遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



....今月になってビウエラのレッスンを夜に変えていただきました。....というのも事務の担当者がひとり長期のおやすみになったからです。それでわたしは会社を離れられなくなりました。 それはわたしや会社や娘たちにとても興味深い変化を起こしたのですが、それはさておき、きのうのことです。

....夜8時レッスンにうかがうとリュートのときのほうが多いのに、今夜先生はビウエラを弾きながら楽譜をなおしていました。そばで聴いていたわたしは驚きました。水戸茂雄先生のビウエラとわたしのビウエラは まったく音色がちがっていたのです。 先生のはねっとりしたやさしい音、わたしのは硬質な響きがありました。

『ぼくのほうがいい音だ』
でもわたしのビウエラの音のほうがキラキラ輝いている と内心思いました。
ふたつのビウエラは兄妹のようなもの 遠く海をこえてフランスからきたのです。

調弦のとき 『一弦の音が物足りないのです。』 といったら 
『耳がよくなったね!』

先生の教え方がいつもと違いました。
先生はわたしの弾き方をまねて何度も弾いてくれました。
『自分の出している音をよく聴きなさい』
『音と音のあいだの響きをたいせつにして』

それはカーブ CAV(とここれから書きます)で ならったことと同じでした。

『うたと同じなんだよ』
うた....演奏もうた....語りもうた....
うたうことはことばは話すことよりもっと起源がふるいと 聴いたことがあります。

宇宙もうたっている ひびきに充ちている
降ってくるひびきをうけとめて 身体と心をとおして うたい かたり かなでるんだ....

『ぼくは右手の音を右耳で聴く、左手の音を左手で聴く』
わたしは右手のほうがいつも早く弦に触れて いたのです。
そうだったんだ!!

演奏が変わりました。ポツンポツンのあまだれから すこしずつうたになってゆきました。

先生はいいました。『ぼくは音の過去、今、未来を意識する それから 聴衆にもフォーカスする これは集中していないとできない。 宮本武蔵の「五輪の書」を読んでも同じだと感じた』

『自分自身のコントロールなんだよ』
それは日原先生からCAVで学んだこととピタリ 重なったのです。
『耳がよくなるとうまくなるよ』
水戸先生がいいました。

....たぶん...とわたしは思います。あらゆるものにフォーカスできればあらゆるところに存在すると同じなんだ....なににフォーカスするかが問題なのだ...
話はかわりますが 夜のレッスンになってわたしは全く時間に正確になりました。....いつも必ず15分 遅刻していたのです。....なぜだろう....最初に水戸先生にいわれたことばを思い出します。『ぼくは15分 待ってもこなかったらいなくなるからね』現実にはそんなことは一度もありませんでした...水戸先生はじつにやさしい方だからです。

   しかし、その15分という時間はわたしの脳細胞にセットされた...今 遅刻しないのは心理的負担がないからだと思います。120% 毎日仕事をしているのでうしろめたさがないのです、回数も減らしましたから下手な趣味にうつつを抜かしむだなお金を遣っているという罪悪感がなくなった、それで時間とおりに行くことができる。....行きたいけれど行きたくない....行ってはいけないのではないか...15分とはわたしの感情のつじつまをあわせる時間...だったのではないでしょうか.....

   ひとの気持ちとは不思議なはたらきをするものです。隘路をつくって自分の感情につじつまをつけようとする.....そうした感情もふくめて自分をコントロールできるようになれば...わたしの語りもビウエラも音色はかわってゆくでしょう。

『三年目にやっとスタートラインにつきました』
『よかったじゃないか 遅すぎはしないよ』

   水戸先生はビウエラの達人であるとともに人生の達人です。日原先生もそう....ひとつひとつのことばが沁みるのです。そして努力することとともに楽しむすべを知っている。ひとを包み、勇気づけることばを持っている、わたしもいつかそうなりたいと思います。









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  朝 いつもより早く家を出ました。...といってもこの四日というもの遠足に行く子どものように眠れなくて毎朝明け方まで起きていました。電車のなかや聴覚トレーニング...モーツァルトやグレゴリア聖歌を聴きながらお昼寝してもいいのです....でつかのまの睡眠をとり講義と実習は目がらんらんでした。日原先生の口からどんな大事なことがとびだすかわからないからです。.....エクセルシオールでモーニングをいただいて、最終日のはじまりです。

