鎌倉殿の13人 木曽義仲 そして義高が討たれ 大泉殿は本領発揮です 義高はわずか12才だったんですね 今度はダレかとドキドキしますね。
長野 生島足島神社の帰り あさつゆという地元の農産物店 …ここいいですよ 観光客目当てではない地元向けなので… に立ち寄ったら 裏が義仲と巴御前が決起したという岩屋堂法蔵寺でした。
でも宝蔵寺より 隣の岩戸社白鬚神社がよかったですね。なんとも言えない懐かしさがあって ここで 義仲と巴が語らったりもしたのだろうと思いました たんぽぽは残念ながら西洋タンポポでしたけれど。
静かな 時間を過ごせました。
木曽義仲と長野
義仲は源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる
『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄で義賢嫡男の仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。
『源平盛衰記』によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある 諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。こうしたこととも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。