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遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  早く目覚めたので 五説経を読み直して見る。愛別離苦 勧善懲悪 もうすこし 今の語りにできないだろうか 照手という名は衣通姫につながる 信徳丸が継母の呪いで カサ病みになり親に棄てられ物乞いをしながら 巡礼する。今は表面上 街中に物乞いはいないから どうすれば若いひとに伝わるだろう。イメージで? 語り手が強いイメージを持てば伝わるだろうか。

  子どものころ おこもさんが門付けにきた。おさだおばちゃんは握り飯をわたしたり小銭をくれたりしていた。歩いていても 顔中できものだらけの子どもの手をひいた貧しげな母親が所帯道具をふろしきに包んで歩いていたりした。そこにはある超越した近寄りがたいものがあって 幼いわたしは夜 うなされたりしたのだが、昔は洋の東西を問わず 旅人や乞食には神が宿っているという信仰に近いものがあったのだ。だから 旅のひとを篤くもてなした家やひとに幸いがもたらされるという話がたくさん残っている。

  今は牛や豚や鶏をするところを子どもは知らない。乞食も知らない。見せしめの刑罰も当然知らない。ひとが病で死ぬところすらあまり知らない。すべては見えない闇のなかで行われる。現代の生活はうわべは清潔でうとましいことなどないように見える。良し悪しは別にしてそれは幸福なことだろうか。だからひとの心の奥底で闇が蔓延するのではなかろうか。

  生も死も聖も穢れも罪も罰も ひとの生きることに関わるすべてを人は知るべきではあるまいか。 五説経を読みながらこんなことを思っていた。できようならば せめて語りで眼前にこの世の光と闇をひろげてみよう、美しいもの清いものばかりでなく。闇があるからこそ光は耀く。

  

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  今日は痛くて一日寝ていた。夕方になって寝床の右手の低い箪笥に積んであった本に手をのばす。本棚はリビングにあって わたしの部屋にはない。箪笥三つに詰め込んでいるが溢れだして部屋を侵食している。開いたのは「青空のむこう」という本だ。装丁に惹かれて買ったがたぶんロマンティックな 少女向けの本だろうと読んではいなかった。

  読み口は甘かったが それは死後の世界のものがたりだった。事故で死んだ少年ハリーは死者の国 黄金色の夕陽の国にいる。死んだ日に姉になげつけたことばが気になって 青空の向こうに行けない。ハリーは禁じられた生者の国へ脱け出す。生者の国ではすでに数週間の刻が過ぎ去っていた。ハリーは渾身の力を振り絞って姉にメッセージを伝える。心残りはなくなった。青空の向こうは混沌の海 ハリーは思い切って飛び込む、ふたたび生れかわるために。

  草は萌え 緑したたり 花々が咲き誇る季節がくる 夏がきて 秋が来て 花は枯れ 草の実は地に落ち 木々の葉も散りはて 寒々とした冬がくる。しかし 冬のあいだに 地に落ちた種は根を張り 木々の芽はふくらみ やがてくる春を待っているのだ。年は過ぎ 風景は跡形もなく変わっていっても 自然の営みは変わることはない。

  ひともおなじこと 生命は死で終るのではない。死とは冬のように実は豊かなものなのではないか。生は死 死は生 大昔のひとたちはたぶんそれを知っていたのではなかろうか。ケルトの戦士たちは死を恐れなかった。ネイティブアメリカンも恐れなかった。きのう ブログを書きながら 死を忌避しようとしたことから 人間は自然と袂を別ったのではないかと感じた。

  わたしも死ぬことは怖い。未知なる冒険だから。けれど一番怖いのは死ぬ前に やるべきことが終っていないことだ。魂の不滅を固く信じていても....というのは自分でも体験したし 数名の近しいひとの死に立ち会って不思議なことを体験したからなのだが....このわたしという試みは一回限りだと知っている。あの世には自分の魂のほかなにひとつ持ってはいけないのだ。熟した実が落ちるように 枯葉が新しい芽に押されて落ちるように 為すべきことを終え 感謝のことばを伝え 思い残すことなく行けたらどんなにいいだろう。

  もう一冊は塩野七海さんの「緋色のベネツィア」だった。塩野さんの簡潔な文体が気持ちよい。ベネツィアの落日の頃 トルコやハプスブルグ家が鬩ぎあっていたころの物語。死んだあとはすこしのあいだ どこにでもゆけるそうだ。空が飛べたらもういちどベネツィアが見たい。洋上に忽然とあらわれた虹の都 その美しさに息をのんだアドリア海の真珠 ベネツィア。

  そのあとCSSをつかってブログのカスタマイズをしてみる。タイトルの画像がUPしない。フォントやカラーも ビルダーでやるようには思うようにならないが ともかくこれですこし自分の部屋らしくなった。

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      椋神社

 楽しみにしていた15日。古典を学ぶ会の企画「秩父事件を訪ねて」に参加させていただく。語り手として「秩父事件」を語るのは夢のひとつだった。10000人ものごくふつうのひとびとが時の政府に闘いを挑み あわよくば天下をくつがえし 世直し、世均しをしようとした秩父事件。現場を見られるチャンスである。最初に訪ねたのは井上伝蔵の家を移築した記念館。井上伝蔵は死刑の宣告を受けたが、その前に逃亡し 北海道に渡り名を変えて妻子を持った。亡くなる間際に自分の前身を家族に告げたという。