  今日は先生のトマティス理論の朗読からはじまりました。はらわたに沁みわたるといいますが日原先生の声は骨に心地よく響きます、そして体中にひろがります。よく聴く、イメージする、それからやってみる。聴き取りの姿勢をとり耳を澄ます...電車の音、車の音、工事の騒音....このなかから高次倍音のみを聴き取ろうとします。ひとは一日のうち、4時間半、30億の情報を耳から得ているといいます。目はひかりがないと見えなくなる、けれども聴覚は24時間寝ている間も働きつづけます。おかあさんのおなかにいる胎児のときから、息をひきとったあともしばらく聴覚は残るのだそうです。....亡くなった方のわるくちは言えないわけですね。

  つぎに2グループにわかれていつものように片方は小さい個室で聴覚トレーニング...今日は音楽を聴きながら朗読をしました....片方は実習....ひとりひとりが順番にテーブルにすわって(お行儀がわるいと思われるでしょうが、これには深い理由があります)実際に声を出します。きのうの母音の復讐、いや復習....どきどきしますがクリアー...きのうの特訓のおかげかな....長年してきた口角をあげるくせがなおっていました。それぞれの性格や生活の違いから、声もひとりひとり違うし、問題点も違う....それを見ているととても勉強になります。

  どうしても思うようにいかないとき、日原先生はウラ技をつかいます。身体を強制的につかう....発声する....感覚を掴む.....もう一度やってみる.....指導者としてすごいなぁ.....と思いました。日本のやり方はうしろすがたを見て覚えなさい.....が多い。下手をすると指導者のくせもいただいてしまう.....日原先生はまったくニュートラルなのです。わたしは今まで個人レッスン...に勝るものはないと思っていましたが、このようなグループレッスンは素敵です....否定はしない.....間違いはきっちり指摘する....これはむつかしいですね....ほんもののプロ意識と愛がないとできません。

  お昼はきのうは私学会館のランチでしたが、今日は番町方面にブラブラ歩きました。小雨が降りはじめました。フレッシュバーガーがあったのでドアをあけると、ジャズが流れている....その響きが身に沁みる....そう...前の晩不思議なことがあったのです。ビウエラを弾いたら音がいつもと全く違う、深くてゆたかできらめいている....耳が変わるとはこういうことなんだ.....バイオリンの奏者さんとか耳がよくなることで演奏が格段にかわるそうです...わたしも上手になりますように。。。。途中でみつけたちいさな花屋さんでミニブーケを買いました。

  午後はもういちど聴覚トレーニング、それからひとりひとりの問題点について....わたしがおたずねしたのは....自分のアイディンティティー...語るとき、内観はどのようにしたらいいのか......カーブではアイデンティティーは外部におきなさい...といいますがどこに置くのか。カーブメソッドについて未知の方ですと混乱してしまうと思うのでこの答は書かないでおきます。かわりに「99%は役柄(あるいはものがたり)になりきっていい、最後の1%は見ている自分 客観性が必要です」ということばをお伝えしましょう。身体を大地から離すな、耳だけを地上から高く高く置きなさい....これはわたしにとってとてもたいせつなことばでした。

  もうひとつの質問は...わたしはほんとうの音域より低い音声を日頃つかっている、男性社会に「伍して」ゆくために声を意識的にさげているのだがそれでいいのだろうかということでした。きのう家に帰ったら子どもたちに「お母さんいつもの声じゃない」と言われたのです。

  先生の答えは...「基音は変えない、男性と話すときは...(まず相手の声を聴いて)低次倍音を加える、女性のばあいも相手にあわせる、子どものときもこどもの声をまず聴いて....」あっ これは実際にふだんやっていることじゃないか....そして声楽の刈谷先生の指導..「高い音域の発声には低い音ヲミックスする、そうしないと高い音がよく聴こえない」...の意味がよくわかりました。日原先生は相手の声をよく聴くこと...それがコミュニケーションです...とおっしゃいました。

