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い 狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす BC660 伊須気余理比売
ろ 朝なぎに来寄る白波見まく欲り 我はすれども風こそ寄せね 680 詠み人知らず
は 神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに 720 大伯皇女
に 天河 扇の風に霧晴れて そら澄み渡るかささぎの橋 清原元輔 清少納言の父 970
ほ 吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな 源義家 1050
へ 風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えて ゆくえも知らぬわが思ひかな 1180 西行
い
イスケヨリヒメとはオオモノヌシの娘 すなわち日本を最初に統一したニギハヤヒの娘で 神武天皇の妻である。
神武亡きあと 神武の先妻の息子と結婚することを余儀なくされたイスケヨリヒメは 夫が自分の息子3人の
命を狙っていることを知り それをこの歌で息子たちに知らせたといわれる。
一番末の息子が斃して次の天皇になるのだがそのあと欠史八代といい 天皇の治世についてつまびらかな記述がない。
古事記の作者が 出雲王朝と伊勢王朝のツジツマ合わせに心を痛めたのでありましょう。
この古事記の編さんのうしろにいたのが 後に出てくる持統天皇 烈女です。出雲王朝の痕跡を消したかった。
自分が女帝であることから アマテラスを女神にし日の神 水の神が対になっていたものを 日の神の后であった
水の神 瀬織津姫を消してしまったのです。
瀬織津姫は しかし弁才天などに習合されながらひっそり祈りの対象になっていました。長年 天皇は熊野に
詣でられましたが 熊野は水の神であり 隠された祭神は瀬織津姫ともいわれています。
「息子たちよ気をつけなさい。狭井河に雲が湧き 畝傍山に風が吹いているよ なにか危険なことが起きそうだよ。」
狭井河....は大三輪山... オオモノヌシの墓所の近くを流れる川
ろ
このうたは 万葉集成立の50年前のもので あすかのあたりから木簡?で発見されました。今も昔も恋はおなじ....
「あなたに会いたいのだけれど 会うチャンスが訪れません。」
は
大伯皇女は初めての伊勢の斎宮であり 天武天皇の娘 (持統天皇の姉である太田皇女の娘) 大津皇子は弟でした。天武天皇なきあと
持統天皇はわが息子草壁を皇位につけようと画策、それには英明な大津の皇子が邪魔だったので 反逆者として殺してしまいました。
この歌は愛する弟を失った大伯皇女の血を吐くような挽歌です。いつか このものがたりを語りたいと思います。
「わたしはなぜ伊勢の国から帰ってきてしまったのだろう もうあなたはいないというのに」
に
「天の川に 風が吹いて 霧をふきはらい かささぎたちが わたれるように橋をつくりましたよ」
ほ
源義家は八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られ 後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たります。
「勿来とは 風ふくなかれという意味なのに この勿来にも風が吹いて ごらん 山桜の花びらが こんなにも道に散ってしまっている」
ほ
西行は北面の武士でした。この歌は すべてを悟った西行の潔い気持ち 「自然と人生の完全な調和」という解釈がされることが多いのですが
わたしにはとてもそのような気持ちは持てません。西行がみちのくへ旅をしたのも待賢門院璋子の死の痛手から逃れるためではなかったか...
璋子はじつに魅力的な女性であったようです。その奔放といいますか 生きたいように生きたことからわが子崇徳天皇は後に日本でもっとも
恐れられた祟り神になってしまうのですが....
「富士の山の懐に燃え続ける火のごとくわたしのなかにくすぶりつづけるこの想い 待賢門院さまへの想い、行き場のないこの想いはいったいどこへ行けばいいのだろう 」
いつか 待賢門院と西行の恋も 語ってみたいものです。
さて ネットでみつけた現代の和歌は....
はじまりはまぶしい5月の風の中 進まぬように終わらぬように
潮風に身体投げ出す春の午後 海までの坂 駆け下りる君
君と見る景色は全て輝いて虹色の街夏色の風
7月の風緩やかに吹き抜けて 優しくサヨナラ言える気がした
波音が少し遠くに聞こえてる (これでいいよね?)サヨナラあなた
なにもかもどしゃ降りの中に消えてゆく 音も景色もそしてあなたも
雨に濡れ 流れゆくのが 涙などで あるわけがない そんなわけない
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とにかく いそがしげですね... 現代の恋は......あっというまに 火がついて
その燃え盛る火に耐え難いように あっというまに 終わってしまう.....