早く目覚めたので 五説経を読み直して見る。愛別離苦 勧善懲悪 もうすこし 今の語りにできないだろうか 照手という名は衣通姫につながる 信徳丸が継母の呪いで カサ病みになり親に棄てられ物乞いをしながら 巡礼する。今は表面上 街中に物乞いはいないから どうすれば若いひとに伝わるだろう。イメージで? 語り手が強いイメージを持てば伝わるだろうか。
子どものころ おこもさんが門付けにきた。おさだおばちゃんは握り飯をわたしたり小銭をくれたりしていた。歩いていても 顔中できものだらけの子どもの手をひいた貧しげな母親が所帯道具をふろしきに包んで歩いていたりした。そこにはある超越した近寄りがたいものがあって 幼いわたしは夜 うなされたりしたのだが、昔は洋の東西を問わず 旅人や乞食には神が宿っているという信仰に近いものがあったのだ。だから 旅のひとを篤くもてなした家やひとに幸いがもたらされるという話がたくさん残っている。
今は牛や豚や鶏をするところを子どもは知らない。乞食も知らない。見せしめの刑罰も当然知らない。ひとが病で死ぬところすらあまり知らない。すべては見えない闇のなかで行われる。現代の生活はうわべは清潔でうとましいことなどないように見える。良し悪しは別にしてそれは幸福なことだろうか。だからひとの心の奥底で闇が蔓延するのではなかろうか。
生も死も聖も穢れも罪も罰も ひとの生きることに関わるすべてを人は知るべきではあるまいか。 五説経を読みながらこんなことを思っていた。できようならば せめて語りで眼前にこの世の光と闇をひろげてみよう、美しいもの清いものばかりでなく。闇があるからこそ光は耀く。
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