遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



....今月になってビウエラのレッスンを夜に変えていただきました。....というのも事務の担当者がひとり長期のおやすみになったからです。それでわたしは会社を離れられなくなりました。 それはわたしや会社や娘たちにとても興味深い変化を起こしたのですが、それはさておき、きのうのことです。

....夜8時レッスンにうかがうとリュートのときのほうが多いのに、今夜先生はビウエラを弾きながら楽譜をなおしていました。そばで聴いていたわたしは驚きました。水戸茂雄先生のビウエラとわたしのビウエラは まったく音色がちがっていたのです。 先生のはねっとりしたやさしい音、わたしのは硬質な響きがありました。

『ぼくのほうがいい音だ』
でもわたしのビウエラの音のほうがキラキラ輝いている と内心思いました。
ふたつのビウエラは兄妹のようなもの 遠く海をこえてフランスからきたのです。

調弦のとき 『一弦の音が物足りないのです。』 といったら 
『耳がよくなったね!』

先生の教え方がいつもと違いました。
先生はわたしの弾き方をまねて何度も弾いてくれました。
『自分の出している音をよく聴きなさい』
『音と音のあいだの響きをたいせつにして』

それはカーブ CAV(とここれから書きます)で ならったことと同じでした。

『うたと同じなんだよ』
うた....演奏もうた....語りもうた....
うたうことはことばは話すことよりもっと起源がふるいと 聴いたことがあります。

宇宙もうたっている ひびきに充ちている
降ってくるひびきをうけとめて 身体と心をとおして うたい かたり かなでるんだ....

『ぼくは右手の音を右耳で聴く、左手の音を左手で聴く』
わたしは右手のほうがいつも早く弦に触れて いたのです。
そうだったんだ!!

演奏が変わりました。ポツンポツンのあまだれから すこしずつうたになってゆきました。

先生はいいました。『ぼくは音の過去、今、未来を意識する それから 聴衆にもフォーカスする これは集中していないとできない。 宮本武蔵の「五輪の書」を読んでも同じだと感じた』

『自分自身のコントロールなんだよ』
それは日原先生からCAVで学んだこととピタリ 重なったのです。
『耳がよくなるとうまくなるよ』
水戸先生がいいました。

....たぶん...とわたしは思います。あらゆるものにフォーカスできればあらゆるところに存在すると同じなんだ....なににフォーカスするかが問題なのだ...
話はかわりますが 夜のレッスンになってわたしは全く時間に正確になりました。....いつも必ず15分 遅刻していたのです。....なぜだろう....最初に水戸先生にいわれたことばを思い出します。『ぼくは15分 待ってもこなかったらいなくなるからね』現実にはそんなことは一度もありませんでした...水戸先生はじつにやさしい方だからです。

   しかし、その15分という時間はわたしの脳細胞にセットされた...今 遅刻しないのは心理的負担がないからだと思います。120% 毎日仕事をしているのでうしろめたさがないのです、回数も減らしましたから下手な趣味にうつつを抜かしむだなお金を遣っているという罪悪感がなくなった、それで時間とおりに行くことができる。....行きたいけれど行きたくない....行ってはいけないのではないか...15分とはわたしの感情のつじつまをあわせる時間...だったのではないでしょうか.....

   ひとの気持ちとは不思議なはたらきをするものです。隘路をつくって自分の感情につじつまをつけようとする.....そうした感情もふくめて自分をコントロールできるようになれば...わたしの語りもビウエラも音色はかわってゆくでしょう。

『三年目にやっとスタートラインにつきました』
『よかったじゃないか 遅すぎはしないよ』

   水戸先生はビウエラの達人であるとともに人生の達人です。日原先生もそう....ひとつひとつのことばが沁みるのです。そして努力することとともに楽しむすべを知っている。ひとを包み、勇気づけることばを持っている、わたしもいつかそうなりたいと思います。









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  ほんとうにひさびさの休日....仕事もワークショップもなく旅行でもなく家にいられる素敵な日、娘を試験場に送った帰り道、あたらしいカフェをみつけて末の娘とモーニングサービスをいただきました。木の香り、テラコッタのタイル、ピアノの音色...祝祭日の気分です。

  いい材料をつかって、心をこめてこしらえられた料理は身体も心も癒してくれます。焼きたてパンに手づくりのジャム、淹れたての深煎りコーヒー....でほっこりして、家に帰ったら家事さえも楽しい。洗濯と掃除のあとテレビをつけたら、バドミントンの決勝生中継がはじまるところでした。

  君臨してきた小椋潮田ペアが解散するとかでオリンピック四位入賞の末次前田ペアと優勝をかけて最後の戦いなのだそうです。.....息もつかせぬラリーの応酬でした。.....なんてうつくしいんだろう。ダブルスのふたりの選手の呼吸、まなざし、躍動する肢体、わたしは魅入られてしまいました。集中する目、その目には余分なものはひとかけらもない....ことにオグシオと呼ばれるふたりの...透明な...と言ったらいいのか熱に浮かされたようなといったらいいのかまっすぐなまなざしはいまもわたし自身の目に焼きついています。

  夜はフィギュアのグランプリシリーズフランス大会の放送がありました。浅田真央さんの身体から変わっているのに驚きました。研ぎ澄まされたような肢体の美しさ、ステップやスピンの優雅なうつくしさ....素人目にもわかる難易度の高さから彼女が果敢な挑戦をしているのがわかって、思わず慄きました。残念なことにまだプログラムが自分のものになっていないようで失敗もあり、二位におわりました。おそらく浅田真央さんが昨年までの延長上で演技をしたのなら、ずっといい点がとれたと思うのです。

  でも、真央さんは自分のフィギュアスケートの世界をもっとひろげたい、限界に挑みたい、もっと美しくもっと優雅に観客にモノガタリを届けたいのだと思います。それは競技に勝つためでありながらアーティストの生き方でもあって、各国の選手たちが綺羅星のようにいならぶなかで、そのあこがれに似た挑戦が浅田真央さんをひときわ輝かしくしているように思います。ルール改正もあって女王を維持するのはむつかしいかも知れないがメダルだけではない...とわたしは思います。そのあきらめることも飽くこともない挑戦は見るものにどれだけ勇気をくれることでしょう。プログラムでしめされるものがたりの奥に浅田真央さん自身のものがたりが見える、また小椋潮田ペアのプレイにふたりのドラマとふたりの歴史があるからわたしたちを揺り動かすのでしょう。

  語りもそうなんだと思うのです。ものがたりのむこうに語り手のモノガタリが見えるのではないか....かさなりあったものがたりが聴き手の心に響くのではないか.....わたしはそういうモノガタリを聴きたいと思うし、自分でもそのように語りたい.....アスリートたちから学ぶことはたくさんあります。集中、大胆さと繊細さ、ミスしたとき持ち直す精神力、そして身体のコントロール...磨きつづけること。....というわけで 今夜わたしはしっかりトレーニングをして、ビウエラのレッスンもみっちりいたしました。これがつづくといいのですが....。




※ 前回のブログでテキストから離れて....というのは勝手に語る....という意味ではありません。テキスト...原稿の「文字」からはなれものがたりの本質を語るという意味で書いています。

  

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