  終わったあと みなさんの顔が初日とはまったく違っていました。あかるくあたたかく、そして声もかわっていた....けれども、ほんとうのカーブはこれからはじまるのです。駅のスタバで日原先生をまじえお茶会をしました。福岡から見えた方がふたりいます。聴力の減退をとめたい方、オペラ畑、歌、芝居、さまざまな方ががいました。声をとおしわたしたちはなかまたちの人生を垣間見、自分のことのように共感し、カーブメソッドをとおして声が変化してゆくのを聴きとり顔の変化を見守っていました。縁あって会ったわたしたちはなかまの顔と声を忘れることはないでしょう。そしてその中の「幾人」かとは一生の友人になることでしょう。

  聴くこと=話すこと=生きること=愛すること

  音声は人格である





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  前の冬、池袋コスモポリタンホテルで買ったペンダントをはじめてかけてゆきました。ガラスのビーズを六角計の星型に編んで球体にしたひと目で気に入ったペンダントでした。気持ちの整理がつくまでは首にかけられなかったのでしょう。「そうだよね、でも もうだいじょうぶ」自分に言いました。澄んだ静かな気持ちでした。「ありがとうございました お元気でいらしてください」はるかに呼びかけて駅に急ぎました。


.....今、このときカーブメソッドを受けるのは意味があったのだと思います。自力整体をはじめて10ヶ月、身体がゆるんでいてほんとうによかった。からだをゆるませることと、脱力がなぜ必要か....

  それは身体を振動しやすくするために必要だったのでした。カーブのハミング発声で自分の背骨が細かく振動するのがわかります。くすぐったいようなまだそんな状態ですが....。そしてグループのひとたちのハミングを聴いてもわたしの背骨は振動する。ひとによって振動する場所が違います。声が高いひとは頭蓋骨に反響するし、背骨のなかごろのひともいて、声というものが聴き手の心に響くばかりでなく身体そのものに響くのだということがよくわかりました。冷え性で手が氷のようだった方の手があたたかくなり、わたしも今日は寒いと感じませんでした。振動で体温があがるのかもしれません。

  今日はいよいよ母音に入りました。響く音は母音しかありません。音と音のあいだに響きがあります....母音の発声はとてもたいせつですが、わたしにはひとつくせがありました。口角をひいてしまうのです。いつも笑顔で語ろうとしていたことや、刈谷先生から口角をあげて歌いなさいという指導をいただいてきたことが原因でしょうか、とくに”エ””イ”に問題がありました。なぜ口角をひいてはいけないのでしょうか?口角をひくと内耳のあぶみ骨筋がゆるんでしまうためか響かなくなってしまうのです。

「ドナルド・ダックのお口にして」「いわしの口みたいに」「あさがおがひらくときのように」いろいろ指導していただきなんとか出せるようになったとき、聴いてくれた仲間たちはいいました「とても、きれい!ぜんぜん違う!!」

  宝物のような日でした。息(いのち...古語では同義)を聴き手に届ける、届けようと思ったところに届く、それが実際にやってみてわかった。フォーカスすることの意味がわかった。そして他のひとがなににフォーカスしているか見ていてわかるようになりました。


  なぜうしろにひとがいるように、背中に口があるように発声するよう壌さんややまもとさんやさまざまな方が指導するのかわかりました。音は気導だけではないのです。前に飛ばしたいと思うほど後ろを意識する必要があるのです。.....イメージすることがなぜ必要かよくわかりました....そのまま聴き手に届くのです。

  つまり 今日 いままで学んできたさまざまなことが真珠のネックレースをつなぐようにつながったのです。ついでにステージに立ったときホールを自分のものにする方法も教えていただきました。

  もちろん すべての謎が解けたわけではありません。カーブメソッドは西洋の発声学の粋と思いますが、日本には古来からの方法がある。西洋の発声は澄んだ音をめざしますが、日本ではにごりが好まれ、尺八や三味線、琵琶もわざわざ音を濁らせ雑音をつけくわえますし、声もよくサワリといいますが障りのあるだみ声が好まれたりするのです。

