遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

天皇皇后両陛下 慰霊の御旅

平成6年2月12日 硫黄島

--戦後50年--

平成7年7月26.27日 広島・長崎

平成7年8月2日 沖縄

平成7年8月3日 東京慰霊堂

--戦後60年--

平成17年6月27.28日 サイパン

平成17年7月4日    終戦60周年記念行事「戦没殉職船員遺族の集い」

平成17年8 月29.30 日  長野県行幸啓(南牧村野辺山地区開拓地)

平成17年 9月2 日  栃木県行幸啓(那須町千振開拓地)

平成17年10 月11 日  神奈川県行幸啓(戦没船員の碑)

--戦後70年--

平成27年 4月8.9 日  パラオご訪問(西太平洋戦没者の碑等)

平成27年 4月16 日  高尾みころも霊堂行幸啓

平成27年 5月26日  東京都慰霊堂行幸啓

平成27年 6月10 日  神奈川県行幸啓(戦没船員の碑)

平成27年 6月17 日  宮城県行幸啓(蔵王町北原尾地区開拓地)

平成27年 8月11 日  広島市被爆70周年記念事業 広島交響楽団 平和の夕べコンサートご鑑賞

平成27年 8月22 日  長野県行幸啓(軽井沢町大日向開拓地)

平成28年 1月26-28 日  フィリピンご訪問(比島戦没者慰霊碑等)

平成28年 4月9 日     ペリリュー島ご訪問

 

 オレンジ色はいわずとしれた激戦地  天皇陛下の慰霊の旅は硫黄島からはじまった.... 硫黄島は栗林司令官のもと 2万の将兵...ほとんどが年配者と少年兵だったという...が素手でトンネルを掘り徹底抗戦した。小さい島で川もなく 司令官から一平卒まで一日水筒いっぱいの雨水でしのいだ。補給路も絶たれ食料もない。3月16日 本部に決別電報を打電 全員玉砕した。米軍は屍の上に滑走路をつくった。一般人は硫黄島にわたることができない。自衛隊隊員はコップ一杯の水をドアの外に置くとか....

ヒロシマ ナガサキ オキナワ は言うに及ばず

東京慰霊堂は関東大震災の死者のためにつくられた。東京大空襲の死者を弔う供養塔はアメリカの意向を慮って建てられなかった。それで東京慰霊堂に祀られている。

紫の長野 栃木 宮城は 満州開拓団を多く輩出した。国策で満州に渡った開拓団は辛酸をなめ 多くの死者 子殺し 残留孤児を生んだ。ソ連の満州侵攻(20年8月8日)で満州に置き去りにされ シベリアに拉致された民間人 満蒙開拓青少年義勇軍も多くいたと思われる。中国大陸 韓国 北朝鮮を ご訪問なさることは不可能とて 国内の慰霊となったと拝察する。平成28年11月17日 には満蒙開拓平和記念館をご訪問されている。

高尾みころも霊堂は 昭和22年以降の産業殉職者を顕彰する霊堂である。最初は太平洋戦争において軍需産業で働いたひとや同じく劣悪な環境で亡くなった学徒勤労動員の少年少女の慰霊のためかと思った。だが戦争は昭和20年に終結している...ヒントは駐車場だった。みころも霊堂の地下には浅川地下壕があって そこは中島飛行機(零戦)のエンジンをつくる工場があったらしい。駐車場は朝鮮人労働者の飯場があったところらしい。ご真意は計りしれないが。

戦没船員とはなにか 軍は7000隻の民間船を徴用した。そのうち4000は漁船などのちいさな船だった。乗組員には少年たちがいた。死亡率は兵隊より高く実に43%という。16歳の少年水夫の 母上さま と言う手紙が忘れられない。

 

母上さま      北海道 国仙輝男 16歳

母上 もう自分は死を決心しております。このまま死ぐと思ってください。あの原であの野で見たうつくしい花 あのうつくしい元山 かもめ島….. もう自分は 一生 故郷へ帰れないと思っております。(もう自分の決心は決まったぞ さらば故郷よ。) 母上さま くるによかったら きてください。もう自分は故郷にはかいりません。では 母上様 最後のため きてください。(5月21日 海軍大将 山本五十六が死んだのだ。だから 自分が死ぐのはあたりまいだ。)母上様 自分はまことに親不孝でございます。どうぞ ゆるしてください。母上さま 最後にどうかきてください。手紙のつきしだい たのみます。今会わなければ 自分は 一生 あひません。 .....一部略

                                           昭和19年 10月8日 フィリピン 戦死

戦没船員の年齢別分布
年   齢 人数(推計を含む) 比率
14 987 1.63
15 2,866 4.73
16 3,182 5.25
17 3,967 6.54
18 4,204 6.94
19 3,842 6.34
20才未満小計 19,048 31.43
20以上30未満 16,601 27.39
30以上40未満 13,188 21.76
40以上50未満 8,534 14.08
50以上 3,238 5.34
合   計 60,609 100%
 http://www.kenshoukai.jp/taiheiyo/taiheiyou01.htm

天皇陛下は 軍人だけでなく戦争で亡くなった民間のひとびとの霊を慰める旅をつづけていらした。そして 平成28年8月 生前退位のお気持ちを語られた。そこに天皇陛下の御心を思い わたしは胸があつくなった。先帝陛下のなさった替わりに御自ら行脚なさったそのお気持ちを思った。けれども 昨夜もうひとつおもいあたる節をみつけて慄然とした。

