毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。
毎年、夏には必ず行っていた
相馬の松川浦に
様子を見に行ってきた。
海岸から数キロも津波の被害があって
見慣れていた浜の近辺は
風景が一変していた。
釣り突堤の金属手すりが
飴細工のようにグンニャリと
へし曲がっていたのには
驚いた。
ナッちゃんと二人で
試しに曲げてみようと思っても
とてもビクともするものではないので、
津波の想像を絶するエネルギーに
驚かされる。
鉄骨の東屋が
ペチャンコになっていた。
沖の波消しブロックも
崩されて海岸まで運ばれていた。
バーベキューやら
何度も食事した芝生の脇のブランコは
支柱が曲がりながらも残っていて、
ベンチの一つは片側のアームが
残っているのみだった。
松林は至る所で
ポッキリと大木が折れていた。
ほとんど陸側に折れているので
海から寄せる津波の破壊力で
やられたのだろう。
食堂だった所は
2階まで鉄骨むき出しになっていた。
いちおう釣り道具は持っていたものの
ナッちゃんとさすがに気が重くなって
それでも、ちょっとやるか…と、
海に向かって手を合わせ
2.000人の犠牲者に哀悼の祈りを捧げた。
いつもの船着場には
先に2組ほど釣り人がいて
なんだかホッとしたが、
それでも例年の夏なら
釣り人がここかしこに見られるはずである。
今回は初めて
釣りにギターを持参し
待っている間、海に向かって
『影を慕いて』を追悼演奏した。
お盆中だったので
殺生するのも気が引けて
今回はクーラーを持参せず
全部リリースするつもりだった。
そしたら、最初にアイナメの赤ちゃんが釣れ
次からは、全部エサ取りのチビフグばっかり。
夏場は繁殖期で、沿岸にやってきて
プランクトンを食べているのだろう。
とにかくエサを投入すると
釣堀の魚のように群がってくるので
ナッちゃんは一々外すのが邪魔くさいので
大物用針に換えてしまった。
それでも、3時間ほど
いろいろと仕掛けを換えて
やってみたが、ついぞ大物は
一匹も連れなかった。
もっとも、漁協で揚げた魚から
人の髪の毛が出てきたという
恐ろしい話を聴いたので
放射能汚染もあって
とても食べられるものではない。
帰りしな、カミさんが
岸壁をエンゼルフィッシュのような
背ビレと腹ビレが20センチもあるような
熱帯魚みたいなキレイな魚が泳いでいるのを
発見して興奮していた。
エンゼルは淡水魚だから
もしかしたら、いわきのアクアマリンから
逃げてきたんじゃないか…
という推測でおちついた。
かつては京都駅の八条口から
タワーが見えたのだが
高層のターミナルビルができてから
見えなくなってしまった。
新幹線到着のホームでも
見えなくなったので、
京都へ着いたときの感慨が
ひとつ減ってしまった。
京都駅からJRで
ナッちゃんとカミさんは
USJへ、自分は金光大阪へ出向いた。
かつてのシルバーシートは
今はブルーシートになり
妊婦・怪我人・老人のイラストが
記してある。
駅ビルの中は
モダン建築でまるで
近未来都市のような建物である。
平等院へ赴く途中
観月橋あたりに
京滋バイパスができ
四重の立体交差した道路があった。
道路沿いの温度計が
40度だったのには驚いた。
平等院は10円の
裏のデザインであることは有名だが
一万円札の裏の鳳凰も
そのデザインであることは
知らなかった。
ミュージアム・ホールでは
貴重な仏像類を
鑑賞できた。
醍醐寺の五重塔は
朱色が褪せてはいるが
堂々とした体躯で
その構築美は
目を見張るものがあった。
次期一万円札の裏にでも
意匠されても
ふさわしいような
美しさである。
醍醐寺境内のなにげない参道にも
京らしい風情があった。
山門の装飾には
一々目が留まった。
最終日、新幹線の時間まで
1時間ほど間があったので
予定にはなかった
雪舟寺に立ち寄った。
もう、何十回となく訪ねている
京都在住中は、もっとも愛した寺である。
猛暑のあおりで
「鶴亀の庭」の
苔の大半が枯れていたのは
残念だった。
でも、放射能汚染されていないだけ