  カーブのもっとも重要な呼吸法は日本の逆腹式に似ています。カーブのよいところを学んだうえで日本古来のものが付け加えられたらいいなぁと思います。

  さて、いよいよ あしたは最終日です。


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   カーブメソッドの講習を受けたからといって、なにかができるというのではない...と日原先生は言います。 (カーブメソッドとは骨伝導のハミングによる発声です)カーブメソッドとはゼロに戻ること。

   ひとはそれぞれ人生において挫折したり、傷ついたりします。それは身体に記憶されてしまいます。それをリセットするのは声...しかないとそのようにわたしは受け取りました。

歌うこと=話すこと=生きること=愛すること

自分を愛しなさい、愛して愛して...あふれた愛で他者を抱くように愛する...そして宇宙とつながる....

音は宇宙に空中にあまねく降り注いでいる、だれのものでもない、それをうけとめ、身体にとおしてはじめて声になる....

降り注ぐ光....とてもうつくしいそのイメージにわたしは思わず泣いてしまいました。語りについて感じていたこと....わたしが語るのではなく、ものがたりのうつわになるのだということ、ものがたりですらなく響きなのだということ....我の表現という皮相なものではないのだ..ということ....

...につながっていきました。身体に記憶された心のイタミ、それをリセットしてはじまる....わたしたちのグループではそれが表面にあらわれました。否定されたという想い、立場の違いによる齟齬をどうしたらいいのか....なんとか穏便におとなの立場で思いやって....と仲間をもどかしく感じていました。ところが帰りカフェでひとやすみしていたときとつぜん甦ってきたことば....

「わたしはあなたの語りをいいと思ったことは一度しかない」
9ヶ月前に信頼する指導者から聞いたことばでした。そのとき雨あられと突き刺さってきた耳を覆いたくなることばのかずかず...でもいちばん傷ついたのは敬愛していた指導者の口から出たわたしの語りへの否定のことばであることに思い至ったのです。技術などではなく、語りを否定されたことはわたしの人格、わたしの生き方を否定されたのとおなじでした。わたしは師の語り、語りへの想いに揺り動かされその足跡をただ追ってきたのでした。

  このときはじめてわたしはグループの方たちの気持ちが理解できました。ほしいのは共感だということもよくわかりました。
 
  カーブで求められた客観の立場で3月に起きたことを苦しいけれど再現してみました。....そのときすでに語りについての考え方の違いを感じていたのでした。....わたしは近代の語りとともにもっと古代にさかのぼりたかったし、身体の重要性を知り、身体と心と感覚と魂がひとつになった語りを求めていた..........語りの地平をひろげたい、会のために尽くしたいと考え努力をしがんばってはいたけれど、心底では疲れ果て飛び出したかったのかもしれない....身体の重要性を伝えるためのワークショップ、ヴォイストレーニングは成功をみました。けれども企画した一年がかりの講座を周囲の視線を気にし説得しながら推し進めるむつかしさも熟知していた....多くの妥協が必要なこともわかっていました....会の改革、それはいろいろな意味で両刃のつるぎでした。心のなかで私は自由になりたかった....だから起こったことは結果としてわたしの願いでもあったわけです。...私の心の底には否定されたことの傷だけでなく、逃げてしまったことへの罪悪感さえチリチリチリチリかすかにあった...と今、ようやく気づきました。それをいまときはなちます。自由になります。だいじょうぶ 身体の重要性、声について....気がついたひとたちがそのひとたちのかたちでつづけてくれるでしょう。

.......

  辞任と退会、決別のメールを送り、茫然自失の三ヶ月のあと、わたしはトマティスの朗読ワークショップに参加しました。ヴォイスヒーリングを体験し、青森や出雲にいってこの国のいにしえ...を語るための手探りをはじめたのでした。

  カーブでご一緒のKさんが「(ネロの)おじいさんの声は魂の声だった」と熱く感想を言ってくださいました。そのことばはどんなにわたしを勇気づけてくれたことでしょう。...Kさんやほかのみなさんともういちどやってみたいと思います。わたしのひそかなだいそれた望みは魂の語りのできるうつわになることでした....。