 



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知人に遺族特別弔慰金の手続きをしたというひとがふたりいた。弔慰金の支給順位 ①配偶者 ②子 ③父母 ④孫 .... そのひとは孫にあたるらしい。何年分か知らないが25万円と言っていた。生活に困っているひとではない。

日本という国は 戦地で亡くなった方々 兵士・従軍看護婦については 戦後手厚く 礼を尽くした。しかし戦争で亡くなったり けがをした民間人 戦争孤児については一顧だにしなかった。戦争孤児で裁判を起こされた方がいたが敗訴が確定している。おなじ敗戦国でもドイツとはおおいに違っていた。戦争は国が起こした。昭和19年6月マリワナ海戦で日本は制空権を完全に失い もはや死に体だった。けれども勝った勝ったの大本営発表で国民を騙しつづけ 徒に戦争を引きのばした。

もしも 昭和19年中に戦争をやめていたら ヒロシマナガサキでまた各地の大空襲で30万のひとたちが生きながら焼き殺されることはなかった。沖縄でひとびとが絶壁から身を躍らせることもなかった。満州に国策で開拓に従事したひとたちが逃げ惑うことも収容所で餓死凍死病死することもなかった。シベリアに十数万の同胞が抑留されることもなかった。そのなかには15.6の満蒙開拓青少年義勇軍の子どもたちもいたのである。80万の民間人の死に政府は報いたのだろうか。

特別遺族弔慰金に異を唱えるつもりはないが 国による死には兵士も民間人もないのである。いのちの価値は民間人も兵士もかわりはない。学徒勤労動員で死んだ少年少女 ヒロシマナガサキ 各地の空襲で死んだ女子どもはもう声をあげるすべをもたない、ただそれだけ 遺族会にはちからがある ただそれだけ。

... だから せめて 今 6人にひとりという貧困家庭の子どもにも国の愛をと思わずにはいられない。望んでも教育を充分に受けられない子ども .... 夏休みのあと 体重が落ちる 十二分に食べられない子どもがいる。声なき声に耳をかたむけるのが政治だとだれかがいったけれど 大きな声にもちいさな声にも声なき声にも 報いる政治であってほしい。



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おおるり の名は聞いていたが まぢかに見たのははじめてだった。図鑑で見たよりずっとやせてすんなりしていて 紫紺の翼は金粉をまぶしたようにきらめていた。あんなにうつくしい鳥は見たことがない。

寒い冬 食料が乏しく 家の庭のみかんをめあてにきたのかもしれない。足にからまっていた糸をほどくと 低く飛び去った。どうか カラスに捕まらぬようにと祈った。飛んでいったあとで あ あれが青い鳥だ! と思った。助けてあげたから わたしたちしあわせなれるかな と娘がつぶやいた。

今 あなたといるこの一瞬がしあわせだよ と心のなかでわたしは思った。

 

あたらしい年 ブログをかきはじめるのが 紀元節だなんて ... どういうこと? もはや ブログに書くことはあまりないと感じていた。行動しかないと....。秋から冬にかけて 1000人ちかいわかいひとたちに語ってきた。

今朝 古本屋から取り寄せた数冊の谷川健一の著作を読んで 柳田國男のことばにゆきあたった。.... 特段のいいことをするのでもなく わるいことをするのでもない 伝えることばを持たないひとびとの きえさりゆく人生の周辺に目を向けるのがフォークロア 民俗学であると ....

それならば わたしがこの10年 人と出会い寄り添い聞かせていただき 書き留めてきたものがたりを語ってきたこと これも民俗学の一端なのだ。戦を生き 戦後を 風に吹き飛ばされそうになりながらいき続けたひとたちの人生をイデオロギーを峻別し 託されたそのままに語ること。

予科練を志願し昭和20年4月6日菊水一号作戦で散った弟  戦火のもと 親と死に別れ 騙され 売られ 殺されそうになりながら 生き抜いてきた子ども  ジャングルで人肉を食ろうて生き抜いた兄の魂を救おうと生きてきた弟 空襲で見ては成らぬものをみて65年PTSDにさいなまれたひとがどのように救われたか ... 零下40度のシベリアで強制労働につかされた少年がなぜ生き延びられたか

そこには 人智では考えられない不可知のものが存在した。運命というもの 天の援けというものがあることを確信せざるを得なかった。その方たちに語られたものがたりにどれだけちからをもらったことか。

 

わたしはなかまと語らい 伝え 鍛え続けた。自分自身と向き合うことが辛くて去っていったひとも幾人かいる。苦しいこともたくさんあったし 悲しいこともあったけれど それももう終わりだ。3/25 主催する最後の会のために 今一度 白紙になろう。まっしろになって 降ってくるものがたりをまとめよう。

書くだけではなにも変わらない。声の響きにのせて聴く人の魂に届けること。そのとき 過酷な12時間労働に耐え切れず命を絶った蒼白な少女たち 戦後病でいのちを落とした少女たちの手向けになる。そのとき 未来の母たる少女たち 子どもたちの平和なあしたにつながるささやかだけれどたしかな息吹となる それのみをよすがにものがたりにし 声の響きにのせて伝えよう。

 



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