清々しい秋晴れに
川面(かわも)の蒼(あお)が
涼やかに目に映る。
土手の雑草群も
いつしか秋色に
染まりだしてきた。

時折、ぼんやりと
川の流れを眺めながら
あれこれ考えることがある。
先日は
『方丈記』を全巻通読してみたが、
やはり口をついて出るのは、
「ゆく河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず・・・」
という冒頭の名文である。
生物学者・福岡伸一の
「生命とは動的平衡にある流れである」
という説なぞも
よく思い浮かぶ。
それと、養老先生の
「私という存在は、ナビの矢印なのである」
という説も思い返す。
つまり、
ナビに示されている
自車を示す赤い矢印だけでは
意味をなさず、
周囲の「場」との関係性で
時空的な存在の意味が生じてくる、
という了解しやすい比喩である。
無感覚と無変化の状態では
自分という存在は無に等しく、
視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚
という五感によって外界を感覚し、
時間の変化により、
記憶、想起、対比によって
認識を得ているのである。
とすれば、
世界の認識とは
「関係性」の認知でもある。
心理臨床では、
しばしば「認知の歪み」という
病理性が認知行動療法の
治療目的にもなる。
万人のコンセンサスを得ている
コモンセンスに合致することが、
「健常」ということにされている。
それは、
共通の感覚器、判断ということを
前提にしている。
もっとも、
一般人が見ている「赤」と
画家が見ている「赤」、
波長解析器が測定する「赤」では、
全く同じものでないことは
自明である。
色ひとつでも無限にあり、
それを限界性のある言語によって、
とりあえず「赤」と決めて、
万人が了解できるようにしているのが
人間世界の約束事である。
してみれば、
人間のコミュニケーションやら
語らいなぞは、ずいぶんと
いい加減で大雑把なものである。
「川の色が青くてキレイね・・・」
「君が好きだよ・・・」
と恋人どうしが
語らったとしても、
「主観」以外
何ひとつ本質を語ってはいない。
「主観」は
「主(あるじ)が観る」のだから、
ナビの矢印である自分が
ある方向をある時点で観て、
それを限界性のある言葉で
表現したものに過ぎない。
つまり、
それは厳密には
事象を正確に描写したことにはならず、
たとえ、8kの映像で写したとて、
それは「動的な流れ」の一部分を
切り取ったに過ぎないのである。
真実を写し捉まえるから
「写真」と言ったが、
同様に、「動的な流れ」の
一部分の切り取りである。
今この瞬間も
地球は自転し、公転し、
銀河は回転し、銀河団は互いに引き合い、
宇宙全体は光速に向かって
加速膨張している。
一時たりとも、
流れていないもの、
無変化のものは存在しない。
まさしく、
諸行無常なのである。
ゆく河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず・・・
(ーωー).oO ウーン

あしたは
久しぶりのソーちゃんの
棋戦がある。
すでに有料視聴の
チケット決済をした。
10/1の消費税値上げに便乗してなのか、
半年前にはワンコインだったのが、
先月は800円になり、
今回から、いきなり
1.000円に値上がりした。
全国のソーシアン(ファン)は
主催の「将棋プレミアム」に
文句ブーブーである。
ッンダヨ~ (ㆀ˘・з・˘) ブーブー
久しぶりに
“業突く張り”奴(め)・・・という
言葉が浮かんだが、
辞書の定義によれば・・・
「非難されるべき欲深さ」
だそうだ(笑)。
ついでに、
類語も見てみたが、
欲張り ・ 欲深 ・ 貪欲 ・ 強欲 ・
意地汚さ ・ 阿漕ぎ・・・
あたりが耳なじみである。
1.000円×10万人なら
1億円の儲けである。
ほんに、阿漕ぎなこって・・・。
***
愛猫家のTちゃん先生が
赤ちゃんが生れたので
里親を探している。
子どもの頃は
メスネコを飼っていて、
よく赤ちゃんを産んでたから
仔猫の可愛さは知ってはいるが、
世話が大変なので
安易には貰うわけにもいかなかった。
エサ要らず、○ンコもしない、
病気もしなかったら、
セラピューティックなので
飼って一緒に抱いて寝たいくらいだが、
なにせ水槽のサカナも面倒になって
放流したくらいだから、
哺乳類はとてもとても・・・である。

ファイア・スティックを導入してから、
寝室の大型テレビで
ユーチューブが見れるようになり、
久しぶりに『ビッグダディ』を見てみた。
中高生の時以来、
久しぶりに見た三姉妹は
すっかり大人になっていて、
トトちゃんは結婚し、
ヨシミちゃんも昔よりキレイになり
一児の母となり、
ウタちゃんは、なんと、
女子プロレスラーになっていて
おっ魂消た。
テレビ番組終了後も
ネットには自主映像を流しており、
すっかり画面なれして
ミニコミ風ですらあった。
川面(かわも)の蒼(あお)が
涼やかに目に映る。
土手の雑草群も
いつしか秋色に
染まりだしてきた。