  立派になってはいけない、がんばらなくていい...と日原先生は言います。突然のUターンはできないけれど、...すこしずつ自分を認め愛せるようになりたいと思います。あたりの風景を見わたしながら自分をみつめてゆきたいと思います。

  どの歌もだれの語りもそのひとのたいせつな「今」なのです。仕事帰りの女性が辻に立ってハミングをしていました。その声がとてもこころに沁みました。いつもの見慣れたすこしわびしい地方都市の街路がとてもあかるくひろびろと見えるのを、わたしはうれしいようななつかしいようなくすぐったいような気持ちでみつめました。

  この世界は自分の聴力と観方でどうにでも変化してゆく....世界はそのひと固有のもの。そしてわたしたちみんなのもの、それぞれが自分を愛し、他者を愛することで世界もかわってゆけるのでしょう。


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   とうとうカーブメソッドの講習がはじまりました。講師の日原先生はうつくしい銀髪、静かで威厳があってそれでいてとても若々しく年齢はさっぱりわかりません。直接トマティス博士の教えを受けられたそうです。

   日原先生の講義と指導は想像以上のものでした。いままで幾人かの師から学んだことがパズルのようにつながってゆきます。内観と同時に外に向かってひらいている....昴の演出家、永実子さんから学んだことです....客観的にすべてが見えている...高見の見、世阿弥のことばです。....わたしは内観はできますし、ひらくこともできますが、ときとして...辛いときなど自分のうちに沈んでしまう...聴き手を置いていってしまうことがあります。カーブの個別の実習のとき、日原先生から「一生懸命になると周囲が見えなくなるでしょう」と指摘されギクリとしました。”声は人格である”トマティスのことばのひとつです。

   川瀬先生..(天音さん)から学んだのは歌うとき、自分のうちがわをすみずみまでよく見る...内観....と宇宙とつながることでした。日原先生はこういいました。まず自分を愛すること、愛して愛して あふれる愛でまわりのひとをつつみなさい....それから宇宙とつながるのです。」カーブメソッドはヒーリングではなくとても科学的なメソッドなのですが、自分の声によって自分を元気にする、めぐりのひとを元気にする....その途すがら傷ついた自分を癒してもゆくのです。それは長い年月をかければ語りをつづけることでできることでもありますが、カーブは最短でそこまで連れていってくれるでしょう。

   「聴くことのできない音は発声できない」これがトマティスの基本の考え方です。だから自分の声をよく聴く....よい耳を持つことは必須です。よい耳とはどういう耳でしょうか、巷にあふれる情報...耳から入る情報を取捨選択する、必要な情報をしっかりつかみ不要なものは取り込まない耳なのだそうです。たとえば工事の騒音のなかからも高周波をとりだします。耳は音によってエナジーの90%を得ている残りの10%を食物から得ているといいます。ですから自分の声をよく聴くことがとても重要になる。カーブメソッドとは自分のほんとうの声とであう場所なのです。

   ご自分のほんとうの声との出会いでわたしたちのグループのおふたりが泣いてしまわれました。こころをひらくことなしに身体はひらけない....それは身も心もふるわせることばでした。身体と心と声....そして宇宙とのつながりを取り戻してゆく最初の日 わたしたちはトマティス体操を含めさまざまなたいせつなことを学びました。あとの三日がこよなくたのしみです。


   メンバーは11名、英語コース、リラクゼーションコース、音楽コースを受けた方です。英語コースを受けられたビジネスマンで朗読ワークショップの一期、先日の発表会で幸福の王子をなさった方がいました。休み時間、そのKさんという方が「おじいさんの声を聴いて僕は泣いてしまいました。もう一度あの声が聴きたいです。」と真顔でおっしゃるのです。....ネロの祖父の声が聴きたい......聴く人の心に響いた....それは語り手としてとてもうれしいことばでした。わたしはものがたりのなかでネロのおじいさんを生きたのです。カーブを学んだあともっとさまざまなことができるようになるでしょう、ひとりで、またさまざまな仲間たちと...。出会いが出会いを呼んで、閉じる関係ではなくてどんどんひろがってゆく。それはとてもしあわせなことです。

