕われた姫(子どもの心)として物語や神話では表現しているのである。
このドラゴンや鬼を退治することが自分が「個性的に生きる」唯一の活路である、と子どもたちは先験的に知っている。「英雄」元型という心の遺伝子を持っているからである。
そこで、子どもたちは「母親殺し」に立ち上がるのである。
これは本来、心のなかで象徴的に行なわれるべきイニシエーション(通過儀礼)なのであるが、今日では、実際の場面でアクティング・アウト(行動化)してしまい、殺人事件として「母親殺し」が起こる悲劇が増えている。
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この物語では、サンヒョクがまず、ユジンを侮辱した母に対して、
反抗の狼煙をあげる。
母親は、自分にとって都合のよかった「イイ子」のサンヒョクが変わってしまったので(実は成長しているのである)ユジンを憎らしく思う。
これは、後に、ミヒがユジンをチュンサンから遠ざけようとした心理でもある。
グレートマザーの力が強大な時、
英雄は逆にドラゴンに食い殺されて、子どもは永遠に「自立」できなくなる。
事実、サンヒョクは後に、ユジンに捨てられて瀕死状態になって入院し、またグレートマザーの膝元に引き寄せられてしまう。
このあたりに、彼の自我強度の
脆弱性を見ることができる。
(嫉妬に狂って、ユジンに無理チューをしてレイプ紛いの狂態を演じた時も、彼の自我の弱さを感じたが・・・)
☆☆☆
(・(エ)・)
『冬のソナタ』~2度の事故
グレートマザーの元型に同一化した母は、子どもを無意識下で呑み込み、その個性を殺す働きをする。
チュンサンが母ミヒと同乗するタクシーから飛び降りて、ユジンのもとへ駆けていった時に、事故は起きる。
それは、グレートマザー・コンステレーションによって起きたとも、心理屋には見える。
コンステレーションとは心理学で
「付置」と訳されているが、本来は、「星座」の意味である。
この場合、ユジンが自分と兄妹である、と思い込んだことも、ある意味、宿命的状況に「呑み込まれた」と考えることができる。
つまり、チュンサンの周囲には「呑み込む」母的な「場の力」が働いていたのだ。
それが、グレートマザー・コンステレーションである。
事故によって、チュンサンは記憶を失い、結果としてユジンのもとから完全に引き離されることになった。
しかも、ミヒの考えで、ミニョンという新たな人格をマインド・コントロールで注入さる。
母親は、我が膝元から「自立」して離れようと意志した息子を、無意識下の支配で、再度、我がままになる「イイ子」に仕立てたのである。
母ミヒが希有な才能を持つピアニストであることを考えると、ある意味で、シャーマニックともいえる、
尋常じゃないグレートマザー・コンステレーション状況にチュンサンは置かれていたと言えよう。
この強力さゆえに、「死と再生」の通過儀礼である事故に2度も逢わねばならなかったのだ、とも解釈できる。
このようなことは、我々の臨床でも時折、体験することがある。
☆☆☆
(・(エ)・)
『冬のソナタ』~ソナタと恋歌
『冬のソナタ』は邦題で、韓国での原題は『冬恋歌』である。
恋歌は、Love Songのことだが、ソナタとは、音楽用語で、「奏鳴曲」ともいう。
宮崎 駿監督によれば、『~の~』というタイトルは必ずヒットするという。
『風の谷のナウシカ』
『天空の城ラピュタ』
『となりのトトロ』
『紅の豚』
『千と千尋の神隠し』
『ハウルの動く城』
例外は、『もののけ姫』だが、「これも「の」の字が、2字入る・・・」と宮崎監督は言う。
カタカナを含んだ『~の~』というタイトルは「舶来モノ好き」日本人の耳をくすぐるのかもしれない。
それと『ふゆソナ』と詰めて4文字になると、これもまた日本人好みの語感になるのだろう。
最近の若者は何でも4文字につめて
「メリクリ」
「あけおめ」
などと、新造語を遊び感覚で使いまわしている。
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『冬のソナタ』とは、上手い邦題を
つけたものだが、ソナタについて
若干、薀蓄を垂れてみたい。
ネットの音楽辞典を検索してみると、イタリア語で、ソナータとは、
元々カンタータ(声楽曲)に対する
「器楽曲」の意味である。
「器楽による歌」といってもいい。
その語源は、イタリア語の「ソナーレ(鳴る、響き)」からきており、日本語では「奏鳴曲」と訳された。
ソナタは、今日では器楽のための独奏や重奏の曲をさし、3~4楽章からなる。
3楽章の場合は、急・緩・急という速さの変化があるのが一般的である。
さらに、詳しく見ると、第1楽章は、ソナタ形式、第2楽章は、リート形式(2部形式や3部形式など)、第3楽章は、メヌエットやスケルツォなど、第4楽章は、ソナタ形式という独特の形をなす。
ここでいう、ソナタ形式とは古典派音楽独特の曲形式で、中学や高校の音楽の時間にもテストなどに出て、かすかに言葉を覚えている向きもあろうかと思う。
ソナタ形式の構成は、ざっとこうだ。
呈示部→序奏(第一主題/第二主題)→小結尾
展開部(第一主題/第二主題)
→再現部(第一主題/第二主題)
終結部
この構成に、『冬のソナタ』を当てはめてみるのも面白いかもしれない。
第1・2話の高校生篇が「提示部」で、「序奏」の第一主題が、ユジンとチュンサンの葛藤、第二主題が、ユジンとサンヒョクの葛藤。
チュンサンの事故死で「小結尾」を向かえる。
「展開部」は、物語が10年後から始まる。
第一主題は、ユジン-ミニョン-チェリンの三角関係。
第二主題が、ユジン-チュンサン-サンヒョクの三角関係。
展開部から再現部に移る時に、チュンサンの2度目の事故があり、「再現部」の第一主題は、ユジン-チュンサンの新たな関係。
第二主題が、ユジン-チュンサンの別れ。
「終結部」は、フランス帰りのユジンと盲目となったチュンサンが再会し結ばれて、終わる。
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『冬ソナ』を見ていて思うのは、BGMもさることながら、クラシック音楽を上手く作品構成に生かしている。
脚本家の造詣が深いのか、監督の思いなのか。
サンヒョクはFMのクラシック番組担当で、カン・ミヒはクラシックのピアニストだ。
心理描写に使うBGMも、ベートーヴェンのピアノソナタ『テンペスト(嵐)』であったり、バーバーの『アダージョ』であったり、選曲が堂に入っている。
音楽担当イ・イムのセンスのよさが伺える。
彼の手によるオリジナルもいい。
それゆえ、物語がソナタ形式の構成にスッポリ当てはまっても、すこしも違和感を感じさせない。
また、ややもすると、大の大人から少女漫画チックだとか、筋がご都合主義だ、という批判も仄聞するが、あえて弁護するならば、仮にそのような稚拙な物語でも音楽が支えている力によって、鑑賞に値する作品になっているということだ。
それは、モーツァルトの『魔笛』がメチャクチャにストーリーなのに
偉大な音楽によって一級の芸術作品と賞賛されるのに似ている。
『冬のソナタ』は現代版テレビ・オペラといってもいいかもしれない。
とすると、韓国での原題『冬恋歌』は正しいのだろう。
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