遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   師事している水戸茂雄先生のコンサートに行きました。風邪をひいていて辛かったのですが 不肖の弟子としても師のコンサートに行かないわけにはいきません。会場のルーテル教会は新大久保にあります。道中いくつかの心に残るできごとがありました。池袋で目の不自由な婦人が盲導犬と電車に乗り込む際に降りてきた青年と激しくぶつかりました。青年はなにか言いたげにホームのドアの前にたたずんでいたので 思わず「あの方は目がご不自由なのですよ」と教えてさしあげました。青年は「そうだったのですか」と頷いて去ってゆきました。

   その後わたしは婦人と盲導犬が気になってなりません。車内はたいそう混みあっていたからです。ベージュがかった白い大きな犬でした。飼い主のこころづくしか木綿の黄のプリントの胴着を身につけていて、高齢で辛抱つよい目をしていました。婦人が座ると犬は座席の下の婦人ととなりの紳士の足の向こう側に潜り込み前足を前に出して首をその上に乗せました。わたしは長い前足が乗客に踏まれはしないかと心配でなりません。足を怪我したら主人を導くのも辛いでしょう。目の見えない主人はパートナーの怪我に気づくでしょうか。新大久保についたのでどうぞ無事でと祈りをこめて犬を見ると彼はちらっとこちらを振り向きました。

   新大久保のガードをくぐり狭い歩道を急いでいるときダークな眼鏡をかけた中年の紳士に肩が触れました。シャープな背中でした。後ろから「おい その女 待て」とドスの利いた声が追いかけてきます。どうやらわたしはヤクザさんにぶつかったようです。後ろを振り向くと面倒なことになる、ことばも発しないほうがいいと直感したので 無言のまま振り返らず急ぎました。

   ルーテル教会に着くとホールはほぼ満員でした。ネモさんご夫妻と櫻井先生が見えていました。やがて予鈴が鳴り 本鈴とともに水戸先生がリュートを抱えて出て見えました。たいそう生真面目なお顔ですこし緊張した様子で.....わたしは好ましく先生の様子を見ていました。演奏がはじまりました.....

   ....目を瞑り一音一音に耳を傾けているうちに わたしは涙が溢れるのを抑えることができませんでした。なんという精緻さ 完璧さでしょう 音のつらなり 倍音のひびきはまるで調和のとれた寺院のようでした...尖塔 内陣のレリーフ 飾りをほどこした柱が見ている前で顕われ連なり消えてゆく それなのにどの瞬間もこよなく美しい....奇跡のようでした。隣からはやすらかな寝息が聞こえます。眠ってしまうのは心地よいからです。

   昨年10月18日 水戸先生のコンサートがおなじ場所であったとき わたしはすこし眠ってしまい すこし泣きました。いったいどうしたというのだろう.....わたしはしとどに流れる涙を指で拭いながら思いました。こんなに一音一音がはっきり聴こえるのは ビウエラをまがりなりにも弾いてきたせいだろうか....感覚が鋭くなったのだろうか リュートの響きが光のシャワーのように降り注ぎました。

   帰り道 道端に座っているホームレスのおばあさんの掌に思ういとまなく硬貨を幾枚か乗せて手を握りました。その掌のやはらかさとぬくもりがまだわたしの手に残っています。ひとが生きるのはときにはたいそう辛いけれど苦しいけれど それでもわたしたちは憂きこと辛きことを凌ぐものをたくさん与えられているのでした。音は光そのものです。.....声も音なのだから光となりましょう。....憂きこと辛きことを越えてゆく生きる力を呼び覚ます光となりましょう。....どうすれば、いったいどうすれば。.....心身共に、あらゆる制約で縛られて居る人間の、せめて一歩でも寛ぎたい、一あがきのゆとりでも開きたい、と言ふ解脱に対する憧憬が、芸術の動機の一つだとすれば...という折口信夫の一節が浮かびます。



   ちょうど8ヶ月前 わたしは今日とおなじようにふたりの師とおなじ屋根の下にいました。思えばあの日からあたらしい旅がはじまったのです。喜びとそれにつづく苦痛の日々、そしていよいよ決断のときが迫ったことをわたしは帰りの電車のなかで覚りました。暗い窓にときおり街のあかりがつーと走っては消えました。



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.....横死したひとや事故に遭って亡くなられた方に花を手向ける...というよく知られた行為の起源は旅の途中で行き倒れたひと、また餓死したひとに布をかける、布は高価なものであったから木の枝や花々で隠す...ことからきたのだと折口信夫は書いています。それはわたしにとって驚きであると同時に腑に落ちるものでした。なぜなら子どものころ 虫や小動物 (昔は子猫などが道端で死んでいたものです)のなきがらにあったとき草や花をそのうえにのせた記憶があったからです。

   折口信夫(おりくち しのぶ)は日本の民俗学の祖柳田国男と並んで民俗学を近代科学におしあげたひとです。日本の民俗学、国文学の研究者であるばかりでなく釈迢空(しゃく ちょうくう)と号して詩歌もよくしました。自分の足で旅を重ね各地を訪ないまた古今の書物を渉猟しましたが、根底にあったのは古代に生きたひとの心持ちにかえって古代の行事や生活、芸能に思いを馳せることでした。

   沖縄 離島 また本州でもはずれのほうは明治のころはまだ古くからの風習が残ってもいたようです。本来 神祭りとは個々の家々で行われていたのだそうです。その家のおとめが巫女 あるいは妻が巫女でありました。祭とはよき神々を招き入れ悪しき精霊(しょうりょう)に出て行ってもらい ...というようなことであったようです。2月 5月 7月 9月 12月 年に5回 季節の変わり目におおきな祭があったようです。その名残が7月の盂蘭盆会といわれています。

   芸能の起こりはこうした祭でありました。舞踏の舞うも踏むもひとに悪さをする精霊に出てもらいよい神においでいただくことからきたのだそうです。アメノウズメノミコトがアマノイワトの前で踊ったのもそうですし 相撲も神事でした。すなわち鎮魂だったのです。鎮魂タマシズメにはふたつの意味がありました。田遊びはよい作物が実るための神事ですが、田遊びの遊びは古語で鎮魂の意味があるのだそうです。田遊びが田楽に田楽が猿楽に そして能に歌舞伎にというのが芸能の変遷です。

   すなわち 芸能の原点には観客はいませんでした。今もこころある役者は舞台にあがるまえに一礼しますが 芸能の原点は神を降ろすことであり、その場にいたのは神と当事者たるひと..だけだったのです。芸能が鎮魂...癒しであり魂振い 魂を生き生きとさせる....というのにはこのような由来があったのでした。

   100人村の池田香代子さんもどこかで語りとは鎮魂であると言ってらした記憶があります。この鎮魂... タマシズメとタマフルイは幼稚園でも学校でも公民館でも....およそどこでも求められていることかもしれません。本や芸術とかを越えてもっと人間の本源的なるものかもしれません。.....そのことはわたしに大地から足裏に響くような勇気と天と見えない糸でつながっているような希望をあたえてくれます。

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