   地下の”葡萄の木”であたらしい友人とディナーをいただきながら語りあい、帰り書店で手にとったのはゴールズワージーの”林檎の木”でした。みずみずしい10代の頃のように、きんぽうげの咲き乱れる野が、金茶色の樫の新緑が、幹に苔むした林檎の古樹にたわわな真白な花が咲いているさまが脳裏にまざまざと浮かび、絶望するミーガンとともにわたしは街をさすらいました。胸が引き裂かれそうに痛くて.....カーブは長年のあいだに感受性に染み付いた汚れを洗い流してくれたのかもしれません。....見慣れたはずの駅構内はいつもより空間がひろく視野は遠くひろがって見えました。



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火花  


.....トマティス聴覚トレーニングに行きたいと思いました。
会社をそうそうに終えるも市ヶ谷についたのは、夜8時過ぎでした。今日は1時間30分のトレーニング、ヘッドフォンをかけてカウチに横たわります。

   モーツァルトから入りました。 炸裂する色彩...黄、緑、紫、オレンジ
.....音声にはフィルターがかかっているのですが、あざやかな色彩は音の変化につれ点滅しかたちを変える、消えては浮かび上がる。

   エクスタシーと苦悶、頭頂から足先まで光がつきぬけてゆく....カウチのうえでわたしは幾度も身をよじりました。荒地、草原、森、体内の細胞と思しき映像
砂地、岩盤に湛えられた水の波紋、....見知らぬ風景が浮かんでは消え浮かんでは
消えてゆきます。

   そしてグレゴリア聖歌
頭蓋骨のなかが教会の大伽藍になったようでした。深い声が伽藍に響き渡ります。

かみさま...かみさま....わたしは呟いていました。そうだ...わたしはずっと神を求めつづけてきた....

自己犠牲...堀井先生の朗読シアターではなぜ自己犠牲のものがたりが多いのだろう....幸福の王子....フランダースの犬.....ごんぎつね....

発表会の日 わたしは聴き手のまえでほんとうには開いていなかった....半ばは自分のうちに向かって、語っていたのだ....集中とひらくことがかさなったとき、澄んだまなざしで、客席のひとりひとりを見わたせる...そのとき天とつながっているのだ

わたしの神とはいったい、ヨシュアなのか.....それとも縄文の自然伸なのか...みなつながっているのか.....どうか子どもたちをお救いください....わたしはどうなってもかまいません。

きれぎれの想いがかけめぐり、わたしはなみだをぽろぽろ流していました。
そして真っ白な光につつまれました。

トレーニングが終わって、ヘッドフォンをはずしわたしはよろよろ立ち上がりました。ながい旅の終わりのようでした。

トマティスメソドとはただの発声ではありません。
すくなくともわたしにとっては....

金曜日から4日間カーブ発声の講習会がはじまります。
いったいなにがはじまるのか、それとも終わるのか....そのさきにどんな扉がひらくのか....胸の奥で太鼓が轟くようです。





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   ステージに立つことはひとを活性化します。血が騒ぎ、血管に漲り.....そしてあの孤高の一瞬がある、逃げようにも逃げられない自分を信じ賭けるしかない一瞬がある....聴き手との交流がある.....今回の朗読ワークショップの発表会でも、それを知ってしまったひとたちがいます。昂揚...インスピレーション...達成感.....さぁ彼らはこれからどうなるでしょうか? 問題は実はこれからなのです。

   生命が声にこもっている、それだけでひとを感動させることができるのだ....とわたしは今回しみじみと思いました。くせのない素直なわかい声はうつくしい...わざもなにもなくても聴く人の魂に響き揺り動かすことができます。指導者のH先生がなさったことの多くはアクセントのくせや語尾をひっぱったり、消えかかってしまうくせ、あるいは芝居がかったくせを修正することでした。一度ついてしまったくせは自分ではわからないし、なかなかなおりにくいものですが、10回ほどのレッスンとそれぞれの努力でみるみるうちに修正されてゆきました。それとともにそれぞれの個性がにわかに耀きだすのを目のあたりに見るのは実に愉快でした。