時折、ぼんやりと
川の流れを眺めながら
あれこれ考えることがある。
先日は
『方丈記』を全巻通読してみたが、
やはり口をついて出るのは、
「ゆく河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず・・・」
という冒頭の名文である。
生物学者・福岡伸一の
「生命とは動的平衡にある流れである」
という説なぞも
よく思い浮かぶ。
それと、養老先生の
「私という存在は、ナビの矢印なのである」
という説も思い返す。
つまり、
ナビに示されている
自車を示す赤い矢印だけでは
意味をなさず、
周囲の「場」との関係性で
時空的な存在の意味が生じてくる、
という了解しやすい比喩である。
無感覚と無変化の状態では
自分という存在は無に等しく、
視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚
という五感によって外界を感覚し、
時間の変化により、
記憶、想起、対比によって
認識を得ているのである。
とすれば、
世界の認識とは
「関係性」の認知でもある。
心理臨床では、
しばしば「認知の歪み」という
病理性が認知行動療法の
治療目的にもなる。
万人のコンセンサスを得ている
コモンセンスに合致することが、
「健常」ということにされている。
それは、
共通の感覚器、判断ということを
前提にしている。
もっとも、
一般人が見ている「赤」と
画家が見ている「赤」、
波長解析器が測定する「赤」では、
全く同じものでないことは
自明である。
色ひとつでも無限にあり、
それを限界性のある言語によって、
とりあえず「赤」と決めて、
万人が了解できるようにしているのが
人間世界の約束事である。
してみれば、
人間のコミュニケーションやら
語らいなぞは、ずいぶんと
いい加減で大雑把なものである。
「川の色が青くてキレイね・・・」
「君が好きだよ・・・」
と恋人どうしが
語らったとしても、
「主観」以外
何ひとつ本質を語ってはいない。
「主観」は
「主(あるじ)が観る」のだから、
ナビの矢印である自分が
ある方向をある時点で観て、
それを限界性のある言葉で
表現したものに過ぎない。
つまり、
それは厳密には
事象を正確に描写したことにはならず、
たとえ、8kの映像で写したとて、
それは「動的な流れ」の一部分を
切り取ったに過ぎないのである。
真実を写し捉まえるから
「写真」と言ったが、
同様に、「動的な流れ」の
一部分の切り取りである。
今この瞬間も
地球は自転し、公転し、
銀河は回転し、銀河団は互いに引き合い、
宇宙全体は光速に向かって
加速膨張している。
一時たりとも、
流れていないもの、
無変化のものは存在しない。
まさしく、
諸行無常なのである。
ゆく河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず・・・
(ーωー).oO ウーン

あしたは
久しぶりのソーちゃんの
棋戦がある。
すでに有料視聴の
チケット決済をした。
10/1の消費税値上げに便乗してなのか、
半年前にはワンコインだったのが、
先月は800円になり、
今回から、いきなり
1.000円に値上がりした。
全国のソーシアン(ファン)は
主催の「将棋プレミアム」に
文句ブーブーである。
ッンダヨ~ (ㆀ˘・з・˘) ブーブー
久しぶりに
“業突く張り”奴(め)・・・という
言葉が浮かんだが、
辞書の定義によれば・・・
「非難されるべき欲深さ」
だそうだ(笑)。
ついでに、
類語も見てみたが、
欲張り ・ 欲深 ・ 貪欲 ・ 強欲 ・
意地汚さ ・ 阿漕ぎ・・・
あたりが耳なじみである。
1.000円×10万人なら
1億円の儲けである。
ほんに、阿漕ぎなこって・・・。
***
愛猫家のTちゃん先生が
赤ちゃんが生れたので
里親を探している。
子どもの頃は
メスネコを飼っていて、
よく赤ちゃんを産んでたから
仔猫の可愛さは知ってはいるが、
世話が大変なので
安易には貰うわけにもいかなかった。
エサ要らず、○ンコもしない、
病気もしなかったら、
セラピューティックなので
飼って一緒に抱いて寝たいくらいだが、
なにせ水槽のサカナも面倒になって
放流したくらいだから、
哺乳類はとてもとても・・・である。

ファイア・スティックを導入してから、
寝室の大型テレビで
ユーチューブが見れるようになり、
久しぶりに『ビッグダディ』を見てみた。
中高生の時以来、
久しぶりに見た三姉妹は
すっかり大人になっていて、
トトちゃんは結婚し、
ヨシミちゃんも昔よりキレイになり
一児の母となり、
ウタちゃんは、なんと、
女子プロレスラーになっていて
おっ魂消た。
テレビ番組終了後も
ネットには自主映像を流しており、
すっかり画面なれして
ミニコミ風ですらあった。
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