遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  昨夜(13日) 埼芸の芝居を観た。埼芸の演出家である川村さんとは久喜座で芝居をしたとき出会い 幾度か話をさせていただく機会があった。打ち上げで「どこでもいいから芝居を続けなさい」とわたしにとっては身に余ることばをいただき、しかし夫が倒れたことから 役をいただいたときには日常生活とかけ離れた感覚を持ち続けなくてはならず 現実においても時間の多くを捧げなくてはならない芝居をつづけることは到底不可能となり えにしも途切れてしまっていたのだ。

  それが つい先日 ちょうど川村さんとの約束が果たせなくなったことを考えていたそのときにメールがきた。「夏の盛りの蝉のように」という芝居を上尾でするから・・というたよりだった。観たらつらいだろうと思いながら行かないわけには行かなかった。作 吉永仁郎 「夏の盛りの蝉のように」は巨星葛飾北斎のめぐりのひとびとのものがたりである。・・天才はめぐりのひとびとの人生をいやおうなく自分の磁場にまきこんでゆく。登場人物は北斎の娘おえい 歌川国芳 渡辺崋山 北斎の弟子 北馬 そして国芳のモデルであったおきょうという女性の7人。おきょうをのぞき 浮世絵にとり憑かれたひとびとの群像であった。


  いつものようにアマチュアだからという甘えの全くない締まった舞台だった。ことに二幕目には息をつかせないものがあった。「絵は絵だ! ただの絵に過ぎない!」と言ったのは北斎だったのか 崋山だったのか 「・・だが絵はひとびとを社会をほんのすこし揺るがすことができるのだ」 この台詞にわたしは胸を突かれた。たぶんこの戯曲を書いた作者も「絵」を「芝居」の置き換えて書かれたのではなかろうか。わたしは語り手だから ・・語りは語りに過ぎない・・・それでいい・・・それでもと思う。「語り」はひとのこころに響く。多くの語り手たちがもっと多くのひとびとの心に響かせることができるなら・・・社会にむかって世界に向かってうねる波 とよもす響きとなって 重なり合い 流れを変えてゆく一助になるのではなかろうか?

  芝居でも歌でも語りでもアートというものはそうした力を持っているのではなかろうか。


  友人から一冊の本を贈られた。それはマーガレット・リード・マクドナルドさんが書かれ 語り手たちの会の末吉正子さんが訳したストーリーテリング入門という本である。マーガレットさんは民族学博士でありまた長年図書館司書をつとめられた。子どもたちを愛しストーリーテリングの松明を引き継ぐひとたちのために書かれたこの本は、語りを包括的にとらえた入門書であり、初心者に踏み出す勇気を まだあるきはじめたばかりの語り手に自信をあたえ 中堅に自分の語りを見直すきっかけとなる好著と思う。お話編には魅力的なものがたりがならび 一方多くの索引からより深く学びたいひとへのしるべともなるだろう。

  わたしがもっとも共感するのは第十二章、「語り手としての役割を受け入れる」である。その1「おはなしを聞いている」段階からはじまってその4をマクドナルドさんはこう定義する。「おはなし(ものがたり)はそのひとの信念を反映し、ひとの経験や価値観をあらわしていることに気づく」・・・わたし自身もその過程を経てきた、そして今読んでいらっしゃるあなたが語り手であるなら 良い耳を持った聴き手であるならおなじように思われるだろう。それを知ったとき語り手はより強く「語り手になりたい」と願うのだ。自分を磨きつづけなくてはならない長い旅のはじまりである。 

  そして第十六章でマクドナルドさんは・・おそらく一番重要なことは、お話(ものがたり)はわたしたちの絆をつくり、傷を癒してくれることではないでしょうかと語りかけ 全米ストーリーテリング保存育成協会の会長レックス・エリスさんが述べたことばを紹介している。「」わたしはストーリーテリングの力こそが、わたしたちが住むこの社会と愛するひとびとを向上させるための、最高の希望の種ではないかと、こころから信じております・・後略。



  語りは語りに過ぎないかもしれない。だが 志ある語り手がひとりまたひとりふえてゆくなら わたしたちの住む社会を わたしたちが住む地球をよりよいものにかえてゆく力となるとわたしは信じたい。

  


  

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