   もうひとつの指導は動機...だったように思います。そのことばを発するには必然の動機があるわけで、その心情に気がつかせる....するとものがたりの登場人物が生きてきます....今まで苦しんできたのがうそのように表現する喜びを知り有頂天になり、もっと表現したくなる....。けれども自分がうまい...と思ったらそれは即声に出てしまう....声とは実に精妙な楽器でなにも隠しようがないのです。若い方々が一層の修練をたのしみながら積まれていくように願ってやみません。

   わたしにとっても今回のステージは特別のものでした。出番になってことばを発する前の恐怖感といったら.....。いつも思うのです。.....なぜこんなことはじめたのだろう....けれども終わるとまた次を考える.....11月、12月、2月、そしてその次.....今、自分にできる最上の語りを手渡したいと思います。とても不思議です。なにかが起きるたびに、それは発表会であったり、会社が盛り超えるべきさまざまなアクシデントであったり、一通の手紙であったりするのですが...わたしの内部で目覚め羽ばたくものがある。施された封印がはがれわたしはすこしずつ自由になる.....

   出雲で願った四つの願いのひとつ、内なる封印の解除とは突然雷が落ちるようになるのではなくステップを踏むように成就してゆくのだとわかって、目の前にある登攀不可能な山も越えられるのではないか...みっつの願いすらかなうのではないかと....わたしは慄きつつ思うのです。






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  ほんとうにひさびさの休日....仕事もワークショップもなく旅行でもなく家にいられる素敵な日、娘を試験場に送った帰り道、あたらしいカフェをみつけて末の娘とモーニングサービスをいただきました。木の香り、テラコッタのタイル、ピアノの音色...祝祭日の気分です。

  いい材料をつかって、心をこめてこしらえられた料理は身体も心も癒してくれます。焼きたてパンに手づくりのジャム、淹れたての深煎りコーヒー....でほっこりして、家に帰ったら家事さえも楽しい。洗濯と掃除のあとテレビをつけたら、バドミントンの決勝生中継がはじまるところでした。

  君臨してきた小椋潮田ペアが解散するとかでオリンピック四位入賞の末次前田ペアと優勝をかけて最後の戦いなのだそうです。.....息もつかせぬラリーの応酬でした。.....なんてうつくしいんだろう。ダブルスのふたりの選手の呼吸、まなざし、躍動する肢体、わたしは魅入られてしまいました。集中する目、その目には余分なものはひとかけらもない....ことにオグシオと呼ばれるふたりの...透明な...と言ったらいいのか熱に浮かされたようなといったらいいのかまっすぐなまなざしはいまもわたし自身の目に焼きついています。

  夜はフィギュアのグランプリシリーズフランス大会の放送がありました。浅田真央さんの身体から変わっているのに驚きました。研ぎ澄まされたような肢体の美しさ、ステップやスピンの優雅なうつくしさ....素人目にもわかる難易度の高さから彼女が果敢な挑戦をしているのがわかって、思わず慄きました。残念なことにまだプログラムが自分のものになっていないようで失敗もあり、二位におわりました。おそらく浅田真央さんが昨年までの延長上で演技をしたのなら、ずっといい点がとれたと思うのです。

  でも、真央さんは自分のフィギュアスケートの世界をもっとひろげたい、限界に挑みたい、もっと美しくもっと優雅に観客にモノガタリを届けたいのだと思います。それは競技に勝つためでありながらアーティストの生き方でもあって、各国の選手たちが綺羅星のようにいならぶなかで、そのあこがれに似た挑戦が浅田真央さんをひときわ輝かしくしているように思います。ルール改正もあって女王を維持するのはむつかしいかも知れないがメダルだけではない...とわたしは思います。そのあきらめることも飽くこともない挑戦は見るものにどれだけ勇気をくれることでしょう。プログラムでしめされるものがたりの奥に浅田真央さん自身のものがたりが見える、また小椋潮田ペアのプレイにふたりのドラマとふたりの歴史があるからわたしたちを揺り動かすのでしょう。

  語りもそうなんだと思うのです。ものがたりのむこうに語り手のモノガタリが見えるのではないか....かさなりあったものがたりが聴き手の心に響くのではないか.....わたしはそういうモノガタリを聴きたいと思うし、自分でもそのように語りたい.....アスリートたちから学ぶことはたくさんあります。集中、大胆さと繊細さ、ミスしたとき持ち直す精神力、そして身体のコントロール...磨きつづけること。....というわけで 今夜わたしはしっかりトレーニングをして、ビウエラのレッスンもみっちりいたしました。これがつづくといいのですが....。