まだ、よしとしなければ、とも思った。
山科にある毘沙門堂の庭園。
心字の池に観音堂と百日紅が
映って美しかった。
山門の階段も
緑に囲まれて
すがすがしい。
「夢」の衝立には
どこか禅味があった。
門の細かい装飾に
昔の宮大工の仕事ぶりが
みられる。
山門の仁王様の「阿吽」。
特別公開だった
南禅寺塔頭の大寧軒。
茶庭だけあって
侘寂がある。
苔が美しく映えていた。
南禅寺の入り口の
蓮池がちょうど開花して
見頃だった。
京都について早々は
近鉄名店街にある
「京おばんざい」の店「竹善」で
おばんざい定食をいただいた。
久しぶりに赤出汁を啜って
「ああ。京都に来たなぁ…」
という感慨が沸いた。
ナッちゃんにも
「これが京都の味やで」
と、ちょっと飲ませてあげた。
お運びさんが
「おおきに」
と客にお愛想するたびに
ふたりでアクセントを真似していた。
帰りの新幹線の夕食には
京都駅で「寿司のむさし」の
「鯛のおぼろ」弁当にした。
京阪ホテルの朝食は
二日とも京料理の美濃吉で
いただいた。
連泊だったので
三日目の朝は
「京の朝粥」にした。
鰹出汁の餡が
はんなりして
まさに京の味だった。
三日目の昼餐は
見田盛夫の『京のお弁当』で
三ツ星だった「山月」でいただいた。
お造りの鱧は梅肉醤油で
さっぱりとした味わいだった。
あしらいのウドの細切りが見事だった。
椀は「鱧と松茸のお吸い物」だった。
鱧と松茸と酢橘は、最高の出会いもの
と称されるが、なるほど、それに値した。
「懐石は、椀刺がすべて」
と吉兆の創業者
湯木貞一は言った。
弁当箱は蓋を開けると
宝石箱のように美しく、
また、どれも丁寧に煮炊きしてあり
味をよく含ませてあった。
まさに、三ツ星にふさわしい
懐石弁当であった。
ご夫婦で営まれている小体な店で
優しげな奥さんのサーヴィスが
親切丁寧で、実に心地よかった。
何度でも行きたい店とは
こういう名店を言うのだろう。
最終日には、
10ヶ月の遵(たける)君を
連れてきてくれた岡に
中村軒でご馳走してもらった。
ここでは、8年間の京都在住の折、
よく麦代餅を買って帰ったが、
久しぶりにその懐かしい味を
いただいてきた。
道明寺を使った新趣向の酢橘餅も
試食してみたが、さすがに
上手くこしらえている。
どちらも、お薄にぴったりだった。
店頭で、冷やし飴がガラガラ
機械で攪拌されていたので
思わず一杯飲んでみたくなった。
初めての体験であるが、
生姜味で、いくらか喉にヒリリとくる
清涼な昔ながらの甘味飲料である。
福島から4時間で
京都に着いた。
春休みにナッちゃんとアキが
原発疎開でお世話になった白丸先生には
平等院と醍醐寺まで
車で連れて行っていただいた。
京都は一番の猛暑日で
道路沿いの温度計が
40℃を示していたのには
カミさんと驚いた。
三宝院は二度目だが
庭園が撮影禁止だったことは忘れていた。
閉園前で他に人がいなかったので
隠し撮りで2枚ほど撮ってきた。
夜は、かつて担任をした
2期生の女の子たち4人と
26年ぶりに再会し
枚方でプチ・クラス会をしてきた。
みんな、卒業来ずっと
年賀状をよこしてくれ
3・11では真っ先に
地震見舞いのメールをくれた。
それぞれも26年ぶりに
再会というのもあって
みんな仕事を持つなか
平日の夜、3時間ほど
楽しいひと時を持てて幸せだった。
二日目は、学校にちょっと立ち寄って
それから五条坂の陶器市に行った。
そして、夜、「あさの」へ
ひとりでラーメンを食べに行った。
5年ぶりである。
ホテルからタクシーで
往復2.000円かけて
780円の半チャン・ラーメンを
食べてきて満足した。
おカミさんは昼のみらしく
親爺さんがおられて
「もう、こんなになりました」
と帽子をとって
禿げた頭を見せてくれた。
しばし、歓談をし
懐かしいひと時だった。
三日目は、テニス部の卒業生が
車を出してくれ
山科の毘沙門堂と
特別公開の南禅寺の大寧軒を拝観し、
懐石弁当では三ツ星の「山月」で
豪奢な昼食をいただいてきた。
たった三日間だったが
なんだか、すごく充実した
京旅行だった。