飯能の空は青く 緑は夏も終わりというのにみずみずしかった。
葬儀無用 戒名無用 と言い残したという康弘は荼毘にふされた。
あつまったわずかな親戚や友人たちや康弘の想いびとが去ったあと
窯の前で わたしは経をあげた。
ときおり燃え盛る炎にパキーンと内臓が破裂するような骨が割れる
ような音が聴こえた。
そのうちがしごとの邪魔だからどけといった。これはわたしの
役目です と言うと二階で待てと言う 壁の影にさがった。
どうみても邪魔になるような場所ではなかったが 外へ出ろという。
玄関の外ドアと内ドアのあいだで わたしは祈事をとなえた。
すると ぐんぐんと からだのなかから熱くなってゆく。
いつもながら不思議だ、きっと康弘に届いていると思うと 声が
震えた。
終えたあとの安堵と虚脱感 照りつける日差しが肌を焼き髪を焼く。
康弘 こんなにかんたんに逝ってしまうんだね。
滅多に会うことはなかったけれど 会えないけれどどこかにいるのと
この地上のどこにもいないのとは こんなにも違うものか...
あなたのいた痕跡は時とともに消えてゆき 残されたひとの心に
かすかな痛みとなって残るのみとなろう そのひとたちも死にゆ
けば あなたの18180日はあとかたもなく消えうせる。
面影も日々の暮らしのなかで追った夢ものぞみも愛も。
だから せめて わたしはここにしるしておこう。
日本で唯一の革命といわれる 秩父事件 革命の事実上の指導者は
加藤織平といった。織平は義に篤く困っているひとに金を貸した。
亡くなった康弘は加藤織平の玄孫だった。
秩父事件はどのように起こったか
当時 秩父は名高い養蚕地であったが 生糸の暴落と松方財政に
よる増税 村民の苦しみにつけこんだ悪徳高利貸に村人は苦しみ
娘を売る者さえいた。自由民権運動と禊教の影響を受けた人々は
減税と高利貸 役所の帳簿の滅失の請願を求めてひとびとは立ち
上がった。明治17年10月31日下吉田 椋神社にて蜂起。シャドウ
キャビネットを有し 自由自治元年という私号を用いたが明治政
府により11月4日鎮圧される。一部は長野県佐久に逃れ長野の人
たちとともに戦うが11月9日鎮圧され 14000人が投獄され首謀
者7人は死刑宣告を受ける。織平の妻は織平の遺体を大八車にのせ
熊谷監獄から秩父の山奥まで運んだという。
康弘の幼稚園来の友人たちに訊いたところ 彼が怒ったところを
見たことがないという。やさしかったという。いつも穏やかで
気配りとほほえみを絶やさなかった。あのような人間をわたしは
見たことがない。亡き叔母から聴いたことがある。康弘は次男で
あったが最初の給料をすべて叔母にわたしたという。それからも
叔母を支え続けたという。叔父はお金を一切家に入れないひとだ
ったから 叔母はパートに出て子どもたちの学資を捻出していた
その苦労を忘れなかったのだろう。
康弘が不帰の人となったのは旅先の佐久だった。愛するひとと
一緒だった。ふたりは法的な結婚をせず子どもを持たない関係
を選んだ。
年が離れ過ぎていたから 深く語り合う機会もなかったがわたし
は ピュアなしいものでも見るように眺めていたような気がする。
ひとの命はあっというまに燃え尽きる。悩み 苦しみ、ささや
かなぬくもりと笑いを支えに 懸命に生きる日々も ある日
突然 灯が消えるように消えてしまう。笑顔も足音も声も 二度
と甦ることはない。
幾千幾億のいのちが 煌いたと思うとつぎつぎに闇に没してゆく
そして ひとつひとつのいのちのものがたりがかさなりあって
つなぎあって 国のものがたりを紡いでゆく。
だから 忘れられない 忘れたくないものがたりを書いてゆこう。
6000もの7000ものものがたりを。
だから 命を寿ごう。康弘 わたしはあなたがとても好きだった。
あなたのものがたりを胸に抱いて生きてゆこう。やがて会う日まで。
付記
※禊教とは伯家神道に学んだ井上正鐵(いのうえまさかね)が起
”とおかみえみため”の教えから発したもので、伯家神道とは白川
王家に伝わる古神道、古代より宮中祭祀の一切は伯家神道によった
のだが、明治時代 国家神道に代わられ 白川王家は絶えてしまった。
------ 新天皇即位のとき 伯家神道による祝の儀式が必要だが
この儀式を受けない天皇が五代つづくと 国?は滅ぶと言われる。
明治 大正 昭和 平成 令和 ....
果たして 東京明治天皇はお受けになられたのであろうか。
※とおかみえみため
康弘が亡くなった21日 わたしは偶然 おはなし会でこどもたち
にとおかみえみためを教えていた。
遠つ神 笑みたまえ
※村上泰治
10代の細面の美少年ながら秩父事件の精神的柱
自由党党員 禊教教師であった中庭蘭渓に師事しやがて頭角
をあらわし自由党の麒麟児と称される。
明治17年6月 東京で逮捕され 浦和拘置所に収監される。
妻はんは20キロの道をあるいて 拘置所に差入れに通うも
なかなか会わせてももらえなかった。
明治20年 拘置所内で亡くなる 死因は不明。
はんは 買える限りの花々を棺に入れ見送ったのち行方知れず。
このものがたりを昔 語りました。
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