※ 前回のブログでテキストから離れて....というのは勝手に語る....という意味ではありません。テキスト...原稿の「文字」からはなれものがたりの本質を語るという意味で書いています。

  

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.....朗読劇のワークショップの発表会が終わりました。ひさびさに感無量でわたしは帰りの電車の車窓を過ぎる潤んだ街あかりをぼんやり眺めておりました。青森と出雲の旅をはさみ今回のワークショップでは三回の練習に参加するだけだったのみならず、わたしにいただいた配役がことのほかむつかしく思われて、なんとなし手をつかねたまま、今日をむかえてしまったのでした。

  「フランダースの犬」のネロの祖父、ジェハン・ダースじいさんは86歳の無学の老人です。亡き娘のわすれがたみネロをひきとって育てているじいさんは、ネロと老犬パトラッシェと肩を寄せ合って暮らしています。孫の絵画に寄せる熱い想いも知らず、つつましく日を送る老人の孫に寄せる愛をどのようにことばにしたらいいかわたしはこれはという確信を持てずにいました。

  「よだかの星」では語りの真ん中の部分、山場がないシーンと三つの星の台詞でした。わたしはもともと声色をつかったり芝居がかった台詞はあまり好きではありませんでした。語りの定石といいますか、気持ちを切り替える....その台詞を発するひとやものの心持になって語る....そんなふうにしてきたのです。しかし堀井先生の指導では....コップの水の中に飛び込むのが一等だ....これは皮肉なんだよ......星になるにはそれ相応の身分でなくちゃあいかん、それにまた金もいるのだ....ここは悪代官のように....といった具合で、それにその台詞のあと場面転換しドーーンと音楽がMAXになるので相応のボリュームのあるインパクトのある台詞でなくてはなりません。

  わたしはハタと考えてしまいました。大風な台詞というのはどうも気持ちがいかないのです。これが解決できたのはある時、よだかが宮沢賢治自身ではないかと感じたことにありました。すると星々はおそらく文学界の大家であったり、批評家であったりするのだろう。それらのひとびとが戯画化されているのなら、語りだってカリカチュアにしてわるいことがあろうか....そこで三人の性格をかんがえて、最初の大犬座はスポーンと頭から飛びぬけた声を出してみました。これは阿部さんの語りを聴いていたからできたことかもしれません。...それが今日のことです。...は上品で冷たくシニカルに、わしは金権おやじらしく....やってみました。

  フランダースの犬...では台本を間違えよだか。。を持っていってしまい、なんとかステージまで届けてもらったのですが、自分の台本でないことから....これはまことに不思議なのですが、まったくものがたりが見えてこない....それで、台本から離れて語ってしまいました。....「俺たちは貧乏だ。神さまがくださるものはいいものでもわるいものでもなんでも受け取らなくてはいかん....」ここは少々ひっかかっていて貧乏であってもなくてもひとはさだめを受け取るのだ...とこの七日間で身に沁みていたので、もうほんとうにギリギリのところまで語りました。それで、星のようにつくるのもダースじいさんのように心情を吐露するのもここまでできる...という確証を手にしたように感じています。

  このようにおなじ台詞でもふたつの側面から...架空のもの、人生そのもの...表現のうえにおいてもいままでの自分の境界を超えられてとてもうれしいです。実際 朗読ワークショップはおもしろかった、朗読と語りの違いと思われるものが身体でわかった、しかし本質は変わらない....テキスト(の文字)からどれだけはなれ、五官の感覚、また魂を乗せられるか、そしてインスピレーション....即興部分の拡大。ほんとうにおもしろかったです。


  テキストやものがたりと自分の内なる心とのせめぎあい、その葛藤はマチガイなくなにかあたらしいものをもたらします。みんなでひとつの世界をつくりあげてゆくのはとてもたのしい、けれども、終わった今、わたしは「語り」たいとしみじみ思っています。  


  

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