 つぎに蜂起ののろしが上がった椋神社へ向う。空を澄み境内は森閑としていた。100年ほど前の11月1日、3000人のひとびとがあつまり、有名な五箇条が読み上げられたのである。それはこの場で草案されたものという。

 それから加藤織平の家の前でバスを降り墓前にぬかづく。織平は自身も金貸しをしていたが、困窮している百姓を見かねて証文を破棄したという。人望があったことから副首領に祭り上げられ 刑死した。加藤織平を誘った近所の落合虎吉は刑を終えたあと加藤織平の墓をたてるべく奔走した。官憲は後ろ向きにたてろと言い、落合寅吉は決死の覚悟で腹中に九寸五分の包丁をしのばせ、官憲と向き合った。青空の下 墓は堂々と道に向かって立っている。

 昼食をとったのは寿旅館、たいそうなごちそうであった。わたしはそこで賄いをしているテル子おばさんに会った。おじさんは動脈瘤で入院したが家に戻っているそうだ。だが底抜けに明るかったおばさんは屈託がありそうに見えた。このおばさんこそ加藤織平の曾孫にあたる。わたしが秩父事件に興味を持ったひとつは 子どもの時分、実際に加藤織平の家のかまどのそばで爆ぜ唐黍(ポップコーンみたいなもの)やスイカをご馳走になったことがあるからだ。それは水の底から空を見るようなすこぶる鮮明な思い出である。

 ガイドのSさんと話した。秩父事件にかかわる女性の目で語りたいというと新井千代さんやダイさんの名をあげたが「創作したらどうですか」と云われた。そうかそういう手もあった。資料をあつめ読み進めていくうちになにかがわたしの裡に生まれてくるだろう。「10000人のそれぞれにドラマがあります。わたしは読んでいるうちに涙がでてくる。たった4日間で勝ち負けは決まったが 決してあきらめずに闘い抜いたひとたちがたくさんいる、その雄々しさに打たれます」「だれにいちばん惹かれますか」と問うと「加藤織平ですね、それから風布村の大野....、23歳だったのです、亡くなったというひともいますが生死のほどはわかりません」

 Sさんの目は遠くを見ていた。わたしにできるだろうか、100年前のひとたちの熱い想い、凝縮されたいのちの耀きを甦らせて 語ることができるだろうか。



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 萩寺の藪椿  やぶつばき 寄り添うてあり 夫(つま)の墓 母の句

 祖父母の法事のため早春の秩父路をゆく。母とふたり旅、車で往くのははじめてだった。祖父は県の役人をしながら、畑仕事にいそしみ8人の子どもを育てた。母はその長女にあたる。厳格で自分に厳しく、吝嗇といってもいいほど 無駄を嫌ったが 肝心のときに金を出すことは惜しまなかった。また、困ったひとや親類に援助の手をさしのべ それを驕ることもなかった。

 端整に背広や長着をきこなし 背筋をピンと伸ばして歩いた。祖父の出た家は阿隈という土地でも、アカギレにすりこむ膏薬をその家ほど買う家はないといわれた働き者の一族だった。母はどうみてもファザコンで娘の頃、わたしは父が気の毒だったが今思えば尤もなことかもしれない。

 祖母は吉田小町といわれた美しいひとで商売家に生まれ 蝶よ花よと育てられた。17の年に教育者に嫁したが、夫が泊り込みで校長をしていたため、幾人もの小姑と暮らした、見かねた親が実家に戻ったとき 婚家に帰さなかったという。その後 祖母は祖父とともに小泉の家に夫婦養子となったのだ。亡くなるまで おっとりした品のいいひとだった。

 ふたりからはじまった小泉家は祖父が生まれて107年、4代で72人もに増えた。これからますます増えてゆくだろう。しかし これから祖父ほどの人物が出ることはないように思う。ひととして生まれて 他のひとがそのひとの持てるものを生かして生きてゆけるよう 心を砕き 金やものをつかう それほどのことはない。祖父はそういうひとだった。自分にも子どもにも厳しく、その日あてがわれた仕事をしないでおくと 夜中になってもやらせたという。しかし高校にあがると 一人前のおとなとして扱い やみくもに 怒鳴ることはなかったという。また地域の道路のために自分の畑をつぶし、ひとには優しいひとだった。わたしに欠けているのはその自分への厳しさだとしみじみ思う。



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 女三人リビングで寝ることが多くなった。夕べもWはソファでMはカーペットに毛布で わたしは ストーブの前で 奥の和室の押入れから枕と掻巻を持ってきて寝床をこしらえた。小豆色の棒縞で裏地が赤く 別珍の黒い襟と比翼は手拭が縫い付けてある昔風の掻巻。これはおさだおばちゃんが10年以上も前に縫ってくれたものだ。このひと月は夜中に何度も目が覚めたが 朝まで一度も目覚めなかった。毛布のあたたかさとはまったく違う人肌のような温さだった。「洋子 真綿を二〆つかったからこりゃあぬくいよ」おばちゃんの声が耳元で聞こえる。
 
 末娘は今日 ひさしぶりに学校にでかけた。後期試験の日 学校まで送ってゆく。水気を含んだ風は冷たいが 温かい日が2.3日つづけば花々もほころぶだろう。


 

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